「わかってないんだから、女心」 しょうがないわねと、彼女はどこまでも優しく笑った。
be my girl
ひやりとした水の中に入ると、足の輪郭が際立つ気がする。特に水面との境目にある足首は、やわらかい足かせをはめられたようにくすぐったかった。生命の泉から湧き出るどこまでも澄んだ水は、バンの足の指の間まで入り込み、冷たさで撫でていく。 杯からあふれた水は、飲んでも長寿にはならないらしい。生命の泉はそれをたたえる杯と一体になってこそ意味をなすと、教えてくれた少女はバンの隣で足をたゆたわせていた。 「小っせぇ足」 バンはつま先を水面から出して、エレインの足と比べて言った。すっぽりと水に浸っている白い足は、バンの3分の2ほどしかない。 「女の子なんだから、当たり前でしょ」 人間と違って、宙に浮べる彼女は地に足をついて歩くことがあまりない。地面を知らない彼女の足は、どこもかしこもつるつるとしている。どこに行くにも自分の足が頼りのバンとは、形も大きさもまるで違っていた。 そんな彼女の、小さな指の隙間がなぜかバンの胸を騒がせる。彼女の指の間と自分の指の間が、ひとつの水で繋がっているのかと思うとそわそわとした。 「いーや、ガキだからだな」 心の声は意味のわからないことをわめきたてるから、バンは悪ふざけで耳を塞ぐ。胸の中のもやもやを振り払うように、右足でエレインの左足を小突きもした。長さの違う足の先を合わせるためには、バンが膝を曲げてやらなければいけない。二つの足首の間で、ぱしゃんと泉が音を立てた。 エレインがこちらを見上げて、眉をひそめる。 「あなたより年上、よっ」 よ、の音でエレインがやりかえす。先ほどより大きく、波が立って音が響いた。 「信じらんね」 また、バンが蹴る。ぱしゃん。エレインがやりかえす。ぱしゃん、ぱしゃん。何すんだよ、しつこいのよ、と二人の応酬に合わせて波が打ち、水が跳ねた。飛沫が互いの髪まで届いても、二人は足で戯れるのをやめない。しまいには、互いの足の裏や指で相撲をとり始めた。 エレインの小さな足の指が、バンの節くれだった足の指の裏に入り込む。生ぬるくなっていく水と、絡み合う足の指、ぴちゃぴちゃとしたたる音、何てことないはずのひとつひとつが妙にバンの意識にひっかかった。とりわけ彼女と触れ合う、足の裏の感覚が研ぎ澄まされていくのがかなわない。 「こーさん、降参!」 意外としぶといエレインに、バンが先に音を上げた。水の中での小競り合いをやめて、バンはごろんと後ろに倒れこむ。 「700年……は生きてんだっけ」 バンの足はまだ水の中だ。アルモカの大樹からの木漏れ日と、水の冷たさが絶妙に心地よい。 「そんな長ぇ間、ここで何してたんだよ」 腕を頭の後ろで組んで、バンは折り重なるアルモカの葉の影に目を眇めた。 「泉を守ってたわ」 「そりゃ知ってるっつの。他になんか面白れぇ話はねーのかって」 「そんなこと言われたって……」 沈む声に、バンは腕枕から頭を上げる。泉のふちに腰掛けたまま、バンに背中を向けたエレインは俯いていた。金色の髪が紗幕のように垂れて、彼女の横顔を覆い隠している。 『700年生きてたって、森の外がどんな世界で何がおこってるかなんて、何も知らないんだからっ』 出会って間もない頃、彼女がそう訴えていたのをバンは思い出す。その森の中でのことをバンは尋ねたつもりだったけれど、エレインにとって話すべきほどのことは起こらなかったということか。静かで、退屈な700年。 「じゃあ、その前はどこにいたんだ?」 「妖精界よ。この森と繋がってる、妖精族の棲む世界」 本来であればエレインは、その世界から出てくることはなかった。逆に、特別に招かれでもしない限り、この森を通じて人間が入り込むこともできない。 「どんなとこだよ」 自分が決して見ることのできない彼女の故郷について、バンは知りたがった。いつもはバンに人間の世界について尋ねるばかりだったエレインは、突然話す側にまわったことにバンを振り返って目をぱちくりさせている。だが次第に、蜂蜜色の瞳に熱がこもり始める。自分が知っていることを誰かに伝えられることに興奮しているのか、バンが彼女の故郷に興味を持ったことが嬉しいのか。バンとしては、後者であるといいなと思う。 「妖精界には神樹って呼ばれる大きな樹があって」 全貌すら肉眼では捉えきれないほどの巨樹。それ自体がひとつの世界を成し、人間の世界にはない無数の植物が生い茂る地で彼女は生まれた。妖精王の妹として。 「神樹のそばには、背の高いキノコが生えているの。兄さんはそこがお気に入りだったわ」 妖精族の王たる彼女の兄は、そのキノコの上で寝そべったままにして、人間界にある妖精王の森を睥睨することができた。兄の傍らで、兄によって守られた平穏を甘受するのがエレインの日常だったそうだ。 今とそんなに変わらねぇじゃねぇか、と思わなくもない。だが兄の存在も、この森の先にあるという妖精界も、彼女にとっては特別なものだったのだろう。故郷を離れ、妖精王の森にいることは彼女の本意ではない。そのことが、まるで自分とこうしている瞬間さえ彼女が望んでいないようで、バンは少し悲しくなった。 バンはちらりとエレインの足に目を向ける。いまだ水の中にある、彼女の傷ひとつ、汚れひとつない足は、妖精界がいかに穏やかな世界であったかを物語る。そしてこの足を守ってきたのは、王様なんてご大層な身分を持った彼女の兄なのだ。 「兄さんには親友がいて、彼は人間がとても好きだったの」 陽気で、おしゃべりで、いつもふざけてばかりで。そういうところはバンに似ていると彼女は笑った。その兄の親友とやらは、きっと妖精界でエレインを何度も笑わせていたのだろう。叱られても呆れられても、彼女の幼い顔に微笑みをのぼらせることにやっきになっていたに違いない。バンに似ているのなら、考えていることも近いはずだ。 「惚れてたのか」 エレインがあまりにも幸せそうに過去を懐かしむから、ついそんな言葉が口走った。エレインは驚き、首を振る。自分で言っておいて、彼女の否定にバンはわけもわからず胸をなでおろす。 それから、じわじわと彼女の小さな頬が色づいていくのが見てとれた。 「でも、いるわよ。好きなひとくらい……」 兄の親友ではないが、エレインには想い慕う相手がいるらしい。自分から尋ねたくせに、バンはその答えに腹の底が重くなるのを感じた。楽しくない話だ。話題を打ち切りたいのに、エレインは続ける。 「片想い、なの」 聞きたくない。エレインの話に、バンは初めて耳を塞ぎたくなった。膝の上、白い服のひだにおかれた彼女の指がもじもじと動く。それからちらりと、バンを振り返った。困ったような微笑みを頬の紅潮が彩っている。黒く重たい鉛球を飲み込んだように、バンの喉が苦しくなった。 見たくない。バンの知らない誰かを心に描いて、顔を赤らめている彼女なんて。こうして隣にいることを、否定された気がしてバンは顔をしかめた。 バンは泉から足を引き上げる。滴る水をふるう様をエレインが不思議そうに見ている。 「だったら出てくわ、俺」 「ど、どうして……?」 「俺といたら、お前の『好きなやつ』ってのが誤解しちまうだろ」 そんな「やつ」のことは聞きたくないし、見たくない。何より、エレインに悲しい想いはさせたくなかった。バンにとってエレインは、話をきいてくれて、何日いっしょにいても飽きなくて楽しくて、言うなれば初めてできた友達であったから。 友達と恋人なら恋人のほうを大事にすべきだ。そして、友達として、バンはエレインのそんな気持ちを守ってやるべきだ。エレインの傷ひとつない足を守った、彼女の兄のように。そう思うのに、心が重いのはバンが彼女の兄ではないからか。心を支える体も、つられて動きが鈍くなる。 「いいの。大丈夫」 エレインが引き止めてくれたことに嬉しさを感じて、体が一気に軽くなった。自分は、あまり良い友達ではないなとバンは反省する。反省した分だけ、エレインの力になってやりたかった。 水から上げた足であぐらをかいて、バンはエレインの顔をのぞきこんだ。 「そいつは妖精界にいんのか? 一緒にここにいてくれねぇのかよ」 エレインはあいまいに笑って答えない。片想いだと言っていたから、どうしようもない理由があるのかもしれない。こういうとき、自分と彼女の間に横たわる種族の違いというものが身に沁みた。もし彼女の世界にいけるのなら、片想いの相手とやらを首根っこ掴んでも連れてきてやるのに。 「どんな奴だ?」 「自分に正直なひとよ」 今度は答えてくれた。けれどその答えに、バンは渋い顔をせざるをえない。 「正直で、お前のそばにいねぇってことは、望みねぇんじゃねぇの」 言ってすぐに後悔した。エレインの力になってやりたいと思ったばかりなのに、彼女の想い人が寂しい思いをしている彼女のそばにいないことに腹が立って、つい言わなくていいことを口にした。彼女をひとりにしておく相手のことを、正直と、懸命に理解しようとする彼女のいじらしさにさえ、イラつく。 「バンなら、どうする?」 さっきから、気持ちがちっとも手懐けられない。あせるバンに、しかしエレインは穏やかな表情のまま尋ね返した。 「俺?」 「たとえばバンの好きなひとが、私と同じ立場だったら……」 バンはずっと傍にいてくれるのか。エレインの問いかけに、バンは一も二もなく即答した。 「決まってんだろ」 だからこうして、エレインの傍にいる。とは言わないけれど。するとエレインは、今日一番の笑顔をバンに向けた。 「ありがとう」 「何が?」 「何でも」 笑う彼女がキラキラと光って見えるのは、先にひっかけた水のしずくのせいだ。決して自分の目にだけ輝いて見えるのではないと、バンは自分に言い聞かせた。 礼を言われる理由がわからないと、バンが問い詰めると顔面に水をかけられた。水をぬぐったバンの前で、エレインはいたずらっこの目で笑っている。 「このやろうっ」 やりかえそうと、水辺にしゃがむバンにエレインの第二波が襲ってくる。小さな手ですくえる水の量は、たかが知れていた。 「野郎じゃないわ。女の子よ、失礼ね」 知っている。エレインは女の子だ。バンとは違う、可愛くて、優しくて、柔らかそうな、足の裏までつるつるした女の子だ。そして彼女は、バンの知らない誰かに片想いをしている。わかっているから、バンの胸はきゅっと何かに挟まれるのだ。
「バカね、あなたよ……」 バンの腕に抱かれたエレインが言う。彼女は小さく微笑んでいた。ゆるく弧を描く唇からこぼれる息は途切れ途切れで、バカと紡いだ声は掠れている。胸には大きな穴が開いていて、白いはずのドレスを赤黒く染めていた。 死に臨む彼女を前に、せめて彼女の想い人をここに。そう思案するバンを前に、彼女は短く告げたのだった。 「本当……、にぶいんだから」 彼女は呆れている。しかたなのないひと、と言いたげな、微笑みが小刻みに震えていた。 燃え尽きた森の、焦げ臭さが鼻を邪魔する。彼女の醸す、甘い匂いがわからない。目が痛いのは、白い煙が沁みるからだ。 「なんども、言ったでしょ……私は女の子だって……」 鼻をすすって、目をしばたかせて、バンはうなづく。確かに聞いた。何度も、何度も、彼女はバンに自分が女の子であることをしきりに主張していた。だからバンは知っている。わかっていた。エレインが女の子であることなんて、とっくの前から。 「なのに、ちっとも気づいてくれないの」 バンは傷ついた彼女の体を優しく抱きなおす。少しでも苦しくないように、痛みが遠ざかるように、それが大切な女の子に対する正しいやり方だと思ったから。 「でもうれしかった……バンが一緒にいてくれるって言うから。バンは私のこと、好きかもしれないっておもえたから……」 私がそんなこと考えてるなんて知らなかったでしょ、と彼女はまた、息も絶え絶えに笑う。 エレインは友達だ。恋人のいないバンにとって、友達のエレインが最優先だった。けれど好きな人がいるという、彼女の一番になれないことが悔しかった。悔しいだけだと、疑わなかった。バンの心はずっと、正しいサインを出し続けていたのに。 水遊びをした、エレインの白い足。触りたかった。小さな足の指と指の間を辿りたかった。そこだけじゃない、彼女のどんな場所に触れても赦される存在になりたかった。 膝の位置を動かしたとき、彼女の足が目に入った。あの綺麗だったはずの足が、煤で汚れている。ところどころ擦り傷もできていて、胸にあいた大穴よりもずっと痛々しく見えた。 彼女の足を、守れなかった。あんなに触れたくて、大切にしたかったのに。彼女の兄と同じことを、バンはやりたかったけれど成し遂げられなかった。立ち上る煙が、ひときわ強くバンの目に棘を刺して視界が滲む。決して、悔し涙なんかじゃないとバンはこらえた。 エレインの手が頬に触れる。そっと向きを正され、彼女と再び見つめ合った。こんなときに足に気をとられるのは正しくないと、叱られている気がした。 「わかってないんだから、女心」 「俺は男だ、わかるかよ……」 わななく声でする、申し開きの言葉は虚しい。女心以前に、自分の心すらわかっていなかった。そんな情けない男に、それでも彼女は笑ってくれる。 「ねぇ、もう一度言って……あの言葉……」 今なら言える。心から。 お前が愛しいと、心をこめて。 「ああ、いつか必ず、お前をーー」 誓いの言葉は、最後まで届かない。生まれて初めて自分を好きだと告げた命は、バンの手からこぼれ落ちた。
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