「せいきしたま、あたちとけっこんして!」 小さなブーケから、飛び出したのははちきれそうな幼い笑顔。唐突なプロポーズは、屈託やけれんみなんて言葉とはまるで縁遠い。それだけに、バンは薄ら寒いものを感じて盛大に顔をしかめた。
Even if death do us part,
子どもの遊びだ。ませた子どもなら誰しもが通る道。そう呆れつつも、バン自身にはあいにくとそんな経験はなかった。あの少女の歳の頃、バンは生きることに必死だった。自分とは比較にならない、幸福な少女に口角が下がる。 大人気なくも不快感を露にした、バンの反応に女の子は目を丸くした。はるか頭上から、睨まれるはめになるとは青天の霹靂だっただろう。 このひと、こわい! 少女は大声で泣きじゃくった。愛されて当然、赦されて当然、世界に愛されてきた少女は、おそらく生まれて初めての拒絶にひどく動揺していた。 「結婚、ね……」 その少女が、バンの頭に放り込んできた悩ましい単語を口にする。同時に彼女のブーケを結んでいた、青いオーガンジーリボンがバンの指を滑った。透けたリボンのサラリとした感触に反して、普段なら右から左に通り過ぎるだけの言葉がザラザラとバンの意識にひっかかった。 肝心の少女は、兄と思しき少年に引きずられて帰っていった。 おにいちゃま、おにいちゃま、あのひとがいじめた! そう泣きながらしがみついて、賢しい顔立ちの少年を困らせていた。チュールレースをあしらったドレスの袖で、顔についた涙とも鼻水ともつかないものをぬぐおうとする妹の手を止めて、少年は用済みになったブーケを受け取り彼女を慰めていた。ブーケのリボンが、ほどけてしまったのはその時だ。兄は妹にかかりきりで、ブーケを小脇に抱えたまま、リボンが落ちたことにも気づかなかった。 そのブーケに、ラベンダーの花が混ざっていたことをバンは知っている。リボンと同じ、青紫の可憐な花びらの香りは、少女の頭上にあったバンの鼻にも届いていた。そもそもの、彼の不愉快の根本はそこにあった。 馥郁たる甘い匂いに、バンははるか昔に立ち戻る。一瞬にして、周囲の光景はリオネス王都から妖精王の森へと姿を変え、意識は白皙金髪の面影に奪われてしまった。バンは、おしゃまな少女の言動以上に己の未練がましさを哂うしかない。今なお後ろ髪を惹かれる想いに、少女の口にした「結婚」の二文字がぴたりと寄り添った。 結婚とは、好きあった男女がするもの。例外は多々あるにせよ、おおむね大人は子どもに向けてそう語る。自分の両親はどうだったろうか。彼らの間にも、愛だの恋だのといった、甘ったるい鱗粉を撒き散らす何かが飛び交う時代があったのだろうか。自分自身と、四つで死んだ妹が、その愛の成れの果てかと思うと吐き気がした。 ろくなもんじゃない。バンは、あのロクデナシたちからあれこれ想像を膨らませることを止めた。今更、バンと彼らの間に、何の縁やゆかりがあるというのだろう。暴力と罵声の呪縛から逃れて、バンはようやく自分のことを考えられるようになったのだから。 そんな情けない生い立ちであるので、結婚と言う形に、バンが憧れたことはない。結婚の二文字が、自身に直接関わることとして頭を通り過ぎたことすらなかった。しかし今は、金髪の白いシルエットがバンの心に爪を立てる。罪のないプロポーズにまとわりついたラベンダーの、甘い香りが決定打だった。 しゅるりと、バンの指の間を青いリボンが彷徨う。人差し指から中指へ、中指から薬指へ、利き手でもないのに、バンの左手は無意識の内に薄いリボンを手繰っていく。
俺が、一緒になるなら……。
心に描く姿は、変わることなくそこにいる。もう何年前の話だ。とうの昔に、燃え尽きてしまった妖精王の森。広くて深いあの森で、バンの抱擁を受け止めてくれた彼女。木漏れ日を閉じ込めたような、金色の滑らかな髪を撫でることを赦してくれた彼女。 強引で、粗暴。そんな振る舞いが板についた、というより、それしか知らずにいたバンの手が伸びても、彼女は怯えることをしなかった。逃げることも身構えることすらなく、彼女はバンの手が彼女の髪に触れるままにしてくれた。頬に、耳たぶに、そして唇に、彷徨うバンの指先を、彼女は困ったようにけれど薄く笑って待っていた。バンが満足するまで、彼女はじっと静かに、彼の腕の内側に留まり続けてくれていた。 バンに触れられている間、彼女の頬はいつも淡く色づいていた。真珠色の滑らかな肌に、コケモモ色の紅がうっすらとひかれる。その小さな頬の丸みが、バンは好きだった。 バンが求め、彼女が受け入れる。それが二人の関係だった。あの広くて深い森にいるかぎり、それがいつまでも続くことをバンは望んでいた。いつまでも、いつまでも、幸せに。そんな物語の結末を、バンは誰かに語り聞かせてもらうより先に、彼女の傍で自分の夢として願ったのだ。金の絹糸のような髪も、真珠を融かしたような肌も、おとぎ話の中ではなく、彼女を美しく象るものとして時間も忘れてそこにあった。 変化とは、終わり以外の形もあるのだと、教えてくれたのは彼女で、きっかけはとてもささいないたずら心だった。 森の中にいる限り、バンは誰よりも早く彼女の気配に気づくことができた。その日も、ふと感じた彼女の存在に、バンは寝たふりで待ち構えていた。目を閉じて、呼吸を整えたまま、耳と鼻の感覚を研ぎ澄ました。こと彼女の気配を捉えることに関しては、聴覚よりも嗅覚が勝る。このときも、甘い匂いが真っ先にバンに近づいてきた。 歓楽街の商売女がふりまく香水と、その香りは格も純度もまるで違った。並の人間の男には、決して傅かない誇り高さを含んでいた。高潔な匂いの後を追って、匂いと同じくらい甘い声が、淡くバンの名を呼んだ。 バンは薄目をあけた。しかし世界は暗くて、バンの唇を何かが塞いだ。あの、高貴なる香りが顔全体を包んでいる。近すぎる彼女の影と、唇を覆う何かの正体に、バンは目覚めるきっかけを完全に見失った。 触れるだけのキスは、音を立てずに離れた。甘く凛とした、芯のある芳香もまた遠のいていった。一方的な口づけを終えて、彼女はバンの傍らに寝転がった。そのまま、彼を揺り起こすこともせず、彼女もまた短い眠りに落ちていった。 目覚めた後も、彼女は彼女のした小さなキスには触れなかった。ただその日から、彼女から醸す香りが、ひどく甘ったるくなったことをバンは覚えていた。 今でも思う。あのとき、彼女からもらった音のないキスは、果たして本当のことだったろうか。バンが見た、刹那の夢ではなかっただろうか。なぜなら彼女が、バンのしかけたいたずらに気づかないはずがなかったから。心の読める彼女が、変化を望まないバンの心を知らないはずがなかったから。あのキスが本当のことであれと願うのは、亡き彼女を想って途方に暮れるバンの強欲だった。 あのキスには、彼女からの手紙が添えられた気がしてならない。真っ赤な封蝋に印璽が施された、秘密の手紙だ。彼女の死から何年と経っても、封は破れそうにない。 彼女からのキスは、散々悪行を重ねてきた盗賊に与えられるには分不相応なものだった。眩く清らかな、甘くせつない何かが、あの時、バンの体にしんみりと溶けていった。彼女に、愛されている。彼女を通して、この世界に愛されている。あえて言葉にするのなら、そんな実感を与えてくれる何かだった。 生まれたときから、バンは異端だった。頭のてっぺんからつま先にいたるまで、「まっとう」なんてものとは縁がなかった。義心や勇気は赤の他人が気にかけること。誰かと人生を共にすることに資格が必要だというのなら、間違いなくバンには落第生の判定が下される。 「エレイン……」 そんな人間失格な不死身男が、彼女だけは別だとため息を零す。 バンは狐だった。機知に富み、卑劣で、高慢な生き物。狡猾で残忍、しかし高潔たる狼には絶対になれない。そんな哀れな狐が、失くした恋のせつなさに身をやつしている。心を裂いて捨てることも出来ない姿は、情けない人生の敗北者だ。 その敗北者が、願う。小さなブーケを胸にかかげた彼女が見たいと。懐かしいドレスよりもなお白い、レースとビロードに包まれた彼女の美しさを知りたい。幸福に満たされた者だけが醸すという、どこまでも柔らかで眩しいオーラをまとった彼女が、見上げる先が自分であればいいと願う。
かつてこの世にいたという女神様。 この望みをかなえてくださるのなら、生涯をかけて真人間になりましょう。 だから、どうか、彼女を。
今はもう彼女に触れてもらえない、自分の唇を指で撫でた。彼女の名残を探したくて、見つけ出せない現実に苛立つ。絶妙のタイミングで、鼻先を彼女の匂いが掠めた。左手に巻かれたリボンに染みこんだ、ラベンダーの移り香にすぎなかった。 「どの道、無理な話だな」 女神はいない。彼女もいない。今更この身が「まっとう」になれるはずもない。狐は、どこまでいっても狐だった。 「バカなことを……」 バンは自嘲の笑みすら、作れずにいる。
それは、人生最大の冒険だった。 傍らには、ご自慢のラベルコレクションを片手に、そのページひとつひとつに詰まった思い出を語る彼がいた。彼は、彼女に向かって言葉を尽くしてくれていた。森の外の世界を何も知らないという彼女のために、彼は百万言かけて羊皮紙のページに写し取った、ラベルという名の世界を語りつくそうとした。 その無防備な膝に、エレインは手を伸ばして腰を下ろした。彼女より、はるかに長くて大きな手足を持つ彼は、すっと寄ってきた小さな体に驚いていた。彼は逃げることなく、彼女の長いスカートのヒダが彼の膝の上に広がることを受け入れた。奪うことに長けた腕が彼女の体を取り囲み、自由とスリルに膨らんだ胸板が彼女の重みを受け止めた。腰をよじって振り返れば、夏の朝みたいに眩しい、大好きな彼の笑顔が降り注いだ。頬に高く上がった口角から覗く、小さな牙がセクシーだった。 妖精王の森の、大きく曲がった枝が二人のベンチになった。その枝の先から咲いた、大きなピンクの花は二人を照らすランプになった。彼と彼女と、本が一冊。それが全てで、足りないものは何もなかった。 いつからだろう、彼がこの森を出て行く夢を見るようになったのは。悪夢に怯え、眠ることを拒むエレインを彼は抱きしめてくれた。ちゃんと寝ないと大きくなれない。子ども扱いが悔しいくせに、頬に押し当てられた彼の力強い鼓動に心は安らいだ。ここにいる。まるで、そう囁かれているようで、心が読めないはずの彼に何もかもを見透かされているような気がした。たとえ眠れずとも、彼の寝顔を眺めて夜を明かせば、不安は朝日と共に去っていった。エレインの視線の下で、開いた瞼の下から、現れるのは彼のルビー。硬く熱い色の瞳に、エレインを映す彼こそが彼女の心の太陽だった。 彼は覚えているだろうか、エレインのしたキスを。寝言に名前を紡がれて、思わず意識のない耳元で打ち明けてしまった彼女の想いを。
傍にいて。 離さないで。
膝に乗せて撫でたこともある、彫刻のような、彼の頭の重みと銀髪の硬さが愛しかった。眠る寝顔の幼さに、このまま時が止まってしまえと祈ったこともあった。並んでコケモモの実を頬張るさなかに、彼の心の鏡に映ったものをエレインは忘れずにいた。
あたたかい食事を出すわ。 ひとりじゃない、食卓をあげる。 絶えない笑い声も。
彼が心から望むものを、エレインだけが知っていた。ここにはレンガ積みの暖炉も、大きな丸いテーブルもないけれど、彼がほしいものなら、何だってあげたかった。その代わりに、彼の笑顔を彼女は欲した。エレインを見て、いつまでもいつまでも、夏の晴れた朝に燦然と輝く太陽のように、眩しく笑う彼でいてほしかった。 「バン……」 今はもう手の届かない夏の太陽を、慕う唇が恋を紡ぐ。しとやかにほとびた声が、水晶の表面をうっすらと曇らせた。白くかすんだ靄も下には、物思いに沈む彼が映されたままだ。いたいけな少女のブーケを拒んでからというもの、彼の表情は曇り続け、晴れ渡る空とはまるで遠い。薄青いリボンを弄ぶ、手の動きさえそぞろだった。 小さな求婚者から忘れられた、透けたリボンを彼は地面から拾い上げた。彼がそんなことをしてしまった理由に、エレインの胸は痛む。彼の左の薬指にまとわりつくリボンの端が、彼女の指まで届かないことが恨めしい。 彼が何を想い、何を哂い、何を嘆いているのか、彼女には手に取るようにわかった。彼の心がわかればわかるほど、彼への想いに彼女の心は腫れあがっていく。 狐は群れを作らない。小さな家族で身を寄せあって、生きる彼らは狼よりも孤独だった。そんな、白い狐が今、啼いている。ひとりを嘆く遠吠えに、エレインの顔がせつなく歪んだ。 「私もよ」 今は亡き女神に祈る想いを、エレインが代わりに受け止める。病めるときも、健やかなるときも、共にありたいと願うのは彼女も同じだ。もしそれが叶うのなら、わが身に赦されたすべての宝を捨て去ってしまっても構わない。ただ、魂として漂うだけの彼女にとって、宝と呼べるものは彼に捧げた想いばかりではがゆかった。 エレインの指が、彼の映る水晶をつつと撫でる。魂の指先は、二度しか触れたことのない、彼の唇の輪郭をなぞっていた。 この唇にキスをした。一度は眠ったふりをした彼への意趣返しに、もう一度は死にいく彼の命を引き止めるために。けれど本当は、もっと違う形のキスがしたい。 「いつか、必ず……」 何よりも嬉しかった、彼の言葉を二人の誓いに。唇をやわく食んで、情熱をこすりつける。そんな、ありったけの想いを込めたキスがしたい。 そうして彼のものになりたい。彼の所有格が、一番似合う存在にしてほしい。死が二人を別っても、エレインの望みは恋しい彼へと続いていた。
小さなブーケを、あなたの隣で。
この世のどこよりも遠い場所で、不死者と死者は同じ光景を心に描く。
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