恋し君へ - バン×エレイン




 気づいたら生まれていた。
 気づいたら食べていた。
 気づいたら盗んでいた。
 気づいたら魔力に目覚めていた。
 そして、
 気づいたらここにいる。

 そんな、それだけの、俺の人生。



 恋し君へ



 きっと木の股から生まれてきたんだろう、とバンはいつしか自分の出自について思うようになっていた。親兄弟は初めからいなかったし、それに類するような何かに触れたこともない。行き交う人々は不思議なほど、バンに関心を払わなかった。
 バンには、生きることそれ自体が大変だった。ひっきりなしに鳴る腹の虫を抑えるのも、命をくれと囁く冷たい風から身を守ることも。人間って大変なんだな、と特にひっかかりを覚えることもなかった。右を見ても左を見ても、ドブ臭い路地の暗がりには、バンと似たり寄ったりの人間があふれていたからだ。
 けれどある夜のこと、皆が皆そうではならしいと気づいてしまったバンは立ち尽くした。
 花火の煙だけを残した夜空の下で、ランタンが灯る。軒を連ねる家々の窓からは、冬の街を彩るランタンよりも明るくあたたかな光がもれていた。寒さに濡れた石畳の上に、影が踊る。香ばしい良い匂いが、ヴェールのように影の合間を揺蕩っていた冬の祭りの夜。街は、幸福な影で満たされていた。
 その影を、バンは踏みしめる。
 金がある影、食べ物がある影、雨露をしのぐあたたな家を持つ影、他の誰かの影が寄り添う影。
 何もないのは、バンひとりくらいだった。
『何を見てる』
 窓越しにかけられた声に、バンは自分が持つものを思い出した。
『あっちへ行け』
 決してバンに開かれることのない窓の向こうで、男が忌々し気に腕を払う。悪意。バンがその両腕にあまるほど、受け取ってきたもの。
『こんな夜に盗みにでも入ろうってか』
 何かあれば疑われる。ただ立っているだけで、非難される。こうしてあたたかな世界を遮る窓を前に、立ち尽くす理由など考えてくれない。バンの顔など、見もしない。

 たぶん俺は、誰の目にも映らない。

 耳ざわりなノイズか、視界を妨げるモヤみたいなものだとバンが自分をイメージするのにそう時間はかからなかった。そこで諦めてしまえばいいものを、そうするにはバンは若すぎたし、欲張りでもあった。誰かの目に入りたい、気に留めてもらいたい、そんな気持ちが作用したのか、気づけば図体ばかりが大きくなっていた。
 それでも、バンの姿に、呼び止める者はいない。
 春になって、バンは空を飛ぶ鳥を見上げていた。木の実をついばみ、あっさりと飛び去っていく小さな影にバンは理解した。生きるとは、そういうことだ。欲しいから得る。得たら去る。行き交う人々にも理由はなく、ただ互いに通り過ぎていくだけなのだ。腹が減っていて木の実がひとつしかなければ争い、勝ち目を得るためにその場限りの縁を結ぶこともある。
 同じだ。あの鳥と人も変わらない。自分が生きるために最善を尽くす。裏切られるのも、生きる過程のひとつだとわかってしまえばなんてことはない。互いのすれ違う一瞬が終わっただけだと見送るだけだ。
 そうやって、バンは見送る。ジバゴさえ。
 体が大きくなれば、生きるのは楽になった。体に見合うだけの膂力もあったし、どういうわけかバンは魔力に恵まれていた。人ならざる力があれば盗みもやりやすい。仕事がはかどる、腹が満ちる、日の光を浴びる、たっぷりと眠って目覚めた時には小さな幸せをかみしめる。特に酒がもたらす幸福感はひとしおだ。良い酒が手に入って、おまけにうまくいけばあたたかい寝床が得られる日もある。
 だからバンは思う。今日を生き抜けば、明日が来れば、また幸せが二つ同時に現れるかもしれない。そうやって明日を、明日の明日を、ずっと生き続けてさえいれば、この世の幸せ全てが一度にバンの元に訪れる日がくるのではないかと夢見て生きる。

 いいじゃねえか、夢くらい。

 空っぽの心と体に、夢ならいくらでも詰め込める。生命の泉の伝説は、バンの夢を現実に大きく引き寄せる力があった。木の股から生まれた空っぽのバンが、大樹の上で孤独な聖女に出会ったのは必然なのかもしれなかった。
「バンデット・バン」
 自分の名は自分でつけた。誰も呼ぶ人がいないから。覚えやすよう、短くてシンプルな名前にした。自分で自分を確かめるためだけの名前に、バンデットと粗野な修飾がついたときには誇らしかった。ノイズかモヤのようだった自分の姿に、かすかな輪郭がついた気がしたのだ。それでも、バンの名前をそのものを呼んでくれるひとはいない。

『バン…』
 いない、はずだった。

『バン』
『ねぇ、バンってば!』
 耳にこびりつくくらい、この名を呼ぶ声がある。バンデッドではない、ただのバンをその瞳に映す彼女の声があった。




 気づいたら死なない体になっていた。
 気づいたら投獄されていた。
 気づいたら牢から殴り出されていた。
 気づいたら仲間ができていた。
『バン』
 気づいたら、彼女の代わりに誰かが名を呼ぶ。
 気づいたら、彼女の物ではない声に、からっぽのはずの体を何が満たそうとしていた。
 けれどある時、やはりバンは気づくのだ。もとのからっぽに逆戻りしていく自分を。日差しの暖かな、優しい風の吹く日にそれは多い。花の匂い、草木のざわめき、美しい水の波紋。美しい世界が、無くしたものをつきつける。
『バン』
 声が恋しい。
 ひとりぼっちのベッドの上で、朝陽の中でバンは二日酔いに呻く。きらきらとした朝の風景が、バンの孤独を浮き上がらせる。
 バンが寝そべるベッドは広く清潔でやわらかで、大好きな酒は毎晩浴びるようにだって飲める。バンの名を親しげに呼ぶ仲間がいて、手ごたえのある「仕事」には事欠かない。聖騎士なんてご大層な身分のおかげで、国中のぬいぐるみで身の回りを固めてもおとがめを受けることもない。
 この世の全て、とまではいかないけれど、バンデットだったころと比ぶべくもない幸福が、アンデッドとなったバンの足元に転がっている。それなのに、心も体もちっとも満たされない。
「エレイン……」
 お前だけは、ただ通りすぎる誰かにはしたくないと思った。手を繋ぎたいと、結んだ一瞬をほどきたくないと、バンは切に願ったのだ。その願いを叶えてくれる誰かがいると、信じてもいなかったくせに。
 世界はこんなにあたたかいのに。世界はこんなに輝いているのに。酔った果てに見た夢はあっという間に色褪せ音を失っていく。彼女の姿も、名を呼ぶ声も、みるみるうちにバンの中から零れ落ちていく。そうして空っぽになった心と体に、わずかに残った澱こそがバンを動かしている。
 いつか、おまえを
 最後まで言いきれなかった〈強欲〉が、バンをバンたらしめている。
「エレ、イン……」

 お前が恋しい。

 エレイン。
 お前と過ごした7日が、ただただ恋しい。





あとがき(反転)
聖騎士時代のバン。
傍から見れば恵まれた時期だっただけに、ふと襲う虚しさが辛かったろうなと。

2015年8月22日掲載
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