バンは<豚の帽子>亭の階段をのぼる。団長と王女の部屋を通り過ぎ、さらに階段をあがった先にある扉を足で蹴り飛ばした。 キングとの相部屋は、バンのいい加減な性格が災いして散らかり放題だ。それでも、酒瓶の転がった床を歩くバンの足取りに迷いはない。たどり着いた空っぽのシングルベッドの上に、バンは大切に抱えていたものをそっと寝かせる。枕に散る金の髪、シーツよりなお白い、服のひだが甘い香りと共にふわりと広がった。 バンの腕からベッドへと移った、小さな彼女は昏々と眠り続けている。 「エレイン……」 バンは優しくその名を呼ぶ。閉じた瞼は、生えそろう金の睫の先までピクリとも動かなかった。
I Want It All
『助けて……バン……!』 夢に現れた愛しい妖精は、悲痛な声でバンに助けを求めた。彼女のいる死者の都が、<忌まわしき魂>と呼ばれる存在に蹂躙されようとしている。一も二もなく求めに応じたバンは、彼女の兄のキングや仲間たちと共に再び死者の都に足を踏み入れた。 だがそこからが問題だらけで、バンたちをここまで案内したエレインもまた<忌まわしき魂>の虜となって彼らと敵対した。うつろな瞳と声で恨み言を重ねる彼女をどうにか捕まえ、バンの腕の中で眠りに落したのがつい先ほどのことだ。 バンのベッドに横たわるエレインは、やはり眠ったまま。その傍らに腰を下ろして、バンは彼女に手を伸ばした。生と死に別たれているはずの彼女の頬に、バンの指はたやすく触れられる。指の背でなぞる感触は懐かしく、夢にまで見た彼女そのものだった。 積年の想いが実るこの瞬間に、しかしバンの眉はひそめられている。恋しい彼女の姿はこんなにもはっきりと見え、バンの手にそのぬくもりを伝えてくると言うのに、それは今回もまたバンに限っての話であるらしい。彼女に関して仲間たちがバンに通訳の役目を期待する度に、バンは彼女がこの世の者ではないこととのギャップに苛まれていた。 エレインはここにいる。だが、生きてはいない。それにもかかわらず、触れられる。混乱は極まるばかりだ。 事実と幻想を混同しそうになる危うさに、バンは自らエレインから手を離した。するとまるで見計らったかのように、部屋の前に新しい気配がした。バンが蹴り破ったドアを音もなくくぐれるのは、気配の主が宙を浮いているからだ。このだらしのない部屋の惨状に、同室者の彼が耐えていられるのもその能力のおかげだった。 床に散らばった酒瓶をよけるでもなく、キングはその上をふよふよと移動する。バンの背後から、彼は妹の眠るはずのベッドを見下ろした。 「エレインは、そこにいるの?」 「ああ」 「眠ってる?」 「ぐっすりな」 バンの返事に、キングがほっと胸をなでおろすのが振り返らずともわかる。そんな現状に、バンはクッと笑みを漏らした。脈絡のないバンの笑いにキングが訝しむ。 「俺は頭がイカれてんのかね」 「今更気づいたの?」 「兄貴のお前にも見えねぇモンを、いるって言ってんのはさすがにな」 エレインの姿が自分にしか見えないと言うのなら、それば幻と同じではないのか。知らないうちにチキン・マタンゴの幻覚胞子でも吸いすぎたか。そんなバンの自嘲にキングは呆れた声を返した。 「なんだ、そんなこと」 そしてキングの呆れには、苛立ちの粒子が含まれている。 死者の都において、死者の姿を見るには死者と互いに想い合う絆が必要だ。妹の姿が見えないキングは、妹と気持ちが繋がっていないことをバンに揶揄されたように聞こえるのだろう。バンの言葉を否定しにかかる、キングの声には憮然とした響きがこもる。 「オイラにだってエレインの気配はわかる。声も聴いたよ。キミだけじゃない」 「お気遣いドーモ」 妹が絡めば、人間嫌いの妖精王様も慈悲深くなる。よりにもよって妹の想い人が、クソな人間の中でもクソ扱いされてきた最低野郎だとしてもだ。バンは皮肉を隠さずに哂った。 「なんだか、落ち着かないみたいだね」 挑発的なバンの態度に、しかしキングは食って掛かるどころか沈着としたままだ。おまけにバンに踏み込んでくる余裕まで見せてくる。 「キミならエレインの姿が見えることを、もっとオイラに勝ち誇るかと思ったのに」 ルイジとエレンによって導かれた死者の都で、キングがバンを石化させることも厭わなかったのは記憶に新しい。キングの復讐心を、他ならぬエレインが破ったことも。エレインとバンのやりとりに、キングは割って入ることも叶わず傍観者となり果てた。 憎悪、嫉妬、羨望、情愛に哀惜。エレインを介して、バンとキングの間に交錯する感情は複雑怪奇を極める。だが今は、バンの不安定さがキングの思考の温度を一定に保っているようだった。メリオダスやディアンヌを前にした彼とは違う、キングの「兄」の顔が前面に現れている。 「まさか怖気づいてるんじゃないだろうね」 エレインは確かにここにいる。そして、彼女の意識は<忌まわしき魂>の干渉によって深い眠りにつかされている。助けを求めてきた彼女を奪い返すことに迷いはないはずだと、キングはバンの揺らぎを睨めつけていた。 キングの舌鋒はバンの急所のど真ん中を突いていて、そのあまりの狙いの良さに、バンはうっかりと言うべきではないことを口にする。 「このままでも、いいんじゃねぇかって……」 まるで叱られるのをわかって、無茶な言い訳を紡ぐ子どものような気分だった。キングが見せる兄の顔に、バンの捨てきれない幼さが感応していた。 エレインはここにいる。例えバン限定であろうとも、姿も見え声も聞こえ、手を伸ばせば触れることさえできる。生きている彼女と何が違うと言うのだろう。このまま<忌まわしき魂>との対決をうやむやにして死者の都に留まることが出来たなら、バンは生きているのと何ら変わらないエレインと共にあれるのだ。 『会えてよかった』 水晶の風景で聞いたエレインの声と、そこに添えられたはにかんだ微笑み。思わぬ形で彼女との再会を果たしてしまったバンの、心の弱さがそそのかす。 「このままでも……。どうせ……」 このままでもいいじゃないか。どうせ、この戦いを終えれば、またバンはエレインと別たれる。死という堅牢な城壁が、彼女をバンから連れ去ってしまう。いつか必ず、と誓った言葉が空々しく聴こえるほど、そびえる壁は分厚く手強い。 ルイジとエレンの導きがあった時は良かった。バンはあの言葉をエレインに伝えたい一心であったから、それ以上の何かを望む余裕もなかった。そしてバンの誓いを受け取り、ありがとうと返してくれた彼女への愛しさを再確認すれば、バンの世界に色が戻る。だがそれは一時のことにすぎなかった。
エレインがいない。
再会を果たそうと、想いを伝えようと、厳然たる事実がバンから世界の色彩を奪っていく。次第に色を忘れていく世界に、ひとりさまよい続ける恐怖をわかってくれる者はいない。 今回はどうだろう。この戦いを終えたあとに訪れる三度目の別れに、果たしてバンは耐えられるだろうか。厳しい現実に挑むよりも、眠る彼女の傍にいてられる今のほうが……、そう心が大きく傾いた、まさにその時だった。 「エレイン人形なら、間に合ってるんじゃないのかい」 キングの声は、やはり鋭利な刃物となって、死なないはずのバンの心臓を一突きにした。バンへの憐憫を隠さない妖精王は、彼がときおり見せる絶対零度の眼差しでこちらを見下ろしている。彼の声音が、見ずとも彼の白眼視を伝えてくる。 キングの言葉にバンはうっそりと顔を上げた。ベッドサイドの酒棚を見上げれば、エレインの似姿をした人形と目が合う。 「それともキミは何? オイラの妹でお人形遊びがしたいわけ? 気持ち悪いことはやめてくれる?」 キングの、情けに満ちた罵声は一切の容赦なくバンの胸をえぐり、傷の残る頬を打つ。正しさゆえに、それはとても痛かった。 リオネスの時代から、あの人形はバンの慰めだった。けれど所詮は綿と布でできた何かでしかないのだと、誰よりも知っていたのはバン自身ではなかったか。 戯れるならせめて生き返った妹とにしてくれと、訴えるキングにバンは尋ねる。 「『お兄ちゃん』は、こいつと俺の仲が気に入らねぇんじゃなかったっけか?」 「ああ、その通りさ。でも、エレインが助けを求めたのはキミだ。悔しいよ、素直にね。だからこそ、キミが逃げるなんて赦さない」
逃げるかよ。
ほとんど脊髄反射の勢いで、バンの心が唸る。エレインが現れたのはキングの夢ではなく、他の誰でもないバンの夢だ。彼女に求められている自負が、この死者の都での戦いでバンを支えている。萎えかけていたはずの何かが、バンの中でむくりと頭をもたげていた。 「妹から、逃げるなよ」 妹との仲を認める、唯一の条件をキングはつきつける。バンの頭に立ち込めていた靄が、強い風に吹かれたかのように散っていった。 バンは、眼下で眠る愛しい彼女に目を落し、自問する。答えはすぐに自分の中から返ってきた。 ただ眠り続けるだけの、エレインに用はない。死者の都に、魂だけで留まるエレインでは足りない。バンが欲しいのは、満たされるのは、生きて笑って自分の隣にある彼女だけだ。 誰かにお膳立てされた、鳥かごのような死者の都などクソくらえだ。引き留めることも縛られもしない、自由にあれるバンの世界に彼女を取り戻すことがバンの本懐であったはず。 死者の都で巡り合った、生ぬるい僥倖。その心地よさに忘れかけていた何かをバンは思い出し、エレインに触れていた手で今度こそ見失わぬようきつく握り締めた。
いつか必ず、俺はエレインのすべてを手に入れる。
「弱気なきみなんか見たくないね」 まるで一方的に殴られ続けられるような、言葉の矢嵐。不本意にも喝を入れられた形のバンは、自分の中で徐々に不快感がたまっていくのを感じた。だがそれは先ほどまでの、揺れる決意にふりまわされるおぼつかなさとは一線を画す。クソみたいな人生に唾を吐きかけてきたバンの、反骨精神を目覚めさせるエネルギーだ。 「エレインに言いつけるぞ」 極めつけの叱責に、バンは口を醜悪な笑みの形に歪めた。いつもの食えない悪党面がよみがえる。同時に先ほどからふつふつとわき起こっていた不快感が、背後から自分を見下ろす彼への怒りに姿を変えた。
偉っそうに……!
妹の姿も見えないくせに、何がキングを驕らせるのか。兄だから? 妖精王だから? いずれにせよ、どこまでも上目線な義兄に言われっぱなしというのは趣味ではない。
逃げるだと? この俺が? エレインから?
「誰に向かってモノを言ってやがる……!」 バンは確かめたばかりの決意で、キングを叩きのめすべく口を開いた。
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