火のないランタン
暮れなずむ空は、ゆっくりと青むらさきに透け始める。燃えるような赤を引き連れて沈む夕日に横顔をふちどられた、エレインの金色の目は人間の町に向けられていた。 見つめる先を、指差して彼女は言う。 「人間はランタンが好きね」 妖精王の森の麓、といっても彼女のいる大樹からは豆粒ほど小さく遠い町には、斜陽の忘れ形見のようなランタンの火。橙色の点々が、町並みに沿って灯されていく。 「それとも闇が嫌いなの?」 夜の帳は星明りをひきたててくれるのに、わからないわ、と首をかしげる彼女の傍らに立って、バンも町明かりを見下ろした。 「ありゃ祭りだ」 こちらをふりかえるエレインに、バンは町のともし火の意味を敷衍する。今夜は仮装した子どもが、ランタンをぶら下げて町中を練り歩く。異形に身をやつした子どもたちに、通りや軒先で待ち構える大人たちがお菓子を与えるのが習慣だ。 「死者の魂を鎮めるだか、戯れるだか、確かそんな祭りだぜ」 「鎮めると戯れるじゃ真逆よ」 「細かいことは気にすんな」 沈む太陽に従って、空から赤みが退いていく。エレインの蜂蜜色の髪も、赤々と縁取られていたバンの銀髪も、次第に色を失っていった。引きかえに、眼下の町明かりが眩しさを増す。エレインはじっと、その橙の光を瞳の真ん中に映し続けた。 「仮装ってどんな?」 「そりゃ化けモンやら魔法使いやら、どっちかっていうと不気味なやつが多いな」 「そんな服どうやって作るのかしら。人間の服は製法が面倒でしょう?」 「さぁなー」 「町を一周したらどうなるの? もらったお菓子はどうするの? 子どもたちは夜更かしして怒られないのかしら」 「俺が知るかよ」 バンは何もない地面をつま先で蹴った。視界の隅で、オレンジ色の町からエレインの目がバンに向けられる。 「もう。人間のお祭りなのに……」 なんとも雑なバンの説明に、かえって好奇心を宙ぶらりんにされてしまったエレインは眉をひそめて唇を尖らせる。バンは肩をすくめた。 「そういわれてもよぉ、やったことも、教えられたこともねぇモンはわかんねぇよ」 バンの居直りに、エレインはふくれっ面をひっこめる。そして、祭りの明かりを見つめるバンの心に耳を澄ます。ランタンとエレインの問いかけに、今まさにバンの記憶が揺り起こされようとしていた。 バンの記憶に、親や家族の姿が顔を出すのは滅多にないことだった。今回もそう。ランタンの祭りにまつわる思い出のはずなのに、不気味な仮装も、お菓子も、ランタンすら、彼の手には届かない。賑やかな祭りを、バンは人だかりの一番後ろから眺めている。 ろうそくの短くなったランタンを揺らして、足早に家に帰る子どもたち。ランタンと同じ色の光をふりまく窓の奥には、家族の光景。窓に阻まれ、声はとどかない。閉ざされた家族の時間を、バンは、外側から見つめるだけの存在だった。 「あの窓は、開かねぇ窓だ」 エレインが自分の記憶をたどり終えた頃を、見計らったかのようなタイミング。エレインに心を読まれることを、少し前からバンは許容するようになっていた。そうとしか、思えないような振る舞いをする。 ランタンの祭りの正しい意味を、バンは知らない。教えてくれる人がいないから。仮装の服を誰がどうやって作るのか。祭りを終えた子どもたちは、もらったお菓子をどうするのか。遅くまで遊びまわった子どもたちに、親は何と言い聞かせてベッドに送り出すのか。バンには知らないことばかりだ。窓にさえぎられた家族の会話に、バンは触れることができない。 そんな孤独も寂しさも、バンはエレインにさらけ出す。彼の前ではエレインの口も軽くなった。 「私も同じ」 バンの目が、ランタンからエレインに流される。夕日よりもなお紅い、彼の瞳がエレインを捉える。 「祭りだってことも知らなかったの」 この森に暮らして700年、泉から遠く離れることは叶わない身では、一番近くの町の明かりの意味さえ知ることができなかった。今日まで、教えてくれる人も現れなかった。バンのために開かれる窓がないように、あの町にエレインのためのランタンはない。 エレインにとって、窓は兄であり、兄は家だった。たとえ妖精界に戻れたとしても、エレインを受け止めてくれる彼はいない。 「俺らはお仲間ってわけだ」 窓も家もない、はみだし者。ひとりは人間の賊で、ひとりは妖精の聖女。ふたりきりの異端者が肩を並べて、幸福な者たちの祭りを見下ろしている。 「そうね」 ひとりじゃない。 悲しみより喜びが勝るのは、その気持ちのせいだろう。バンの手にも、エレインの手にもぶらさげるべきランタンはない。悲しいはずの現実が、不思議とふたりだけに起きた奇跡のようで照れくさい。 「火がおこせりゃなぁ、ランタンもどきくれぇ作れたってのに」 妖精王の森の木々は、人間の力では燃やせない。この場所で暑さ寒さは問題にならないが、料理ひとつできないのは不便だとバンは頭をかいた。 「料理って、前にバンが言ってた、食べ物を熱い水で混ぜたり、火で直接焼いたりすること?」 「うめぇぞ。こんな腹にたまらねぇ花の蜜よかよっぽど」 不平を混ぜつつ、バンは手近な花をむしっては付け根をかじる。エレインが教えた蜜の吸い方を、彼はなんだかんだで堪能していた。それでも火を恋しがるバンと、エレインは麓の町明かりを交互に眺める。 「人間って火が好きなのね」 「そりゃな。あったけぇし、明るいし。ほら、小っせぇ太陽みたいなもんだ。お天道様なら妖精族も好きだろ」 小さな太陽と言われれば、確かにエレインにもわかる気がした。きっと人間は太陽が好きで、だから夜の闇が落ち着かない。ランタンに小さな太陽を閉じ込めて、あっちこっちにぶら下げるのも、夜が来たことをから目をそらして昼に居座ろうとするからか。 太陽、光、夜……、言葉の連なりがエレインにあるひらめきを与えた。エレインはバンからも町明かりからも目を背け、自分の手のひらに意識を集中させる。 「エレイン?」 バンの呼び声と、その発現はほぼ同時だった。淡い金緑色の光がエレインの胸元を照らす。光源は、彼女の手のひらの上にあった。 「ヒカリゴケよ」 両手一杯の金緑色の植物をバンに向ける。気づけば日も完全に沈んだ宵の口に、ヒカリゴケは頼りない暗がりの中で目に刺さるほどの光を振り撒いている。バンの丸くなったルビーの瞳の中心に、エメラルドが光っていた。 「これじゃだめかしら?」 ランタンにともす火の代わりに。 小さな太陽にも及ばない、熱のない、いわば小さな月のような輝きに、二人は知らず知らずの内に顔を寄せ合う。すぐ隣にならんだ、バンがエレインに笑いかけた。 「悪くねぇ。コケっつーのが妖精っぽい」 黄緑色の薄い背景に、エレインとバンの影が伸びている。 エレインの手に支えられた、ヒカリゴケの光の上をバンの大きな手が行き来する。長い指が器用に動いて、犬やウサギ、アヒルにヘラジカ、それからキツネの影を形作る。それは背後にそびえる大樹の幹に映し出されて、エレインを楽しませた。 「これで死者の魂は慰められてる?」 「さぁ、俺らが楽しけりゃいいんじゃねーか」 身もふたもないバンの言葉にエレインが肩を震わせて笑う。幹の上の影まで震えて、黒いキツネも笑っている。これ、お前。とバンが作った女の子らしい影に、エレインの笑い声は最高潮に達した。 たとえばこの瞬間、町にいる誰かが妖精王の森を見上げたとしても、ほのかな黄緑色の光に気づくものはいなかっただろう。ささやかな光に、しかし夢中になった二人は、もう小さな太陽に彩られた人間の町を振り返らない。エレインの手の中で光るヒカリゴケが、二人の初めてのランタンだった。
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