熾き火
「好き、嫌い、好き……」 タンポポの花を胸元に、エレインは呟く。無数の花びらの塊から、一枚ずつちぎっては、好き、嫌いと黄色い雨を降らせていく。 「嫌い、好き……」 残り5枚というところになって、エレインは顔を青くする。わずかに花びらの残った茎をあわてて捨てた。同じようなタンポポの残骸が、彼女の周りにはいくつも散らばっている。膝の上から花びらを払って、エレインはドレスのひだに額を押し付けてため息をついた。 「何やってるの、エレイン」 自分に言う。さっきは、花びらが残り6枚のところで、好きと出たくせに最後までできなかった。 花占いは単純だ。好き、嫌いと初めて、花びらの数が偶数なら嫌い、奇数なら好きと出る。そんなことは百も承知の癖に、結果がわかりそうになるたびにエレインは顔色を変えた。赤くなったり、青くなったり、百面相を繰り返していた。 「わかってるわよ、おかしなことしてるってことくらい」 だけど、と顔を上げたエレインは、きゅっと眉を顰めて後ろを振り返った。 「隠れてないで出てきたら?」 エレインの呼びかけに、茂みがざわめく。人とも獣とも違う声が漏れ、現れたのは巨大なエリンギの姿だった。背後には、大きさの違う二つのエリンギが続いている。ひとつは立ち上がったエレインと同じ背丈で、ひとつはエレインの腰ほどしかない若いエリンギだ。先頭のエリンギに至っては、見上げるほど大きかった。チキン・マタンゴの名で知られる彼らは、柄の部分についた顔をエレインに向けている。 「バカみたいって、思ってるのね」 高さの違う三つの顔に、エレインは腰に手を当てて物申した。本当に彼らに腹を立てているのではなくて、結果の出ない花占いを見られたことが恥ずかしかった。すぐに腰に当てていた手を下ろして、彼女はドレスのひだを握った。俯く視線は、彼らの足元をさまよっている。 「どうしたらいいか、わからないの。こんな気持ち初めてだから……」 このところ、エレインの心は不安定だ。上を向いたり、下を向いたり。原因はわかっている。この妖精王の森に、数日前現れた人間の男のせいだった。 「ドキドキするの」 エレインは胸を手で押さえた。 「ここが苦しくって」 小さな唇から、こぼれる息は熱い。 「『彼』が視界に入ってきたとたん、あがっちゃって」 エレインの体は、彼女の意識より先に「彼」に反応する。まるで細胞ひとつひとつが彼を待ち望んでいるかのように。それだけに、エレインは彼の瞳に映る自分がひどく気にかかった。白皙金髪、幼いけれど褒め称えられる容姿をしている。それでも、彼の、バンの心に留まらなければ意味がなかった。 「バンは同じ想いかしらって、考え出したら止まらなくて」 思考はぐいぐいと彼のほうへと引っ張られ、心を読む余裕もない。第一、幼稚な花占いの結果にさえ右往左往しているエレインに、彼の心を直に見ることなど耐えられるはずがなかった。そしてバンの振る舞いからは、彼の心は読み取りにくかった。長い付き合いならともかく、数日の観察で全てを透けて見せてくれるほど、彼は単純な人間ではなかった。 「これが……恋、なのかな」 腫れ上がった心を一言で表そうと、口にしたのは神聖な言葉だった。自ら発したその響きに促され、エレインの心はあまい果実みたいに熟していく。発酵した匂いが、恋という音にまとわりついて離れないのだ。 甘い想いを含んだ声はほとびている。バンに代わって、それを聞き届けたチキン・マタンゴたちは表情を変えなかった。のっぺりとした三つの顔は、彼ら独特の世界に生きていて、エレインの悩みに寄り添わない。首をかしげるような、顔を見合わせるような、打っても響かない三体の反応にエレインは頬を膨らませた。 「あなたたちに打ち明けたのがバカだったわ」 ツンと鼻をそらせたエレインを前に、やはり三体は彼らのテンポで顔を寄せ合い、彼ら特有の言葉を交わしている。大きさの違う三つの姿に、エレインはつい目を惹かれた。 「あなたたち、まるでつがいみたいね」 ぽろりとこぼすと、チキン・マタンゴたちが振り返る。大きな二体の間で、こちらを覗きこむ小さなチキン・マタンゴを目が合ったエレインは首を振った。 「ううん、親子かしら。仲良しなのね」 きっといつも、三体セットで行動しているのだろう。一番大きなチキン・マタンゴがお父さん。エレインと同じ大きさがお母さん。そして一番小さな、二体にいつも挟まれているのが子ども。そんなイメージに彼らはよく合っていた。 「いいなぁ」 蜂蜜色の目をすがめ、エレインはため息をこぼした。いつか、バンとこんな風に。気持ちを伝えることもできていないのに、そんな想像が恋する胸に膨らんでいた。並んで歩く二人の間には、二人の愛の結晶がいて、小さな両手で二人を繋いでいる。もしそれが本当になったら、どれほど素敵なことだろう。 そのためにはまず、エレインはバンに想いを告げることから始めなければいけない。エレインの気持ちを、バンが受け取ってくれれば二人はつがいになれた。人間は、つがいになる約束を結婚と言い、結婚したつがいを夫婦と言うらしい。結婚。夫婦。人間の文化や考えに理解がなかったこれまでが嘘のように、エレインはその二つの言葉を大切にしたかった。 エレインのバラ色の未来予想図は、止めるものもなくどんどんと先に進んでいく。つがいになれば、夫婦になれば、二人の血を分けた可愛い子どもが欲しい。確か人間は、森の動物達みたいにつがい同士が交尾して子どもを授かるのだ。 「交、尾……」 森のつがいの交尾くらいエレインだって知っている。恋の季節に動物たちが落ち着かなくなるのは妖精王の森も同じで、現場に遭遇したときはそっと踵を返すのがマナーだった。 「あれを、するの……? 私とバンが?」 幸せの絶頂に急ブレーキがかかる。エレインの脳裏に、これまで通りすがってきたつがいたちの営みが駆け巡る。その影に自分たちを重ねかけて、エレインは固まった。 間の悪いことに、それまで黙っていたチキン・マタンゴたちがエレインの顔色の変化に気づいてしまった。彼らの声に、エレインの目がかっと見開かれる。 「そっ、そそそんなわけないじゃない!」 ほとんど絶叫に近い声をあげてチキン・マタンゴたちから背を向けたとたん、エレインは別の何かに体当たりした。 「きゃっ」 「うおっ」 重なった悲鳴に、聞き覚えがありすぎた。とっさにつぶった目を開くと、やはり目の前にいたのはバンだった。 「バンッ!」 エレインの声は上ずる。対するバンは、いつもの鷹揚な態度で応えた。 「いきなり突き飛ばすたぁ随分じゃねぇか」 「そこにいるなんて思わなくて……!」 本当だった。勢い良く衝突してしまったことはもとより、バンが近づいていると知っていたら、絶対にあんな想像はしなかった。バンと自分が、つがいになる妄想なんて。 聞かれただろうか、とエレインはチキン・マタンゴたちとの会話になっていないようなやりとりを思い返す。ドキドキすると言った、恋とも口走った、バンの名前を出して、交尾なんて言葉も口にしてしまった。 言うべきか、言うまいか、初恋の告白に悩みに悩んだ挙句、花占いにすら決意を託せないで、輾転反側していた想いがこんな形で知られたとしたら。エレインは目の前が真っ暗になる気がした。 遠のいていくエレインの意識を、引き止めたのはバンの声だ。 「俺を押し倒すなんて、エレインも積極的だな」 「へ?」 バンの指摘に、エレインはようやくバンを見るアングルがいつもと違うことに気づいた。バンの胸にぶつかった衝撃に、平衡感覚を一瞬失ったのは覚えている。その後からは、バンの声が下から聞こえていた。その不自然に、ようやく頭が追いついた。 「お前を見上げるっつーのもオツだな」 バンは地面に横たわっていた。エレインは、その彼の腹の上にまたがっている。ドレスのひだ越しにも、彼の腹筋が腿に触れているのがわかった。彼の言うとおり、どこからどう見てもエレインがバンを押し倒している。 「あ、あのっ、これ……」 立ち上がれば良い。浮かび上がって、謝って、それから彼に手を差し出して助け起こしてやれば良い。頭ではわかっているのに、体がちっとも思い通りにならない。 バンは、いたってのんびりとエレインに腕を開いた。 「好きにしていいぞ」 パタンと、彼の腕が地面に投げ出された。無抵抗を示され、エレインの動揺が一層激しくなる。 眼下に差し出された、バンの体。好きにしていいと言う彼の言葉は、先ほどまでエレインを悩ませていた想像を加速させる。丈の合わない服から覗く、贅肉とは無縁な体。どこもかしこも鋼のように締まっていて、動くときにはバネのようなしなやかさを見せる肉体が、エレインの前ではまるで無防備だ。 「さぁ、聖女さま。ご随意に」 バンは、至極リラックスしたまま生殺与奪をエレインに委ねてくる。もし彼女に語彙が備わっているのなら、その姿を彼女はセクシーだと評しただろう。 好きにする? この彼を? どんな風に? バンへの想いを自覚してから、エレインが彼に感じてきたものはあたたかな海だった。体温より高い水に浸され、体が内側からするするとほどけていくような感覚。心の檻は溶けて、翼を広げた想いは、太陽を目指すごとくバンに向かって飛び立つのだ。 それが今は、まだ火の残る熾きへと変わった。炎は小さいけれど、ちりちりちりちりと燃え、硬く詰まった炭の内で煌々と光る。消したくはない、けれど、秘めた熱を解き放つには恐ろしい。慣れない感覚にぶるりと身を震わせた彼女に、バンが少し目を見開いた。 「お前、今、変なこと想像したろ」 バンの鋭すぎる指摘に、エレインの体はビクンと跳ねた。バンの顔に、あくどい笑みが広がる。 「やらしーなー、聖女さまは」 「バ、バン……!」 否定出来ないエレインは泣きそうだ。そんな彼女に大きなものが覆いかぶさる。バンだった。腹の力だけで起き上がった彼は、パニックに陥ったエレインを抱きしめていた。じわりと伝わる熱と、汗のにおい。全身で感じる彼の存在感に、エレインはくらりとした。 「お前が何もしないんなら、俺がしちまうぞ?」 耳に吹き込まれるのは、甘くて丸い、バンの声。腐る寸前の果実みたいな、声の響きの甘ったるさに胸の奥がじんとしびれる。エレインはバンにまたがったまま、しかも彼に抱きかかえられていた。恥ずかしい、はしたない、でもほっとする。そんな数々の感情が頭をかけめぐるけれど、肝心の、バンに何かされることに対しての嫌悪感はひとつもなかった。 そうこうしている間に、バンは抱擁を狭めてくる。もうほとんど、頭の上までエレインはバンにすっぽり覆われてしまった。 「なんかすげぇ、しっくりくる。こうしてると」 天上から、耳元から、頬に触れた胸から、バンの声が響く。髪にさしこまれる指の感触が、たまらなく心地よかった。 「良い匂いだ。髪もサラサラだし。どこ触っても気持ち良さそうだな、お前」 それ以上言わないで。おかしくなっちゃう。エレインの中で、妖精族の聖女たる自分を支えていたはずのものが、バンがしゃべるたびにぐらぐらと揺らいでいた。 「なぁ、どうしたい?」 胸の中の炎が、彼に感応する。 「俺に、どうされたい?」 ちりちりと燻る熱が理性を焦げつかせる。 「エレイン」 名前を呼ぶという行為は、理性ある生き物だけに赦された行為なのに、その行為がエレインから理性も羞恥も根こそぎ奪う。 「お前が決めろ」 もう、熾き火ではいられない。自分の中で生まれた、炎に焼かれる。彼の声を着火剤に、彼への想いが火花となる。
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