ただ、一筋の光
200年前のあの日、狂気に堕ちた親友の代わりに裁きを受けることを決めたあの時、さびしい想いをさせてしまうディアンヌのほかに、気がかりになる存在がいなかったと言えば嘘になる。キングの心に、ディアンヌに負けない爪あとを残したのは、妖精王の森に残した妹のことだった。 友を追って森を出て、それから記憶を失ってからの500年は、長寿を誇る妖精族にとっても長い空白だ。はからずも過ぎ去ってしまった時の中で、置き去りにされた妹は何を思うのだろう。彼女を想えばキングの胸に深い後悔の念がよどむ。キングにとってひとつ幸いであったのは、記憶を取り戻す以前も以後も、妖精王の森に異変が起きたという噂を耳にしかなったことだ。 妖精族と人間の間にある不可侵の密約に、キングはあまり信を置いていない。約束は破るもの、そう嘯く人間の浅はかな性もキングは知っている。それでもなお妹と故郷の無事を疑わなかったのは、親友の死と恋しい少女との別離に心が疲れきっていたからだ。今思えば、やはりそれは<怠惰>と謗られるべき罪だったのだろう。 妹は、エレインは強い娘だった。兄のキングよりずっとしっかりしているというのは、彼ら兄妹を知る妖精族の共通した意見だ。だからキングは、とっさの判断の中でもゲラードではなく、実の妹であるエレインに森を託したのだ。魔力こそキングの足元にも及ばないが、森の加護もある。きっとこのダメな王様がいなくともうまくやっていることだろう。そう、キングは安易な期待に気持ちを傾けた。500年の空白へのうしろめたさがあったことも否定しない。その証拠に、〈七つの大罪〉としてある程度の自由が赦される身になっても、キングは妖精王の森の情報からあえて目をそらし続けていた。 そうしてキングは、<怠惰の罪>を重ねていた。 「だからオイラには、今のキミに責任があるんだ。バン」 妹が死んでから20年、幸せでいると信じきっていた彼女と故郷の哀れな末路を知ってから10年、キングは初めての懺悔を口にする。かつて、彼が懺悔の言葉を求めた男に対して。妹と、故郷の仇と憎んだ男に向けて。 キングが手際よくヘルブラムを人間の手から救い出せていれば。それが叶わずとも、狂ったヘルブラムを止めディアンヌの記憶を消した後、人間に裁かれる前に一度は妖精王の森に戻っておけば。そのどちらかの行動をキングが取っていたならば、20年前の悲劇にバンが巻き込まれることはなかったのだ。 だって、そうだろう。キングが妖精王の森にいたなら。今となっては、何の意味もない仮定に思いをはせる。 キングがいたなら、エレインが700年の孤独に心を凍らせることはなかった。彼女はいまも安全で平穏な妖精界に留まり、森から帰る兄を待っていたはずだ。 キングがいたなら、バンが大樹の上までたどり着くことはなかった。神樹の加護を受けて森を守護する妖精王と、当時はただ人より魔力の強い賊にすぎなかったバンでは力の差は歴然だ。彼はきっとこの森に侵入しようとした多くの不心得者と同じように、キングの手で森の糧になっていた。 また200年前のあの日、キングが一度妖精王の森に戻り、妹に事情を説明していても同じことだ。改めて彼女に森を託し、人間と深くかかわることの危うさを言い含めておけば、たとえ孤独に苛まれる中であろうとエレインが人間の男に心を開くはずがなかったのだ。 そう、キングさえ選択を誤らなければ、バンとエレインが生命の泉の前で出会うことも、たった7日のうちに心を通わせることもありえなかった。 「つまりキミが不死身になったのも、エレインと死に別れることになったのも、冤罪を背負わされたのも、元をたどればオイラの責任なんだ」 <強欲の罪>、不死者、この名で呼ばれるバンの現在は、キングが重ねたヘマのしわ寄せによって作られた。 殴ってくれていいよ、とキングは奥歯を食いしばる。バイゼルの喧嘩祭りで、彼の拳の重さは承知しているつもりだ。体力面は人並み以下のキングにとって、魔力ではない物理的な攻撃を受けるのはひたすら恐怖なことだった。 けれどそれだけのことをしたと、殴られるくらいではまだ安いと、覚悟を持って待つキングに、バンが与えたのは拳ではなく短い嘲笑だった。顔を上げたキングに、彼はいつもの大きく歪んだ笑みを向けている。 「お前はもうちっと、他人の心の機微ってもんがわかる野郎だと思ってたが……、どうやら違うみてーだな」 ストレートな罵声が好みの、バンにしては要領の得ない言い回しにキングはいぶかしむ。キングの覚悟が、彼の目にはお門違いに映るのか。 キングはバンに責任がある。これはキングなりに熟慮に熟慮を重ねて出した結論だった。そのきっかけは、死者の都で再会したエレインにある。人の想いと想いを繋ぐ場所で、エレインが真っ先にその姿を現したのはバンの瞳の中でだった。 『オイラにも姿を見せておくれよ……!』 キングの嘆願に、バンによれば彼女は悲し気に首を振ったらしい。そんな妹が、「バンを守って」とキングに希うその時に姿をみせてくれた。その意味を、キングはずっと考え続けていた。 エレインはバンを愛している。そして、キングに怒りを抱えている。その事実が大前提だ。 キングは考えた。考えて、考えて、ヘンドリクセンのおぞましい告白の手助けもあって、20年前の妖精王の森の大焼失の真相に手が届きかけた。そのとき、「まさか」と雷打たれたような衝撃がキングの身を貫いたのだ。
あの時、オイラが選択を間違わなければ。
キングはようやく、エレインとバンに強いてしまった悲劇の大きさに思い至った。キングは自分が背負わければいけない、もうひとつの<怠惰の罪>を知った。 だからこそすべての責任を引き受ける覚悟で放った言葉に、しかしバンは首を振るのだ。妹と同じように。 わからない。 怒っているはずの妹、怨んでいいはずのバンは、キングに罰や赦しを与える代わりに難解なリドルをプレゼントしてきていた。返事に窮するキングに、バンはやれやれと肩をすくめる。彼と自分の、いつもの立場が逆転していた。 「お前はよ、ディアンヌと一緒にいるとき、どんな気持ちだ?」 バンの問いかけは、リドルのヒントだ。キングは慎重に、だがてらいない答えを自分の中に求めた。 ディアンヌは、その名ひとつ、その声ひとつで、キングの胸を焦がす。恋しい人。愛すべき人。彼女とともにいた500年の間、そして今もときおり共有するひとときに、キングの心は何を見ていたのか。 「世界が、明るくなるような……、そんな気持ちだよ」 恋は色だ。恋しい相手は一筋の光だ。ただ、そのひとつの光で、この世の全てが色を変えていく。虹の橋がかかり、その上を踊りながら渡ることができる。春の花びらが空に舞い、純白の羽が降りそそぎ、太陽がキングの胸に飛び込んでくる。まさに一生事の恋が、彼女だった。 大げさではない、しかし夢見がちなその表現を、バンは笑わなかった。 「エレインと出会わなきゃ、俺はそんなもんも知らずに終わってた。てめぇの手を煩わすまでもねぇ。どっかで野たれ死んでただろうぜ」 クズみたいな人生と、バンが自分を蔑むことをキングは思い出していた。愛を与えられず、恋を知らず、春も夏もなく、町中どこも立ち入り禁止の立て札ばかり。すれ違う他人から何をどう奪うかしか考えてこなかった人生を、変えてしまうのもまた一条の光だった。 その光を喪ってなお、知らないよりはマシだったとバンは妹との恋に後悔を語らなかった。 「だいたい、てめぇが口出すことじゃねぇんだよ。あいつのことも、この体も、全部俺のもんじゃねぇか」 キングは自分を責めるけれど、生命の泉を狙ったのはバンの意志であり、そのバンを受け入れたのはエレインの能力があってこそ。その一番肝心なことを、キングはわかっていないとバンは首を振る。たとえどんな力でキングが二人の出会いを阻んだとしても、いつかどこかで二人は巡り会い、恋に落ちなかったとは言い切れない。そう夢想できるほどの、想いが二人を結びつけた。 「……欲張りすぎなんだよ、キミは」 わかっていないというのなら、打ち明けてくれたっていいじゃないかとキングは小さな拳を握る。20年前に起きたことの、本当のことも詳しいことも確かにキングは何も知らない。偽りも、真実も、何もかもバンが独り占めして手放さないのだ。 実の妹のことくらい、少しは分け前をくれよ。そうなじるキングにバンは鼻を鳴らす。 「聖人君子気取りなてめぇに、くれてやるもんなんざねーなぁ。エレインのことだって、あいつの顔が見れたんだろ。もう怒ってねぇって、素直に受け取っちまえ」 「彼女が姿を見せてくれたのは、オイラを赦したからじゃない。キミのためだ」 バンを守ってほしいから、そう告げたのは彼女自身だ。正直なところ、彼女が姿を見せてくれなったこと以上に、その願いはキングの心に堪えた。ずいぶんとひどい復讐をするんだな、と言い返したくなるのをぐっとこらえたほどに。 エレインが孤独に耐えたという700年の裏側には、キングなりの事情があった。それを盾にする気はないけれど、情状酌量の余地はあっていいはずだ。だがエレインは、キングの過去に一言も言及することなく自分の望みを伝えてきた。 バンを守って。バンをわかって。バンを、バンを……。 バンは、キングの<怠惰>の被害者だから。キングの罪悪感を、彼女は見事に利用した。 「それこそあいつの甘えだろ」 考えれば考えるほど、エレインとの心の隔絶が身に沁みる。そこに落ちたバンの言葉は、まったくキングの埒外にあった。 「えっ」 「俺じゃあるまいし、あいつがそんなあくどい真似をわざとやったと思ってんのか」 バンの指摘に、キングの顔がこわばる。 「でもっ、だけど……っ」 「わざとだとしてもよ、てめぇ言ったろ。あいつは『強い娘』だって」 その強い彼女が、なりふりかまわずキングを利用しようとした。意識的であれ、無意識の内であれ、あのエレインが口にしたのは「わがまま」と呼ばれるものではなかったか。 「兄貴なら叶えてくれるって、疑わなかったんだろーが」 エレインがそんな子どもじみた真似をする相手は、この世界広しといえどもキングだけだと、バンは言う。キングは二の句が告げなかった。何か言いたかったけれど、嘘だでも、まさかでも、何か一言口にしたかったけれど、動揺しきった口はぱくぱくとわななくばかりで、舌は絡まり喉は動かない。 しっかりした妹だった。どちらが兄で妹かわからないくらい、凛とした強い少女だった。死者の都での別れ際に、「ありがとう」と告げてくれた彼女の甘えた声がよみがえる。 「エレイン……!」 ここにいない彼女を呼ぶ声は、ひどくかすれてみっともない。キングの滑稽な狼狽を、バンは遠慮なく笑った。 「慕われてんじゃねぇか、『お兄ちゃん』」 気遣うはずが、気遣われている。慰めるはずが、慰められている。これじゃあべこべじゃないかと、キングは顔をゆがめて歯を食いしばった。
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