delicious ― バン×エレイン





 「私を食べて」
 バンに迫ってねだるエレインは、それはそれはおいしそうに見えた。



  delicious



 声を甘いと感じたのは、エレインが初めてだった。
「バン……」
 呼びかける、声は淡くこだまする。紡がれているのが、耳慣れた自分の名前とは思えないほど、鼓膜を震わせる響きは甘い味がした。耳に舌があるなら、その上でとろけるような声にバンはごくりと、喉を鳴らした。
 こちらを見上げる彼女の瞳は、こちらもとろりと溶けた蜂蜜色。長い睫の眦は、ほんのりと赤く色づいている。ゆうべ食べたコケモモの色を思い出して、今度はその甘酸っぱさが舌の上に蘇った。
「ねぇ……バンってば……」
 エレインの、瞳を覆う水の膜はますます厚みを増していく。うるうると、揺れる光がやはり甘い。おかしい、と自分の感覚にバンは首をひねった。声にも、視線にも、味なんてないはずなのに。
 その間にも、四つんばいの猫のような仕草で、エレインがにじり寄ってくる。彼女の濡れてほとびた眼差しが匂いと共に近づくと、頭がくらりとした。上等なエールをあおったときにも似た、強い酩酊に全身がふわふわとする。
「エレ、イン……」
 どうにかこうにか、バンは力の入らない喉で彼女の名を呼ぶ。彼女は自分に何をした。彼女もまた、いつもと違う。バンの紅い瞳の真ん中を、独占する彼女の顔は熱っぽい。これもおかしい。妖精族は、病気にかからないはずなのに。
 二人して、悪いものでも食べたのか。それとも、この森と彼女に、害を成そうとする誰かの差し金なのか。この、体の芯がほどけていくような感覚は何かの魔力かもしれない。だったらどうにかしなければ、彼女を守らなければと思うのに、体は少しも言うことを聞かなかった。呼吸さえ、気づけば奪われている。
「エレ……」
 開こうとした口は、優しく塞がれた。おぼつかないバンの体に、エレインの重みが優しくのしかかってくる。
 キス、されている。彼女に。エレインの、閉じたまぶたに並ぶ、睫の一本一本まで見ることができた。どれもこれも、おかしいことばかりだ。
 エレインの薄くて軽い肢体を、バンはおしのけられずにいる。こうして密着していると、彼女の胸にも確かな膨らみがあった。バンの胸板に押しつぶされる小さな乳房と、唇の感触に背筋を驚きが突き抜ける。キスのさなか、目を開いたままというマナー違反を、正してくれる他人はいない。
 エレインにキスされている。バンはもう一度、心の中で繰り返した。当初の動揺から脱け出し、状況を理解しても、バンの手足に力は戻らなかった。奪うのはバンの専売特許であったはずなのに、重ねた唇から、触れ合った体から、力と言う力が吸い出されていく。とうとうバンは、自分の上体すら支えきれずに、エレインを乗せたまま仰向けに寝転がった。
「はっ……ぁ……」
 地面に倒れこむと同時に、キスが解かれる。唇に触れた空気が冷たくて、なぜかひどく寂しかった。その寂しさを埋めるように、エレインの唇が再び迫ってくる。
 なんで。
 どうして。
 湧き上がる疑問は、与えられるぬくもりに流される。相手がエレインであるなら、思考よりも速くバンの体が反応を示した。自分の体も支えられなかった腕が、彼女を抱きしめるためになら動く。手は小さな背中の上をさまよった。手のひらの細胞ひとつひとつが、我先にと彼女の感触を求めていた。
「……ふ、っ……う……」
 漏れるのは、彼女の息か、自分の声か。判断するよりも、心地よさを貪ることに夢中になった。甘い痺れはこめかみから流れ込み、バンの神経をとろかせた。離したくない。もっと、もっと深く。本能に近い欲求が、より強く彼女の体を引寄せる。胸に押し付けられる二つの膨らみをより強く感じる。彼女は羽のように軽いから、抱きすくめていないとどこかに飛んでいってしまいそうで不安だった。
 重ねるだけだったキスは、いつしか押し付けあうものとなり、皮膚と皮膚との隙間を唾液が埋めた。唇に行き渡る体液が、エレインのものなのか、バンのものなのか、想像するだけで胸が逸った。彼女の指がバンの耳の後ろを撫でてきて、ぞわりとした感覚に鳥肌が立った。
 頭の芯が、チリチリと焼け焦げている。胸が、万力で絞られたように痛い。しかし彼女を放そうとは思わなかった。切ないほどの欲求に、むしろバンの内部は荒ぶり続ける。まるで獣だ。エレインを、まさにバンは食べようとしている。呼吸に唇が外れた瞬間の、かすかな息遣いさえ飲み干したかった。
「エレイン……」
 息も絶え絶えに、呼びかけた。彼女も、荒い呼吸に肩が揺れている。瞳の焦点はゆるんで、顔全体が赤く火照っていた。ぽってりと、唇を濡らした艶姿に本日二度目の喉が鳴る。彼女の唇がどちらのものともつかない体液でてらてらと光っていて、そこに噛み付きたい凶暴な欲がバンを襲う。あまりの獰猛さに、バンは震える口角を上げた。
 まったく、どうして、こんなことに。
 獣に残ったわずかな理性が、そう尋ねる。エレインは、こんな女じゃない。バンは彼女が何者かを思い出そうとした。彼女は聖女だ、この森の。すえた悪臭がよどむ、裏路地で男を秋波で誘う売春婦とはわけが違う。それなのに、どうして彼女は。発情した猫のような、浅ましい所作でバンを誘うのか。日ごろの冒しがたい清らかさは、どこへいった。彼女に、何があった。
 ゆうべまで、二人はこんなことをする仲ではなかったはずだ。互いを、食べ尽くすような、こんな姿は獣じみている。森のせいか。彼女と、バンを変えたのは。昨日と今日、変わらないはずの妖精王の森に、何が起きたというのだろう。
「お願いがあるの」
 バンの首に腕を回したまま息もかかる距離で、エレインの声は濡れているのに掠れていた。少しだけハスキーな響きに、頭の奥がぐらりと揺れるのはキスの名残か。彼女の唇が動くたびに、濡れた部分が光るから、余計にくらくらとしてバンはたまならくなった。
『私が今、考えてること……当てられる?』
 彼女がそう尋ねたのは、昨日の昼間のこと。今、同じことを尋ねられても、バンは「わからない」と答えるだろう。だが理由はまるで違うのだ。
 あのときと同じ、耳まで赤い彼女の表情(かお)。バンを求めるその眼差しに、もう何が何だかわからなくなる。エレインが、そんなバンの首にかじりついて耳打ちをした。
 囁く声は、あえかなる吐息と共に。
 私を食べて。
 あまりと言えばあんまりなお願いに、バンの理性は砕け散った。



 バンは目を覚ました。自分の鼓動が、うるさすぎた覚醒だった。目に映るのは、満天の星空。昼間は鮮やかなピンク色をしたアルモカの葉が、暗い紫色になって夜風になびいている。妖精王の森の夜だった。
「夢……」
 声は、思いのほか大きく夜に響いた。それでも、いまだに耳元でうるさい自分の鼓動以外の音に、バンはほっと胸をなでおろす。
 とんでもない夢を見た。エレインを、食べてしまう夢。
 風に撫でられ、全身にびっしょりと汗をかいていることに気づく。額を拭おうとして、動かそうとした腕には何かが乗っていた。その何かに、バンの心臓の音がますます激しくなる。
 薄い月明かりの下、横に伸ばしたバンの腕では、金髪に白いドレスの少女が眠りこけている。
「エレ、イン……」
 夢と同じように、バンは彼女の名をこぼした。目覚める間際まで、バンは彼女と盛りのついた猫のように絡み合っていた。そうして彼女はねだったのは、「私を食べて」と。
 いやいやいや、とバンは激しく首を振る。
 食っちゃだめだろ、エレインは。
 バンに食人する趣味はなかった。妖精族を食べる嗜好はもっとないし、そんな珍味が存在することも聞いたことがなかった。妖精族が人間に狙われるのは、彼らが持つ羽のため。食べるためではないのだから。
 だいたい、エレインに食べるところなんかあるか、とバンは腕に抱えた彼女を見下ろす。ないに等しい胸も、その胸元で折りたたまれた二本の腕も、バンの半分以下の腰まわりも、長いスカートに隠された足も、どれもこれも食べてしまうにはもったいなさ過ぎた。
 小さな手足、折れそうな腰、金髪の綺麗な髪に、幼いけれど美しい顔立ち。食べるなんてとんでもない。彼女は、腕に抱きしめて、大切に可愛がるために存在する。バンはそう思った。
 現に、今、彼女はバンの腕に囲われて、安らかな眠りに落ちている。その姿を見つめていれば、バンの胸にはあたたかなものがこみあげてきた。大切にしたい。守りたい。あんな夢さえ見なければ、そこで完結していた想いだった。
 あの夢のせいだ。バンは、鳴り止まない鼓動に小さく舌打ちをした。喉が渇く。泉で喉を潤したかったけれど、起き上がるには彼女に触れなければいけない。そんなことをすればどうなるか、バンは自分を抑える自信がなかった。ただでさえ、彼女の頭を受け止める二の腕の部分が先ほどから猛烈に熱いのだ。息も触れそうな至近距離で、鼻先をくすぐる彼女の花の香りに飛びつきたくなる。
 困った。
 バンは本当に困っていた。誰かを食べたいなんて衝動を、バンは生まれて初めて抱いていた。初めてのことだから、対処法も知らない。ジバゴだって、こんなときにどうすればいいかは教えてくれなかった。そしてエレインとバン以外、この森におよそ人語を解するものは見当たらない。
 バンは自力で答えを出すしかなかった。バンは元凶たるエレインを見つめ直した。それがますます、いけないことになるとも知らないまま。
 夜の森は静かだ。フクロウの目が光り、夜行性の獣が木々の間をひそかに行きかう。泉のある広間を取り囲むように、鬱蒼と茂った枝葉が、そよぐ風を捕まえては淫靡な気配を内へ内へと閉じ込めていく。
 幸いにも、バンの暴れまわる鼓動が、エレインの寝息を乱すことはなかった。すうすうと、彼女から吐き出されては吸い込まれる息を追う。700年、昼もなく夜もなく、人間の悪意と戦い続けた彼女が、人間であるバンの傍らでぐっすりと眠る奇跡が胸に迫った。彼女に赦されている。穏やかな夜を、分かち合っている。賊と名乗るこの身に、彼女からの信頼は宝物のはずだった。
 安らかな彼女の眠りに、どうかこの熱い焦燥がなだめられてはくれないだろうか。一縷の望みをかけて見つめているにも関わらず、薄く開いた唇に、どうしたって目は引寄せられる。
 そこだけぷくりと膨れた肉は、まるでコケモモの実のように瑞々しかった。バンの添い寝があたたかいのか、頬も色づいているのがなおまずい。彼女の体を彩る、ほのかに赤い部分すべてに触れたい。叶うなら、唇で。バンの内側で膨れ上がる御しがたい衝動は、彼のへその下のあたりから生まれていた。
 やばい。
 拭うことのできない額の汗が、玉になってバンのこめかみを流れ落ちる。青ざめながらも、興奮していた。視線はエレインの口や頬に釘付けにされたまま、頭の中では夢に見た彼女の姿が蘇っていた。
 熱っぽいエレイン。潤んだ瞳のエレイン。バンの唇を求めて、薄い体を懸命に寄せて、耳の裏を撫でていったエレイン。
 やばい、やばい。
 バンは心の中で繰り返した。エレインの特技を、このときになって思い出したからだ。
 エレインは、人の心が読める。夢でのことを脳裏に描きながら、バンは夢とは違う理由で喉を鳴らした。(これ)が彼女に知れたら、間違いなく嫌われる。それが一番、バンには困った。
 バンは、エレインに嫌われたくない。これまで、誰に嫌われ、どう思われようと、路傍の石ほどにも気に留めたことのないバンが、小さな彼女の心情に戦々恐々となる。
 嫌われたくないのは、彼女が好きだからだ。そのことに、まさに今、バンは気がついてしまった。とたん、世界は一変する。昨日まで、エレインと何のけれんみもなく戯れていられた、無垢な妖精王の森は一瞬にして消え失せた。
 広く深い森の中心で、好きな彼女とふたりきり。その事実が、くっきりとした輪郭を持ってバンを追い詰めていく。
 バンは、エレインが好きだった。それも、食べてしまいたいくらいに、彼女が大好きだった。そしてやろうと思えば、バンにはその望みを果たすだけの力があった。昨日までのバンなら、自分の欲望を満たすことに躊躇など感じなかっただろう。
 だが己が欲するがままに、彼女を食べてしまえばどうなる。バンはまたひとりだ。一時飢えを満たしても、バンの話を、まともにとりあってくれる彼女はもういない。それは困る。
 この飢えが、ただ彼女に触れたいだけなら、他にやりようもあった。バンが正直に頼み込めば、エレインだってちょっとは赦してくれたかもしれない。しかし、バンの飢えはそれだけでは満たされない。あの夢がその証だ。あの夢のように、彼女を食べたい、彼女の一部をこの口に含んでみなければ耐えられないのだ。
『私を食べて』
 夢で、彼女は確かにそう言った。あの言葉は、彼女の願いではない。



 妖精王の森で、エレインと出会うずっと以前、バンはとある町の獄にいた。初めての投獄ではなかったし、そこにはバンと似たり寄ったりのならず者が大勢たむろしていた。
 ある日、彼らの輪にいると、女のことに話が飛んだ。どこそこの女は具合がよくて、どこそこの娼婦は病気持ちが多い。そんな話についていけず、ふてくされるバンを囚人たちは哂った。
「童貞か、若ぇの」
「顔の割に青いな」
「ここから出たら、真っ先に筆下ろししてもらえ」
 一番若輩の彼に、口々とからかいの野次が飛ぶ。大きなお世話だと、バンは吼えた。
「『BAN(君の名前)』は実に意味深だ。誰の名づけかね?」
 ただひとり、バンに穏やかに話しかける男がいた。インテリ風でいつもどこか不機嫌そうな、少し太った、古風な物言いの中年男だった。むっすりと閉じた口を曲げて、眼鏡をかけて本を読んでいるのが似合いの彼は、獄では明らかに浮いている。おかげで彼は、他の囚人たちから存在を黙殺されていた。
「馴染めてないのは君の方じゃないのかね」
 不機嫌なインテリ男の指摘は正しい。バンは身なりや振る舞いこそ獄中と同化していたけれど、気の合う囚人を見つけることができずにいた。インテリ男とももちろん話が合わなかった。彼はバンの純潔(ヴァージン)を笑うことこそしなかったものの、
「君に好い(ひと)がいるのなら、キスのひとつもしておきたまえ」
 そうえらそうに諭してきた。他のどの部分が触れ合うよりも心地良いと、聞いてもいない講釈を垂れる彼に、バンは舌を出したものだった。とても想像がつかないけれど、小太りで高慢ちきで無愛想な彼にも、キスさせてくれる「好い女」がいたのかもしれない。
 インテリ男はその後、バンより先に獄を出た。刑期を全うした出所ではなく、囚人たちのリンチに遭って病院送りにされたせいだった。暴行を止めたのも、手当てしてもらえるよう看守と取引したのもバンだが、結局彼がどうなったのかは知らない。ひどい怪我だった。死んでいてもおかしくなかった。
 もし生きているのなら、バンは彼に聞いてみたいことがある。
 好い女を相手に、キスで済まないときはどうするんだ。傷ひとつない柔肌に、歯を立ててみたいこの想いをどうしたらいいんだ。
「君はもっと、君に優しい場所に行きたまえよ」
 一方的に殴られるばかりだった彼が最後に口にした、「優しい場所」が妖精王の森(ここ)なのか、尋ねる日はきっと来ない。
「ん、ぅ……」
 かすかなうめき声とともに、エレインは睫を震わせた。夢とうつつの狭間で、小さく伸びをする姿は子猫のようにいたいけだ。
 綺麗な金褐色の瞳が開かれ、まっさきにバンの姿を映した。
「バン……?」
 確かめるような、最初から知っていたかのような、ゆるんだ声の響きは夢の中の彼女を髣髴とさせる。こちらを見上げる仕草が、うっすらと開いた唇が、バンの視線を強く引寄せた。むき出しの白いデコルテの下には、小さな膨らみが二つ、昨日までは気にも留めなかったのに、そこに確かな弾力が存在することをバンはもう知っている。忘れていた興奮がまたぞろ息を吹き返した。
 彼女の唇の深いピンクは、二人で食べたコケモモによく似ている。コケモモのつるりと丸い実を、エレインは上下の唇でやわく挟んだ。実はするりと口の中に落ち、咀嚼のたびに果汁があふれる。赤い液体が唇に紅をさしていくさまを、特にしっかりと観察したわけでもないのに、バンはリアルに思い出せた。
「どうしたの?」
 エレインの手が、バンの胸元に伸びる。何気ない所作、何度も繰り返した接触にすら動揺が走る。ふわりと、ラベンダーの芳香が、バンの鼻先を掠めた。夢で嗅いだ匂いと同じ、甘くて、恍惚をもたらす香りだった。この匂いを、胸いっぱいに嗅ぎたい。そしてそのまま、匂いの元を食べてしまいたい。
 本来バンが食欲をそそられるのは、焼いた肉がかもす香ばしさだ。彼女の体から香る甘い匂いは、むしろバンの心を穏やかにする。だがそれも、昨日までの話。今では彼女の何もかもが、バンには刺激的すぎた。
『お願いがあるの』
 夢の中の彼女も、バンに触れた。バンの手を拾い上げ、手のひらに頬を摺り寄せた。普段の恥じらいが嘘のような痴態を見せる彼女は、艶かしいの一言に尽きた。
 食べたい。
 目に見えない何かが、バンの耳元で唆す。
 夢は、バンの空想の産物にすぎない。けれど今ここにいる彼女は本物だった。やり場のない食欲に狂ったバンは、とうとう本物のエレインを抱え込んだ。夢に倣ってぐっと腰を引き寄せる。
 とたんに真っ赤になった彼女の反応に、これが現実なのだと思い知る。赤く茹で上がった彼女は、夢に負けないくらいおいしそうだ。
「食ってもいいか」
 堪忍袋の緒が切れた、バンのむき出しの欲はエレインを怖がらせかねない。彼女が怯えれば、きっとバンは傷つくだろう。それでかまわない。暴走していくバンを、彼女は得意の風で吹き飛ばせば良い。バンの胸に巣食う獣めいた欲ごと、森の奥に突き落とせ。それでおそらく、バンも正気になるだろう。
「食わせてくれよ、エレイン」
 もし夢から醒めなければ、森から出よう。エレインを失わずにすむ、それは最後の方法だった。
「ええっ」
 鼻先を舐める距離で、エレインの瞳は大きく見開かれる。蜂蜜を連想したバンは、舌下に唾液が溜まっていくのを感じた。架空の甘さを嚥下して、バンはなおも欲を訴えた。
「食いてぇんだ、お前を」
 けれど、食べてしまってはエレインがいなくなる。それでは困る。だから、彼女の力に頼るしかない。
「た、食べるって……その、あの……」
 お前を食べたい。バンの物騒な言葉に、彼女はますます頬を上気させる。密着した胸から乳房の柔らかさだけでなく彼女の激しい動悸まで伝わって、バンは彼女の雷を待った。それなのに、もじもじと、バンの腕の中で身をよじる彼女は、一向に怒り出すことも泣き出す気配も見せなかった。
 なんでそうなる。
 なんで怒らない。
 嫌だと、ひどいと泣いて、バンを拒めばいいのに。エレインの予想外の反応に、バンの強欲は止めどころを完全に失った。
「もう、食っていいか」
「が、我慢できない?」
「無理っぽい」
 エレインは困っていた。エレインを食べたいバンと同じくらい。けれど彼女は、眉をひそめながらも懸命に、バンの欲を満たすすべを思案してくれている。バンの腕にしっかりと抱え込まれたまま、彼女はひとつの思い付きを口にした。
「食べる、まねをすればいいんじゃないかしら?」
「食うまね?」
 ままごとでも始める気か。いぶかしむバンに、彼女は行動で示した。
「そう……、こんなふうに」
 エレインの行動は、時にバンの予想の上を行く。腕の中で、彼女の背筋がぐっと伸びた。
 頭の後ろに細い腕が回り、甘い彼女の匂いがバンの顔全体を包んだかと思うと、何か、あたたかいものが唇に押し付けられる。夢で触れたのと同じ、柔らかさに度肝を抜かれた。
 目に飛び込むのは、エレインの目元を飾る睫。お行儀良く、一本一本がみっちりと並んでいる。心地よい息苦しさに、今度こそバンは目を閉じた。
「んっ……」
 閉じた視界は、バンをキスの感触で支配した。デジャヴというには、似すぎている。夢と現実の境を取り払う、優しい触れあい。夢中で食らいつくと、乾いた喉に水を差し出されたような、空の胃袋にごちそうを落とされたような、命に関わる感動がバンの世界を揺るがしていった。
 あの夢はどうやら、正夢らしい。





あとがき(反転)
エロインに挑戦!→玉砕。裏ページ開設までの道のりは遠い。
性欲を食欲と誤認するバンってのが当初のテーマだったんですが、ナニカチガウ。

2016年4月7日掲載
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