「あの雲の上に、お城があるのよ」 小さな妹は、そう言って笑った。
キリアの城
蝶の羽をゆするよりもかぼそい息が、うすいピンクの花びらのような小さな唇からもれ出ている。アルモカの葉ずれに、たやすくかき消されてしまうかすかな音に、バンはじっと耳をすませていた。 エレインは眠っている。生命の泉をたたえた水辺の、主のごとく大きな顔で横たわる倒木に身をあずけている。この大木が倒れたのは、一体何百年前のことだったのだろうか、とバンは大木の巨大な亡骸を見あげた。命の尽きた巨木の幹は、それ自体、乾いていて、とても硬かった。だがその樹皮に刻まれた無数の溝は、雨をたくわえる。雨水を糧に生した苔と微小なキノコがさらに水をたくわえ、もはや洞となった幹全体をしっとりと湿らせている。 水あるところに、命あり。 巨木のなれの果ては、この森に住む小さな動物たちの水場であり、さらに極小な生き物たちの我が家だった。そして巨大な我が家に、妖精族の聖女もまた身をあずけている。彼女にとっても、この幹は大きすぎた。ましてや、彼女が守らなければいけない妖精王の森の広大さは言うまでもない。 「あなたたち人間に理解れとは言わないわ。でも、この『生命の泉』がなくなれば、この森はすべて枯れ果ててしまうのよ!」 頑なに森を守ろうとする、彼女の硬い声がよみがえる。せっぱつまった、どこか虚しさがひそむ声音。そこにバンはしっくりと来ないものを感じて、生命の泉を諦めることにした。眉唾物の伝承より、目の前の彼女の方に、彼の興味はずっとつよく引き寄せられたからだった。 その彼女が今、眠っている。白いデコルテを無防備に晒して、バンが傍らに腰を下ろしても目覚めることもしない。随分信用されてしまったなと、バンは胸の内側を撫でられるくすぐったさに口角をあげた。 「よっこらせ……っと」 安らかに眠る彼女と並んで、倒木の幹に背中をあずけると、例のお宝が目に入った。飲んだものに、永遠の命を約束する妖精族の秘宝は、一見チャチな杯からこんこんと水を湧きたたせている。杯の足元に溜まった水は池ほどの大きさがあるが、魚一匹泳いでいないことをバンは知っていた。生き物が住めない。それなのに、この水は森の命の源であるらしい。 この時、体をあずけていた倒木から、バンめがけて水が一滴したたりおちた。苔が含みたくわえた、いつぞやの雨水は冷たくバンの襟足を濡らす。その冷たさに、一瞬びくりと目を丸くしたバンは、森からのささやかないたずらに笑った。 「水は水でも、えれー違いだな」 その声に、今度はエレインが反応する。息の乱れ、ほんの小さな吐息のあとに、彼女の華奢な体が身じろぎをし、閉じられた瞼がわずかに痙攣する。一連の変化をじっと見つめていたバンの視線の先で、ついに彼女の長い睫が揺れて、蜂蜜色の大きな瞳が姿を現した。 「おはよーさん」 「バン……? なに、してるの?」 覚醒しきらない、間延びした反応がいつもの彼女らしくなくて、バンは面白いものを見たと笑みを深くした。隣りあった肩を傾け、油断しきった耳元に囁く。 「お前の寝顔見てた」 いい顔してたぞ、とつけ足して、顔を覗き込むと彼女の頬が赤い。コケモモの実か、それとも日の光をたっぷりあびたアルモカの葉みたいだとバンは思った。 「どうして……そんなこと……」 熱っぽい頬をした彼女は、寝ぼけているのとは違う雰囲気で、言葉をたどたどしくした。何か照れているのはわかるが、その理由がわからない。彼女といると、そんなことが多い。バンを見て、バンの言葉に、行動に、彼女が見せる反応のほんの表面的なことしか、バンには読み取れない。彼女が人間ではなく、妖精族だからだろうか。人間には極めて有効な自分の読心術が、彼女の前ではいつだって絶不調だ。 それで問題ない、ともバンは思う。心が読めなくたって、うまくやれる。エレインに抱く、そんな期待がバンには嬉しかった。彼女の前では、正直でいても、思ったままを口にしても、石を投げられたり罵られたりしない。ありのままでいることを、むしろ彼女は歓迎してくれる。 だから今も、バンはあるがままの心を彼女に打ち明ける。 「妹のこと、考えてな」 バンの告白に、エレインの瞳が丸くなる。まるで琥珀かトパーズみたいな輝きに、時間もろとも閉じ込められたいと思ってしまう。 「……妹」 元気のない声色と伏せられた瞼は、彼女の落胆を物語る。彼女は何かに期待をして、それを打ち砕かれてしおれている。それなのに、やはりそうなる理由がバンにはわからなかった。 「バンって、お兄ちゃんだったのね」 エレインの声のトーンが、不必要に高くなる。無理に気持ちを上向かせようとしているのがわかって、何かいけないことを言っただろうかとバンは胸の内で首をかしげた。 「ろくでもねぇ兄貴さ」 お前の兄貴と同じで、とはつけ足さなかった。賢明な選択に、バンは自画自賛する。 「ずーっと昔に死んじまった。年も取れねぇで、良いことも楽しいことも、何も知らねぇで」 「似てるの? 私に?」 バンの妹の生死よりも、そこに食いつく彼女にバンは少し驚かされた。生命の泉の尊さを説いたときとは異なる、けれど、同じようにせっぱつまった響きが不思議だった。 「違ぇよ」 否定したのは、嘘ではない。しかし、この否定に、彼女が喜べばいいと思ったことも本当だ。妹と似ているわけではない。バンのこの反応が、彼女にとってどういう意味を持つのか、やはりわからないままだったけれど。 「似てんのは、人形。アイツが大事にしてた」 満ち足りるということを生涯知ることがなかった妹の、それはたったひとつの持ち物だった。そしてたったひとつの、宝物だった。 「白い服の、女の子の人形だったのね」 エレインの質問に、バンは首を振った。妹がよく引きずっていたその人形の姿をバンはまだ覚えている。白い服なんて着ていなかった。金髪でもないし、女の子ですらなかったかもしれない。性別が判然としないのは、人形の下半身がなかったからだ。いつも腹から綿がむき出しだった。 「じゃあ、どこが似てるの?」 エレインの疑問は当然だった。そしてバンも、どうしてだろうと首をかしげる。けれど眠る彼女を見つけたとき、確かにバンはキリアの人形のことが頭に浮かんだのだ。そうして彼女に引き寄せられ、眠りを妨げるかもしれないと危惧しながらも傍らに腰を下ろした。それから、この大木と生命の泉のことを徒然に頭に巡らせていた。 「変な、バン」 口を押さえて、彼女が笑う。手で口元は隠れているのに、その唇が弧を描いていることは間違いなかった。眇められた、綺麗な瞳の色が彼女の微笑を何よりも物語っている。綺麗な目だ。雲の隙間から地上に差し込む、光そのもののような眼差しに、バンはしばしこの世の憂さを忘れて息を飲む。 そして、 「思い出した」 目を瞬かせて、バンは言った。エレインは、微笑みをひっこめて首をかしげている。 「お前が、キリアの人形に似てる理由」 「バンの妹は、キリアって言うのね」 エレインの合いの手に、バンは頷いた。 「その人形で遊んでるとき、アイツは、キリアはいつも言ってたんだ。『あの雲の向こうに、お城があるのよ』って」 今は亡き、妹の甲高い声がバンの耳にリフレインする。その声を紡ぐ言葉を追って、バンはなるべく正確にキリアの夢物語を模写しようとした。 「その城は、でっかくて、綺麗で、寒くも暑くもなくて、雲の上だから冷てぇ雨も雪も降らねぇ。いつだって、晴れたお日様や、満天の星空が窓から見える。ブリタニアのどの城より立派だって言うんだ。……城なんざ、いっぺんも見たことねぇくせによ」 バンの語りに、エレインは口を挟まなかった。じっと、バンに妹のことを思い出させた、その木漏れ日のような瞳を彼に向けていた。 「城には、キリアの好きなものがたくさんあった。人形もぬいぐるみも、どこも破れてねぇ、リボンのついた新しい服も。食いモンだってもちろん食べきれねぇくらいある。他に住んでるやつらも子どもばっかで、どいうもこいつも、キリアに笑って『遊ぼう』って話しかけてくる」 みんな仲良しで、楽しくて、笑っている。誰も泣いたり、いじめたり、怒鳴ってぶったりすることもない。それが、キリアの夢見た城での暮らしだった。夢の中でしか、手に入れられないものばかりだった。 そんなキリアの理想郷には、たったひとりの大人がいた。 「白いドレスを着た、綺麗な女だ。そのひとは、見ず知らずの俺やキリアを優しく迎えてくれる。体もロクに洗ったことのねぇ、汚ねぇ俺らを抱き締めるそのひとからは、すげー良い匂いがするんだと」 そのひとは、キリアとバンの額にキスをして、むずかる二人に美しい声で子守唄を歌ってくれる。そうしてまどろむ彼らの耳に、愛していると囁いてくれるひとだった。 白いドレスの彼女へのイメージを語りながら、キリアはいつも上半身だけのボロ人形を撫でていた。そんな夢のお城がどこかにある、きっとあの雲の上だと、キリアは貧しさの中で、それでも空を見上げて笑っていた。 バンは息をついた。倒れた木の幹に頭をあずけて空を見上げる。あの頃の、妹と同じように。 「結局その城に、キリアはたどり着けねぇで死んじまった」 樹皮を濡らす湿気が、バンの後頭部をじんわりと冷やしていく。アルモカの大樹の枝の間から、見えるのは果てしなく青い空と、人里が点景となる地平線。薄紅色の葉の間を、鮮やかな羽をした蝶が、美しいさえずりを身につけた鳥が、はばたいていく。 水がせせらぎ、人の言葉を解さない生き物が暮らすこの森は、時を止めた古城のようだ。けれどブリタニアのどこを探したって、同じような場所は見つかりっこない。腐るほどとは言わないけれど、キリアの小さな胃袋を満たすだけの食べ物もあった。ひどい言葉を口にしない友達も、ここならきっと作れる。皆ずっと一緒に。そんな途方もない願いすら、生命の泉があれば叶えられた。 「キリアの城は、ここだったのかもな……」 彼女の空想の場所に、ここならぴったりだ。バンは、濡れた後頭部を枯れた幹に押しつけた。この大木の洞も、キリアにとっては絶好の遊び場になっただろう。湿った苔の上を裸足になって、ぬるぬるして気持ち悪いとはしゃぐ彼女が目に浮かぶ。この森に実る果実はどれも美味だが、中でもエレインと見つけたコケモモは、彼女の一番の好物になるとバンは請け負えた。 「知ってたら、連れてきてやったってのに……」 キリアが4つのころ、バンはいくつだったか。あの頃の自分にそんな力などなかったことは百も承知で、バンは思う。連れてきてやったのに。果たせるはずもなかったふがいなさに、バンは拳を握り締めた。 白いドレスのひとならここにいる。バンはすぐ隣のエレインの面影を、あえて彼女を見ずに心に描いた。空想の中で、バンはエレインとキリアを引きあわせる。 彼女なら、お前を抱き締めて、額にキスをくれただろう。愛していると、あの綺麗な声で甘く囁いてくれただろう。 知っていたら。 力があれば。 巻き戻せない時間に、後悔は尽きない。 突然、何かが顔を覆った。白い布地とその内側に詰まったやわらかな感触。エレインが、バンの頭に飛びついているのだと気づいたのは、膝の上に彼女の重みを感じたからだ。浮いているせいか、寄りかかる彼女の肢体は羽のように軽い。 「キリアなら、ここにいるわ」 エレインの、声が頭上から落ちる。やはり彼女だった。額に触れているのは、彼女の唇だろうか。木漏れ日にも似た、金色の毛先がバンの頬をくすぐった。 「バンは、彼女をここに連れてきたのよ」 そうだろうか。エレインの、濡れて震えた声にバンは心の中で尋ね返す。飢えと寂しさの中で息絶えた、キリアは憧れの世界にたどり着けたのだろうか。根拠はない。証拠もない。ただ、白いドレスの彼女から紡がれる、甘い言葉なら信じられる気がした。 「ここに、いるのよ」 エレインの唇がまた、バンの額に押しつけられる。これはキリアの分のキスなのだろうか。 のしかかる、軽くて細い腰に腕を回してバンはエレインにすがりつく。エレインはバンを抱き締め返してくれた。優しくバンの頭をなでながら、額にキスの雨を降らせている。バンは祈った。彼女から与えられるぬくもりが、感触のすべてが、彼の中にいるというキリアの元にも届くようにと。 キリア、キリア……! お前の夢の城は、確かにあったと、バンの心は声高に叫ぶ。 白いドレスに包まれて、バンはこみあげるものをこらえた。こらえきれずに鼻をすすると、甘い花の香りが鼻腔を満たす。キリアの言葉通り、白いドレスのひとからは、とても良い匂いがした。
バン兄のほしいものもぜーんぶあるよ。 ねぇ、バン兄は、なにがほしい?
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