恋する女の子の瞳って、シロップ漬けのフルーツみたい。
Angelica
「あんなにおいしいケーキがこの世にあるなんて、ボク知らなかったよ」 エレインの誕生日に、バンが用意したケーキを想ってディアンヌはため息をついた。 ラズベリー、クランベリー、ブルーベリー、エルダベリー、マルベリー、ビルベリー、サスカトゥーンベリー、それからイチゴ。これでもかというくらい、エレイン好みのベリーを乗せて、白い天使の羽みたいな砂糖菓子を添えて、お披露目されたのはいわゆる少女趣味200パーセントのバースデーケーキだった。これを丹精こめて作ったのがバンだと知れば、そのギャップに卒倒したくなるほど、全体的にピンクピンクしたケーキはきらきらと輝いていた。 まるで魔法使いね。生まれて初めてのケーキ、しかも恋人お手製のバースデーケーキに、主役のエレインはケーキに負けないくらいきらきらとした瞳でバンを見上げた。感極まった彼女の様子に、バンはかけらも照れることなく、さっさと食えと最初の一口を勧めたのだ。 その場を囲んでいたディアンヌたちもお相伴にあずかった。エレインがひとりじゃもったいないと言ってくれたのだ。ケーキを一口ほおばったとたん、コケモモベースの甘く幸せな味に誰もが恍惚となった。おいしすぎてほっぺが落ちるとはこういうことか。まさに、あのケーキは「バンの本気」だった。 「エレインは大変だね。最初に食べたケーキがあれじゃ、その辺のお菓子屋さんじゃ満足できないよ」 あの時の感動はまだ舌が覚えている。頬杖をつくディアンヌに、向かいのエレインはふふ、と微笑んだ。 「私のケーキは、バンが作ってくれるから心配ないの」 「わぁ、ごちそうさま!」 今のはノロケってやつだよね、とディアンヌは目を見開いて笑う。バンのことを口にするエレインからは、テーブル越しにも甘い匂いが漂う。恋する彼女は、まるでマラスキーノだ。 バースデーケーキの好評を受けて以来、バンはほぼ毎日のようにエレインのためにケーキやお菓子を作っている。ティータイムのおしゃべりで、エレインはバンから聞きだした作り方や隠し味についてディアンヌたちに話してくれた。おかげで、ディアンヌもお菓子作りなどしたこともないくせに、にわかに製菓用の材料やお酒に詳しくなってしまった。 お菓子の香り付けにはまずラム酒、それからリキュールがよく使われていて、種類も豊富。アニゼット、マラスキーノ、コワントロー、グランマルニエ、キュラーソーに、アマレット。マラスキーノは、チェリーのお酒だ。きっとあのバースデーケーキにだって使われていたに違いない。 エレインのためのものなら、バンはどんな手間隙も惜しまない。およそ献身なんて似合わないあの男が、だ。それだけじゃない。エレインと二人で見つめ合っているときのバンは、まるで少年みたいに無防備になる。そんな彼を、エレインもまた潤んだ瞳で受け止める。寄り添う二人を初めて目の当たりにしたとき、ディアンヌはなんて素敵な光景なんだろうと息を飲んだ。恋人たちの逢瀬を覗き見している意識も、罪悪感もふっとんで、余計なもののない完成された二つの影をいつまでも見つめていたいと願ったほど。 「太っちゃうわって、バンには言ってるんだけど」 いつかボクもあんな風に。ディアンヌにそう憧れを抱かせる少女の華奢な腕は、太る心配とは無縁だった。 「エレインはちょっとくらい平気だって!」 マーリンの魔法薬の力も借りて、サイズを合わせたディアンヌが、エレインとこうして膝をつき合わせて言葉を交わすことは珍しくなくなった。エリザベスもよく同じ輪にいる。けれどここ最近は、エレインと二人きりになることが多かった。向かい合っておしゃべりに花を咲かせる二人が、義理の姉妹にあたると知る人は少ない。 ふふふ、なんだか照れくさい。とディアンヌは笑顔がこぼれるのを抑えきれない。例のケーキを作ったバンが義理の弟になることを考えると、なおさら笑顔がはちきれそうだ。 もう100年会わなくてもいいと思っていた男が義弟! わぁ、ボクびっくり! 「私ね、ディアンヌにずっと言いたいことがあったの」 ディアンヌが心の中ではしゃいでいるうちに、居住まいを正したエレインの幼くも美しい顔がこちらに向けられていた。なぁに、改まって。と、ディアンヌはこてんと首をかしげる。まっすぐなダークブラウンが、さらりと音を立てて背中を滑り落ちた。 「700年前、兄さんを助けてくれてありがとう。500年間、彼のそばにいてくれてありがとう」 言い終えたエレインは、まるで肩の荷を降ろしたようにほっと息をつく。いじらしい姿が、ディアンヌの心をきゅっとつねる。 ディアンヌは頬杖を解いて、手を膝に置いた。 「ボクはてっきり、君には恨まれてると思ってた」 エレインが孤独に耐えていた長い長い歳月。原因となった兄は、彼女を忘れ、見ず知らずの少女と幸せな日々をすごしていた。こうして向かい合わせで笑っていても、親しげに言葉を交わしていても、彼女の心の底には、彼女の兄やディアンヌへの暗い気持ちが横たわっている。 「本当を言うとね、恨んだわ」 そう、覚悟していた。 「でもそんな気持ちも、バンが奪っちゃったの」 また、マラスキーノの匂いがする。甘ったるい、チェリーの香り。つらく寂しく苦しい700年の果てに出会えた恋が、彼女にそんな匂いをまとわせる。 「私ってひどい子よ。ヘルブラムは500年苦しんで苦しんで、たくさんの人間が死んで、同族もそう。兄さんも身を切られるような想いをしたんだろうに。私は、それもいいじゃないって言いたくなるの。兄さんはディアンヌと出会えたんだから、ヘルブラムは兄さんに救われたんだから。私だって、バンに出会って救われて、良かったって思っちゃいけないのかしらって考えちゃうの」 エレインの小さな口からよどみなくこぼれる言葉は、マラスキーノの甘い匂いと同じくらい甘美にディアンヌの心に沁みた。そんな見方もあるのか。過去を美化する戯言と、死者を冒涜する考えだと受け止められるかもしれないけれど、生きている者が前を向くためには必要とされる甘さもある。 そしてエレインの思考を、甘いシロップ漬けにしたのはバンなのだ。 「そんなに、バンが好き?」 過去を歪めてしまうほど。歪めたあげく、すべてを赦してしまえるほど。 エレインは、ディアンヌの目をまっすぐ見つめて口を開いた。 「好き……、大好き」 誓いの言葉を述べるような、エレインの張りつめた声にディアンヌはかつてのエリザベスを思い出した。 好きなひとへの想いを尋ねたとき、エリザベスも同じ言葉をディアンヌに返した。あのときのエリザベスは、まるでコンポートされたピーチみたいだった。フォークで刺そうものなら、触れた先から崩れ落ちて、流れるシロップの隙間から湯気とともにむせ返るような甘い匂いを撒き散らす。 完成された球体を壊してしまう罪深さを嘆きながら、なお口に運ばずにはいられない。メリオダスへの想いを口にした彼女は、とても蠱惑的なスイーツだった。 恋しているひとのことを語る、女の子の瞳はとても綺麗だ。ボクもそうかな。ディアンヌは心の中でつぶやく。キングがいなくなったらどうしようと、エリザベスの前で泣いてしまったときのボクも、こんな目をしていただろうか。コンポートされたピーチとまではいかなくとも、ケーキの上に乗ったアンゲリカやドレンチェリーくらいにはなりたい。 バンを想ってチェリーを香りたたせるエレインのように、キングを、ハーレクインを想うとき、たとえばオレンジの風味漂うグランマルニエの香りをボクはふりまけているだろうか。 「ボクは不思議」 今度はエレインが首をかしげた。内から光を発するような金髪がきらめく。 「君とバンのこと。君は妖精族のお姫様で、バンは人間の盗賊だった。君たち、まるであべこべなんだもん」 「そんなのはただのうわべよ」 「でも嫌じゃないの、バンが人間でも。人間なんて嫌な生き物だって、ボクは昔から思ってたよ」 この世で最も恐ろしい生き物は、自分に正義があると信じたときの人間だ。他者を糾弾する大義名分を手に入れたとき、他種族から惰弱とさげすまれてきた人間は何よりも残忍な生き物へと変わる。 「君だって、知ってるはず」 彼らは集団で狩りをする。人狼、狐男、妖精族に、時には巨人族まで。彼らは迫害し、奪い、騙し、弄ぶ。一体どれだけの者たちが、魔神族女神族なきあと、人間のいう「正義」に葬られてきたか。 「そうね」 今でこそ人間もそれぞれ、大切なのはカテゴリーではなく向かい合う個人なのだとわかるディアンヌも口が重くなる。700年の長きにわたり、ひとり人間の業と戦い続けた妖精族の姫もまた、彼女の主張を認めた。 「だけどバンは、自分が正しいとは決して思わない人だわ」 バンの過去をディアンヌはあまり詳しく知らない。それでも察すること、エレインから聞き及んだ部分もある。掃き溜めのような街で生まれ、愛されることも守られることもなく育ったバンは、手足が伸びきるまで常に虐げられる側にいた。生き残るため、奪うことを選んだ彼は自分に正義がないことを知っている。自分の強欲な性が、誰かの目に醜く映ることをわかっている。 彼が唯一「悪」と断じるのは、メリオダス以外の魔神族だ。エレインを手にかけたからという、ひどく個人的な理由もまた正義とは無縁だった。 「だから好き」 バンは決して大義名分に豹変しない。酒に酔いつぶれても、彼は決して正義に酔わない。そして彼は、醜い自分を受け止めてくれる存在を求めている。時にそれはメリオダスであり、ホークやキングだった。 「今はそれが私なの」 醜さを愛し、正しさを示してくれる存在にバンは真摯にひざまずく。彼がエレインに捧げた、純粋すぎる恋情はまさに信仰の域に達していた。 「私以外に、いないの」 エレインは、自分に敬虔なバンを愛している。確信とともに告白するエレインは、見た目どおりの幼い少女ではなかった。 「ほらね。いやな女の子でしょ、私。バンは私のこと天使か何かだと思ってるみたいだけど、これが本当の私なの」 マラスキーノがアーモンドの匂いを潜ませるように、いとけない外見とは裏腹な、1000年のときを生きた聖女に、ディアンヌはペッパーミントとレモンピールを同時に口の中で噛んだ思いがする。苦くて、冷たい、背筋がすっと伸びる味。 「君は妖精王の森の聖女でしょ?」 「こんな不純な聖女ってないわ」 人目にはバンがエレインの心を奪ったように見える。でももしかしたら、このものすごく長命な女の子が仕掛けた巧妙な恋の罠に、捕まってしまったのはバンの方なのかもしれない。だとしたら、たかだか40年ぽっちしか生きていないバンに、勝ち目などあるはずがなかった。 微笑むエレインは、もう小さな女の子に戻っている。ディアンヌも知らずこもっていた肩の力を抜いた。 「ハーレクインが聞いたら、泣いちゃうよ」 「だからディアンヌに打ち明けてるの。ガールズトークは男子禁制なんだから」 ふふふ、とまたしてもエレインは笑う。ほころぶ口元を小さな手で押さえて、細めた瞳はうっとりとした光をたたえている。バンがどれだけ好きか、ディアンヌとハーレクインの話にかこつけたエレインの打ち明け話は、とっておきのお菓子みたいにおいしくて、罪深い味がする。恋する女の子は、その存在だけで大罪だ。 バンは、ハーレクインは、恋されている側の彼らは気づいているだろうか。自分を好きだと、人に告げる女の子のきらきらした瞳に。恋のお酒に浸された瞳の中で、ゆらゆらと燃え上がる不思議な色の炎に。 好きな男の子のそばにいるとき、女の子は世界一おいしそうなケーキになる。そのケーキの前で、男の子は度胸を試される。「Eat me !」なんてカードまで添えられていて、怪しさ満点。でも男の子はそんな危険にそそられる生き物だ。 食べちゃったらどうなるかな? 大きくなりすぎて外に出られなくなるかも? 小さくなりすぎて鍵に手が届かなくなるかも?
Eat me !
『ボクをずっと好きでいて』 この言葉を渡したとき、ハーレクインはその先のことなんて何も想像していなかったはずだ。でもきっと、とディアンヌは思う。たとえ二人が離れ離れになる未来をつきつけられても、彼はディアンヌの願いを引き受けてくれたに違いない。 だから好き。 そう信じさせてくれる、ハーレクインがボクは好き。 エレインがバンに寄せる想いに、ディアンヌの気持ちは絶対負けない。
Eat me !
一体バンは、エレインのどんな誘惑に引っかかったのだろう。死が二人を別つと知っていても、ハーレクインと同じように、彼もまたその罠を前に二の足を踏んだりしない。それがわかっているから、エレインはあんな甘い匂いをふりまけるのだ。 とってもかわいらしくておいしそうな、女の子の危険が男の子の好奇心を誘う。尻込みなんて男らしくない。例え不死身の体になるとしても、200年の片想いを強いられることになるとしても、平気な顔でぺろっと平らげる男の子こそかっこいい。 だから好き。 エレインはバンが、ディアンヌはハーレクインが、だから好きなのだ。 「あべこべって言うなら、ディアンヌと兄さんも人のこと言えないんじゃないかしら」 「そうかな」 「それもきっと、うわべだけの話なのね。私、兄さんがディアンヌを好きなる気持ち、少しはわかるつもりよ」 エレインとの付き合いはまだそう長くない。でも、ディアンヌを手放しでほめてくれるところは兄妹なのだなぁとディアンヌを喜ばせた。 「じゃあ、エレインも聞いてくれる? ボクの打ち明け話」 少し前なら、こんな話はエリザベスにしかできなかった。でもディアンヌの恋はディアンヌだけのもので、そこに含まれた苦い味でさえ他人の押しつけるには重すぎた。だから、エレインが始めてくれた告白と、今日この場で相殺しよう。 「あの500年の間、ボクはずっと、ハーレクインがいなくなるのが怖かった。彼には遠い場所に残した、大切な人がいるって気づいてたから。気づいてたのに、ボクはハーレクインがずっと思い出さなければいいと思ってた」 ボクっていやな子だよね、とディアンヌはエレインの真似をする。エレインはゆるゆると首を振った。彼女の金髪の毛先がぱさぱさと彼女の頬を撫でる。 「私も怖かった。バンが森を出て行っちゃうことが」 女の子が話好きなのは、いい思い出もいやな思い出も、口にして、言葉に、音にして、聞いてもらうことで、甘いプラリネに変えることができるからだ。ときおりひとりで取り出しては、カラメルでコーティングされたそれをこっそりと噛みしめる。甘さの中に隠した、苦かったり、香ばしかったりするものを味わって、再び自分の中に取り込むために。 その作業が、女の子の恋する瞳を磨いていく。甘い匂いをまとわせていく。 「ボクたちは今度こそ、好きな人をちゃんと捕まえておかなきゃいけないね」 シロップ漬けされたフルーツみたいな瞳は、そのためにあるのだから。 「もう、逃がしてあげないんだから」 違ったリキュールの匂いをふりまいて、義理の姉妹は同じ野望を抱えて笑う。 「またね、エレイン」 「ええ、ディアンヌ。兄さんによろしく」 すっかり落ち着かなくなってしまった二人は、お茶会をそそくさと終わらせる。いそいそ支度を整えて帰るエレインをディアンヌは見送った。 バンの元にたどり着いたエレインは、彼の膝にすわって抱きしめられるのだろう。バンを見つめてとろける彼女は、きっとカスタードクリームそっくりだ。 そしてディアンヌも、ハーレクインの元へ急ぐ。離れていたのはエレインとのおしゃべりの間だけなのに、ハーレクインの愛し方がもう恋しかった。きっと彼の方法は、バンがエレインを愛するやり方と違うのだろう。それでいい。それがいい。だって、ハーレクインはディアンヌ専用だ。 『私以外に、いないの』 ボクだってそう! ハーレクインだって! ディアンヌは飛ぶように走る。ハーレクイン、ハーレクインっ。君の隣に座って、ボクは君の肩に頭をあずけたい。エレインがバンのカスタードなら、ボクはハーレクインのマジパンになるよ。 「ハーレクインっ」 好きなひとの名前は、口ずさむだけでとても甘い。その甘さを、ディアンヌだけが味わえる。 ハーレクインはいつだって、ディアンヌをかわいいといってくれる。でも彼が息をつめて言葉を失うくらい、とびっきり「かわいい」存在にディアンヌはなってみたい。見つめ合うバンとエレインに負けないくらい、余計なものも足りないものもひとつもない、素敵な光景を二人で作り出したい。 エレインとのおしゃべりは、そのための大事な大事な下ごしらえだ。 「いま帰るよ、ハーレクイン!」 ディアンヌは息を切らせていた。一刻も早く大好きな彼のためだけの、甘くてかわいいお菓子になりたかった。
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