心が欲しい。ゴウセルは常に思っていた。 感情を理解することのできる心。人を人たらしめる根源である心。その心より発露する衝動によって、人は笑い、泣き、怒り、自分ではない他者への共感を表す。そのどれもがゴウセルとは離れたところに存在した。 今ここに、小さな石ころに執着を示す男がいる。執着もまた、人の心が見せる感情のひとつだ。ゴウセルは、指でつまんだ小石を見つめる男の横顔を食い入るように見つめている。無防備な男の姿は、ゴウセルに絶好のサンプルを提供してくれているように思われた。 そしてゴウセルは、男――バンに気づかれないよう詮索の光を放った。
その小石を美しいと君は言う
「クズ~、クズ~……、チッ、これもクズ石かよ。今日はロクなのがねぇな」 <豚の帽子>亭の店内で、不平をこぼしながら、バンがぽいぽいと放り捨てていくのは鉱石の欠片だ。彼がクズと断じたそれらはうまくいけば窓から店外に放り出されるが、いくつかはゴウセルめがけて飛んでくる。そのいくつかを最小限の動作で避けながら、ゴウセルはバンが価値ありと判断した石の鑑定を継続していた。本日休業の看板をぶら下げた店内にいるのは、バンとゴウセルの二人だけだ。 バンの恋人という妖精族の少女の求めで、エリザベスとホークを含めた<七つの大罪>が死者の都の戦いに身を投じて早くも十数戦目。戦いのさなかに手に入れた鉱石や素材の選別は、いつしかバンとゴウセルの役目になっていた。 一度の戦闘で小山ができるほどの戦利品を、バンが値打ちものか否かを見極め、正確な価値をゴウセルが鑑定する。元・盗賊で捨て目の利くバンと、知識の正確性を買われたゴウセルの役割分担は、いまのところ上手く機能していた。 「死者の都もシケてやが……」 そんないつもの作業の中で、ゴウセルはイレギュラーの発生を認めた。<豚の帽子>亭の1階の隅を作業場にしていたゴウセルは、バンの途切れた声に顔を上げる。二つほどテーブルを跨いだ先で、選別作業に勤しんでいた彼は鉱石をよりわける手すら止めていた。日頃勤勉とは程遠い彼も、賊の気質からこの仕事には比較的熱心に取り組んでいたはずなので、サボっているとは考えづらい。第一、サボるとなればバンはもっと堂々とサボる男だ。 そんなバンの、視線の先には薄橙色をした石があった。彼の大きな手につままれた、小さな石ころは一見すると日長石のようだ。 日長石はその名の通り、太陽の輝きを宿すとされる石だ。けれどバンの手の中の石の、橙色の夕靄をとじこめた光は濁っていて、遠目からでもあまり価値があるようには見えなかった。 その石にバンは視線を縫い止められ、言葉すら失っている。彼が見せた感情を、ゴウセルは執着の一種だと推察した。そしてバンの執着に、ゴウセルの<欲>が頭をもたげる。常日頃から心を欲しているゴウセルが、バンに詮索の光を放つか否か迷っている時間は短かった。 石を見つめる、バンの記憶にはひとりの少女がいる。 肩ほどの金髪を揺らし、ひだの多い白い服を着た彼女の姿は、かつてキングの記憶を詮索した時にも見たことがある。バンとキングの記憶、そしてこの死者の都での戦いの経緯を照らし合わせれば、彼女の名を特定するのはたやすかった。
エレイン。
キングの妹であり、バンの夢に現れ助けを求めた死者の都の少女。死者の都の住人である以上、彼女もまたこの世の者ではない。そんな死者の名は、バンとキングの口にしばしばのぼった。とりわけ、バンの口から出る回数は群を抜いている。 バンはエレインという名の少女に執着している。この結論に至った後のゴウセルの行動は速かった。 ゴウセルは席を立ち、未だ純度の低い日長石を眺めるバンの傍らに立つ。ゴウセルがつくった影に、石からこちらへと角度を変えた紅い瞳にゴウセルは語りかける。 「好意と瞳孔の話を知っているか」 「あン?」 どうみても藪から棒の問いかけに、バンのハの字の眉がひそめられる。だがゴウセルにとっては非常に筋道の通った確認作業だった。 人は興味の惹かれるものを視界におさめたとき、瞳孔が開く。瞳孔は視覚に入る光の量を調節する機能を持つ器官だ。つまりは好奇の対象の視覚情報を、より多く取り入れようと機能して拡張される。結果、対象を含む視界は明るくなる。好ましい、愛おしいと思う相手がきらきらと光り輝いて見えるのはそのせいだ。 ゴウセルは、バンのルビーのごとき紅眼を覗きこんで言った。 「先ほど、その石を見つめるお前の瞳孔は開いていた」 価値のない日長石はその瞬間、バンには輝いて見えたはずだ。彼がいつまでも目を奪われていた理由はそれで説明できる。だがそもそも、なぜ彼の瞳孔は開いたのか。 「お前はそのクズ石に好意を持ったはずだ。それはなぜだ? 俺はその理由が知りたい」 値打ちのない石は、バンの賊としての琴線をつまはじく理由を持たない。だとすれば弾かれたのは、バンの、より個人的な、深層部分に張られた線のはずだ。ゴウセルはバンの指につままれた小石を見やる。この小さく濁った日長石は、バンの心に触れたに等しい。 ゴウセルの立てた仮説の証明に、しかし協力を乞われたバンはつれない。 「お断りだなぁ」 「そうか、残念だ」 言葉尻こそ軽ろやかだが、ゴウセルを見上げる紅の双眸は険しく光っていた。言動の不一致はゴウセルも同じ。言葉の上ではあっさりと引き下がりながら、ゴウセルはバンの傍らを離れない。彼は次のステップへと進むことにした。 「では、これならばどうだ」 それは実験だった。被験者の承諾を得ない実験は、実にたやすい手順で可能となる。必要となる手順は3つでよかった。 濃いピンクであったはずの、ゴウセルの髪に輝きが増すのが第一段階。髪は木漏れ日を映したような金髪へと近づいていく。第二段階は髪の長さ。肩ほどの長さに合わせて、前髪も伸び始める。同時に第三段階へ。元々白々としていたゴウセルの肌が、さらにその白さを深める。目指すはバンの記憶の中の、目も眩むようなアラバスター・スキンだ。 「こうすると似てこないか?」 バンとキングの記憶から、「彼女」のおおよその容姿は推察可能だった。次第に見開かれていくバンの紅い瞳からも、ゴウセルが誰の姿を借りようとしているかは伝わっている。 「教えてくれ、バン。この少女に抱くお前の感情はどんなものだ。瞳孔は広がっているな。今のお前に、俺は輝いて見えているか」 ゴウセルに、キングのような変身能力はない。だが顔立ちや体格がそのままでも、髪や肌の色合いの違いだけで印象はずいぶんと変えられた。日長石の鈍い光ですら彼女を連想する、バン相手ならばとりわけたやすい。 「宝石になりそこねたその石を、なぜお前は慈し――」 核心的な問いは、最後まで言えなかった。バンの渾身の一撃が、これまでのすべての問いかけへの答えとしてゴウセルの胸にめりこむ。この時、ゴウセルが一瞬でも踏ん張って衝撃を殺さなければ、たたきつけられた壁は粉砕され、店は大破していたことだろう。ゴウセルの背後にあったテーブルやイスたちは、巻き添えを食らって木っ端微塵だ。 「な、何事っ?」 轟音と共に<豚の帽子>亭全体を揺るがす騒ぎに、上の階や店の外にいた仲間たちが顔を出す。拳を握って立つバンと壁ぎわで倒れ込んでいるゴウセルに、まっさきに関わろうとしたのはキングだった。 「バン? ゴウセル? 何があったの!」 キングは神器に抱きついたまま、天井付近から店の惨状を見下ろしている。エリザベスを連れたメリオダスと、入れ違うようにバンが店を出て行くのを足音で察しながら、ゴウセルは仰向けに倒れたまま指一本動かせずにいた。 「だ、大丈夫かい?」 ゴウセルの頭上からキングが覗き込む。バンの尻拭いがくせになっているキングは、彼がゴウセルを殴ったことが一目瞭然の光景に心配そうだ。だが、ゴウセルが被害者とキングが単純に認識していた時間は短かった。 「ゴウセル……その姿は……」 バンは無言の拳で、ゴウセルの目論みが完遂されることを阻んだ。髪は中途半端な金褐色、肌もアラバスター・スキンに届かない。不完全な似姿は、しかしキングにも十分に「彼女」を認識させるようだ。 ゴウセルのいつもと違う姿に、キングの幼い目が見開かれる。こわばったその表情は、ゴウセルに殴りかかる直前のバンのそれとよく似ていた。 「まさか、キミ……!」 「俺はバンに、心を教えてもらおうとしたにすぎない」 ゴウセルの主張に、キングの顔が歪む。みなまで聞かずとも、彼はゴウセルがやろうとしたことを理解した。そして共感が得られるものと思っていたゴウセルに、キングが落としたのは震えの混じった否定の言葉だった。 「ひどいよ……」 「何がだ。なぜバンは喜ばない。なぜキングは俺を責める」 「頼むよ、ゴウセル。それだけは、やめてやってくれ」 「理解不能。説明を要求する」 キングはあまりにも言葉足らずで、論理的でもない。順序立てた説明を求めるゴウセルに、キングは弱弱しく首を振った。バンの心は、バンにしか語れない。だがバンが受けた痛みは、殴られたゴウセルの痛みよりもずっと大きく尾を引くのだと、彼はまた曖昧な敷衍を繰り返すばかりだった。 「キミがしようとしたことは、バンにとって生傷をえぐられるより辛いことだ。……オイラにとってもね」 「それもまた心か」 わからない。わからないながらも、ゴウセルはゆっくりと髪と肌の色を戻していく。 バンはあの少女に執着し、ゴウセルはバンに執着の対象を提供しようとした。まるで同じとはいかずとも、十分に連想させるだけの要素は揃えている。あの日長石よりはよほど、ゴウセルが見せた容貌はバンの望みに適うはず。求めるものを与えられたバンは、喜んでゴウセルに協力してくれるものと考えていたのに、それは身を斬られるよりもつらいことなのだとキングは言う。 元の姿になった、ゴウセルはむくりと起き上がる。 「わからない」 人の心は謎ばかりだ。
<豚の帽子>亭から20ヤードも離れていない、小川のほとりにバンはいた。川縁には角の尖った小石が、異様に多く積み上がっている。下流の川辺には不似合いな石の形は、おそらくバンの八つ当たりを受けた岩のなれの果てだろう。彼の周囲数フィートは岩ひとつない更地同然だった。 バンの怒りの残骸を踏みしめながら、ゴウセルは再び殴られる恐れも持たず彼に近づいた。 「バン、謝りに来た」 「うるせぇ」 案の定、バンは聞く耳を持たない。従ってゴウセルは、この展開を予想した人物からの伝言を口にする。 「『話くらいは最後まで聞いてやって』と、キングから言付かっている」 バンはやはり答えない。だが少したってから、小さな舌打ちがゴウセルの耳をかすめた。それを了承ととって、ゴウセルは最初に告げた目的を果たそうとする。 「すまなかった。キングに叱られた。もう二度としない」 「当たりめーだ」 ふり返らないバンの低い声が、彼が懸命に怒りを抑制しようとしてることをゴウセルに伝える。ゴウセルが口にしたキングの名が、彼の忍耐に協力しているのは間違いなかった。 キングの言葉は、バンの感情を従わせる力を持つ。そのゆえんは、やはりエレインだった。 エレイン。 エレイン。 エレイン。 死者の都に、ゴウセルは初めてだが、<七つの大罪>が再び足を踏み入れる直接の原因である少女は、しかしそれ以上の存在感でバンとキングの関係を支配し、バンの心を独占する。ゴウセルは今まさに自身が置かれている状況に、そのことを認めざるを得なかった。 ゴウセルにとって、人の心は不可解の一言に尽きる。 バンの渾身の一撃を食らった瞬間、ゴウセルは腹部にめり込む彼の拳を通して彼の記憶を見た。ゴウセルの所業によって呼び起こされたであろう、エレインの記憶だ。白くハレーションを起こした世界にたたずむ少女は、バンに優しく笑いかけていた。 彼女は死んだ。彼女が微笑むことは二度とない。内側から光を発するような金色の髪も、抜けるような白い肌も、恥じらうように儚くバンの名を呼ぶ声も、現世のどこにもありはしない。 「そしてこれをお前に返そう」 ゴウセルが差し出し、ようやくこちらに向き直ったバンの手に渡ったのは、あの騒ぎでバンが落としてしまった日長石だった。 バンが失った彼女の現身を、提供することでゴウセルはバンの歓心と協力を得ようとした。その計画は見事に破たんしたが、この経験を通じてゴウセルはひとつのことを学ぶ。 市場において、値打ちとは需要と供給、そしてそのものの希少性によって決定される。バンが何よりも求めるものはすでに現世になく、まるで同じものも現世に二つとない。そんなバンに限った需要過多の状態において、この石は無上の価値を持ち得た。 いわばこの石は、エレインの瞳だ。たとえそれ自体、市場で値のつかないクズ石であろうと、バンには彼女の瞳の輝きを思い出す貴重なよすがだった。 「ものの価値とは、そういうものなのだな」 ゴウセルは何も説明をしなかった。ただ石をバンに返し、この言葉を口にした。だがバンは、ゴウセルのおおよその考えを察したようだった。 「知った風な口利いてんじゃねーよ」 心を持たないゴウセルに、真の意味でバンの気持ちに共感することは叶わない。ゴウセルが人形だとは知らないバンの言葉は、しかしそのことを見越しているかのようだった。バンの突き放した声音に、ゴウセルは自分の謝罪に価値がないことを知る。 「まだ赦してもらえないか。残念だ。俺の用件は以上だから、またお前を怒らせる前に退散することにしよう」 「ゴウセルよぉ……」 引き返そうとするところを呼び止められる。予想外の展開ながら、バンの怒りのこもった砂利の上で立ち止まり、振り返ってゴウセルは彼の次の言葉を待った。 「そもそも、お前は何がしたかったんだよ」 バンはゴウセルの目を見ないで尋ねる。バンとの対話で、ゴウセルが尋ねられる側にまわるのは珍しいことだった。 「俺は心が欲しい。感情を理解する心だ」 「心、ねぇ……」 疑るようなバンの言いように、ゴウセルは首をかしげる。 「んなもん持ってたってよ、やっかいなだけだってのは俺を見てりゃわかるだろ。それでもお前は心が欲しいのかよ」 ゴウセルから渡された、小さな小さな日長石をバンは手の中で弄んでいる。その口元には自嘲の笑みこそ現れていなかったが、彼の声にならない声はこう言いたげだった。死んだ女をいつまでも女々しく想い続けるのも、死なない体を痛めつける悪癖も、全ては手懐けられない心が原因なのだと。 「欲しい」 謎ばかりで、不可解で、やっかいな人の心。だがそれは同時に、何の変哲もないクズ石を美しく想える心でもある。心ひとつで小さな石ころの輝きが増すのならば、きっと世界が光に満ちることもあるのだろう。 「初めから心を持つお前に、俺の望みはわからないだろうが」 「つまりはそういうこった」 「つまりはどういうことだ」 キングもバンも、心を持つ者たちは言葉と論理が足りない。おかげでゴウセルはいつも、自分が分別のない愚か者になった気分にさせられる。それに怒りを感じるゴウセルではないけれど、もどかしさは残るのだ。 そんなゴウセルに、バンがよこしたのは忠告だった。 「他人の<欲>を、てめぇのモノサシで測んな」 やはりこの時も、心ある者の言葉はゴウセルの理解の上を行った。人が望むものは千差万別で、その差異こそが心の在り処なのだという、バンの真意はゴウセルの胸に届かない。 「わからない」 まだまだ学ぶべきことは多い。その焦りに、空っぽのはずのゴウセルの胸が軋んだ音を立てた。
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