ラベルコレクションを手に、バンが話すのはエールの味についてばかりではなかった。そのエールを飲んだ土地で手掛けた「仕事」についても、バンはエレインに語って聞かせてくれる。たいていは賊らしいろくでもない盗みの話題ばかりだ。 何百年前に死んだ王の墓や、名も伝わらない魔物を封じたと言う祠から掘り出した装飾品について、墓暴きにエレインが目くじらを立ててれば、バンはトレジャーハンティングと言ってくれと嘯く。他にも、宝石に狂った女が肌身離さず持っていた指輪、年端もいかない子どもの上着に縫い付けられた太古の銀貨、オークションの目玉商品の名剣と、バンの獲物に選ばれたお宝は数知れない。 バンの話は、外の世界を知らないエレインに、人間が何を望み、何を守ろうとするのかを教えてくれる。妖精には縁遠いあれこれを、生き生きと再現して見せる極彩色の絵画そのものだった。何よりも、バンの、大きな口から溢れる声音は、人間と妖精の境目を超えてエレインの世界に色をつける。 「花嫁泥棒」 そんな色鮮やかな物語の中で、今日バンが語りだした仕事はとりわけ異彩を放っていた。
花嫁泥棒
「ジバゴが取ってきた仕事でよ、あいつと組んで二度目のヤマだった」 ある金持ちの屋敷に忍びこみ、初夜を前に花嫁を強奪する。どんちゃん騒ぎの中での仕事は腕のいい賊には朝飯前で、年配の新郎の寝室から若い花嫁を奪うことにバンたちはまんまと成功した。 「ところがよ、さあトンズラだって時になって、仲間が足をくじいちまったんだ」 「それってジバゴのこと?」 「あいつはそんなヘマしねぇよ。もう一人な、あの土地で引き込んだ野郎さ。根性のねぇ奴でよ。塀の前でもう動けねぇとか泣き言ぬかしやがった」 「それでどうしたの?」 足手まといになった仲間を、バンに見捨てるよう告げたのはジバゴだった。この時こそバンと組んでいたジバゴも、最後にバンを裏切っている。冷徹な判断がすでに様になっているジバゴ像に、エレインは、以前かすかに覗き見てしまったバンの過去を思い出して眉をしかめる。 バンも、ジバゴと同じことをしたのだろうか。 「その人を、裏切ったの?」 目的のためなら、仲間も捨てるのが人間だ。妖精族に比べて、同族への敬意や情愛に薄いのが人間の特徴であると、エレインはこの700年におよぶ彼らとの好ましからざる交流の中で学んでいる。頭ではわかっていても、人間の醜さをバンも持っているのだとつきつけられるのか。 だがエレインの憂いを、バンの、夏の朝のような笑顔が吹き飛ばす。 「花嫁泥棒はここだぞ!」 そして突然の大声がエレインの耳をつんざく。あまりの声量に、森の木々から何羽かの鳥がはばたいていった。声の余韻を残した、二人の間にバンの声が通る。 「仲間見捨てるなんてのは、良い仕事じゃねぇ。奴が捕まったら俺たちもやべぇからな。だから、今みてぇに大声で叫んでやったのさ」 「そ、そんなことしたら、捕まっちゃうじゃない!」 「だからだよ。マジで捕まると思えば必死になんだろうが。奴さん、足の痛みも忘れて一番に塀を乗り越えやがった」 バンの大音声に青ざめて、塀をよじ登る男の姿を思い浮かべる。その滑稽さにエレインは吹き出した。バンも肩を揺らした。高さと響きの違う二種類の笑い声が、大樹の枝と葉に吸い込まれていく。 おかしい。本当に、おかしくてたまらない。 バンも人間なのに、賊なのに、彼の中に今日までエレインが見つめてきた人間の醜さは見えなかった。 変な人間。 初めて出会ったあの日に、エレインが抱いたバンへの評価は日ごとに強く、眩しい色を帯びていった。 「ねぇ、バン。今の話でひとつわからないことがあるの」 「何だよ」 「『花嫁』って何かしら?」 「そっからかよ!」 人間の世界にエレインがとんと疎いことを、バンはもう知っている。だがバンの予想を上回るエレインの質問に、バンは律儀に目を丸くする。それがまた面白いのか、バンは面倒くさがるわけでも、エレインを馬鹿にするわけでもなく、彼女の疑問に答えるのだ。 「妖精族は結婚するんだっけか」 「結婚、人間のつがいがする儀式ね。私たちにはない習慣だわ」 その結婚をするつがいの女性を花嫁と言う。バンの説明に、エレインは兄の友だったヘルブラムのことを思い出した。妖精のくせに、人間が好きだった彼。そして人間への好奇心ゆえに、人間にさらわれた彼。エレインの700年の孤独の、遠因になった彼へのエレインの気持ちは複雑だ。だがそんな澱のような感情も、バンの傍では感じずに済む。バンの語るカラフルな世界に、エレインは追いつくので精いっぱいだった。 そのヘルブラムもかつて、結婚について口にしてた。短い生を持つ生き物は、人間に限らず、つがいになることで次に命を繋いでいく。先ほどバンの大声に飛び立ってしまった鳥たちも同じだ。けれど、とヘルブラムは付け加えた。 『人間はね、子を残すため以上に、つがい同士の絆を大切にするのだよ。一度結びついた絆はそう簡単にはほどけない。たとえ、子どもができなくてもね』 妙な話だと、エレインは思った。短い命だからこそ、次へと命を伝えていくためにつがいになることを選んだのに、その目的を果たせなくとも繋がり続けるなんて。 『自然の摂理に反してるわ』 望むがままに貪り、感情に固執する。なんて愚かな生き物。ヘルブラムの話にエレインは感動を受けるどころか、人間を見下した。それが今では、バンの語る結婚の形に、エレインの好奇心は抑えられない。 「結婚は、人間にとって大切なものなんでしょう?」 「まぁ、大事にしてる奴は多いだろうな」 「そんなつがいの邪魔をするなんて、良くないんじゃないかしら」 命を繋ぐ。人間はもちろん、妖精も持つ大きな使命。だが、それをも越える覚悟で結ばれた絆を無理やりほどくなんて。エレインは知らず知らずのうちに、人間の習慣に共感を抱き、離れ離れになったつがいへの同情を込めて、眉を吊り上げていた。 怒るエレインに、けれどバンは笑う。そしてエレインにこう打ち明けた。 「俺たちが盗んだ花嫁の、本当のつがいは別にいんだよ」 ジバゴに花嫁泥棒を依頼したのは、花嫁と同じ年頃の若い青年だ。彼は件の花嫁と、一度は結婚も誓い合う仲だった。だが式の日取りを決めようかという頃になって、青年の身に不幸が襲う。馬車の暴走に巻き込まれた青年は足を悪くし、さらに子どもも残せない体になってしまった。そして、青年に追い打ちをかけるように、花嫁の父親は二人の婚約を破棄し、花嫁とは二十も歳の違う男へと嫁がせることを独断で決めてしまう。 夫としての務めを果たせない男に娘はやれない。花嫁の父親はその一点張りで、青年を徹底的に拒んだ。バンとジバゴが青年の土地に足を踏み入れたのは、ちょうどそんな頃だ。 何としてでも彼女を取り戻したい。足の悪い自分に代わって、どうか彼女を奪ってくれ。それが青年の依頼だった。そしてバンたちは依頼を果たした。 哀れな青年と奪われた花嫁が、その後どうなったかはバンも知らない。ただ、バンたちの手引きによって、秘密の場所で再会を果たした二人は幸せそうだった。 「あれが恋ってやつかね……」 恋人たちの顔を記憶の窓から眺め、バンは呟く。恋。その短い音が、エレインの小さな胸の戸を叩いた。 「……バンは、誰かに恋したことある?」 「無ぇ」 そっけない即答に、エレインの胸は軽くなる。バンの心を大きく占める存在がいないことに安堵し、だがすぐに、切なく弾けそうな何かが胸の中を埋め尽くした。そんなエレインに、バンは気づかない。 「恋も何も、どうこうしてぇって思えるほど深く関わった相手なんざいねーからな」 男でも、女でも、仕事仲間でも、それ以外の誰であろうと、バンの20年余りの人生に刻まれたひとはひとりもいない。あのジバゴでさえそうだ。エレインが覗き見たバンの鏡に、くっきりとその姿を映し出される誰かは未だ現れない。 「皆そうだ。俺を通り過ぎていくやつばかり。……いや、俺が通り過ぎてんのかもな」 彼自身はこんなにも、色に満ちた世界をエレインに聞かせてくれるのに、彼の心はエレインと同じ灰色だった。 エレインの中に、新しい問いかけが泡となって上る。心の水鏡に浮かんだあぶくは、ぱちんと割れて胸に響いた。
私も? 私もあなたを、通り過ぎていくの?
短い命と自由な心。バンはきっとエレインから離れていく。その時が来るのが、エールのラベルコレクションを語り終えた後なのか、もっと早い時期なのかまではわからないけれど、バンが去っていくそのこと自体への諦めはついている。あの花嫁のように、彼に奪われる期待はしない。夢見るだけ。手に手をとって本物の世界を彼と見る、そんな夢を見るだけでいい。
夢を見るだけで、良かったのに。
「私は、バンとずっと一緒にいたい」 胸から浮き上がるあぶくが、数えきれない数になってエレインの心を波立たせる。水面で弾けたあぶくから溢れた願いは、エレインの口を滑らせた。 「……」 バンは答えなかった。兎のような赤い瞳を丸くして、狐のような鋭い眼差しが嘘のように、驚いている。エレインは瞼を伏せた。バンのあけすけな心を、裏表のなさを、この時ばかりは恨みたくなる。 驚くということは、予想外だということだ。ずっと一緒。エレインの願いは、エレインだけのもので、バンの中には存在しない。 「今のは、忘れて……」
花嫁になんてなれない。 バンに奪われる日は来ない。 だって私は森の聖女で、バンを通り過ぎていくだけの存在だもの。
夢は夢だからこそ美しい。世界はバンが語るからこそ眩しい。現実はきっとこうはいかないのだから、彼の鏡に居座るなんてできるはずがないのだから。そう、また何もかもを諦めてしまおうとするエレインの腕を、握ったのはバンだった。 「違ぇ……」 絞り出された低い声は、焦ったように響いて消えた。そして、頼りない声を上書きするように、いつもの張りのある彼の声音がかぶせられる。 「違うぜ、エレイン」 慣れた諦観を蹴り飛ばすような彼の声に、エレインは顔を上げる。視線の先にはハの字に垂れた眉を、複雑な形に顰める彼がいた。困ったような、それでもどこか彼の笑顔が透けて見えるような、切羽詰まった心がそこにある。 「俺と一緒にいてぇなんて、初めて言われたから。なんて答えていいかわかんなかった」 いつもあけすけて、直截な、バンには似合わない曖昧さだった。一緒にいたいという、エレインの言葉への直接の返事もない。けれど、腕を握るバンの手のひらの熱さにエレインは震える。 「エレイン」 彼の赤い瞳の中に、エレインだけがいた。バンの心のオルゴールが、胸を騒がす音色を奏でる。彼の鏡が、エレインの幼い姿を映し出す。 「俺でいいのか?」
あなたでいい。 あなたがいい。
白黒だった彼の世界に、確かに、エレインの色が塗り落された。
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