消せない記憶 ― バン×エレイン




 

 「記憶を消してくれと、バンに持ち掛けられたことがある」
 抑揚のないゴウセルの声が、豚の帽子亭の中で発せられる。その声音のほとんどは酔いつぶれたバンのいびきにかき消されたが、すぐ傍らにいたキングとディアンヌの耳には届いた。
「いつのこと?」
「〈七つの大罪〉がまだ〈七つの大罪〉だったころだ」
「つまりはザラトラス聖騎士長が死ぬ前ってことだね」
 ゴウセルは頷く。その間も、彼の無垢すぎる瞳は酔余の眠りに沈むバンに向けられていた。



 消せない記憶



 ゴウセルの発言は、実のところ正確ではない。バンは決して「記憶を消せ」とゴウセルに頼んだわけではなかった。ただ、真意はそうであっただろうと、ゴウセルは推察している。
 あの日もバンは酔っていた。頭も真っ直ぐにたもっていられないほど、ぐでんぐでんになっていたが、彼の周りに転がる酒瓶の数は数えるほどだ。バンの、酒好きの割には情けないほどの下戸ぶりはよく知られていた。
 呑まれるくせに呑む。酔いっぷりはおおむね陽気だが、誰彼かまわずに絡むので酒癖が良いとはとても言えない。次の日に酔いを残すことはあまりないが、それでも酷い二日酔いに呻く朝がないと言えば嘘になる。その度に、勤勉実直なザラトラス聖騎士長に窘められ、禁酒を言い渡されては反抗していた。その傍若無人ぶりに、同席していたザラトラスの弟の不興を買い、彼の魔力「砕貫(ブレイク)」を正面からくらわされて城壁にめり込まされてもいる。顔の半分を潰されながら、しかしバンは禁酒の誓いを立てようとはしなかった。
 だから今夜もバンは酒を煽る。彼に酒を売らないよう、王国(リオネス)中にお触れが出る日も近いだろう。
 そうまでして、自分の正体を失くそうとするバンを、ゴウセルは分厚い装甲の奥から見つめていた。幸か不幸か、今夜の酒場にはバンとゴウセルの二人しかいない。
「なあ、ゴウセル!」
「なんだ、バン」
 案の定、酔いの回ったバンに絡まれる。ボトルの口に歯を立てる彼の、赤い瞳は胡乱に光をたたえていた。
「お前の魔力は、人の精神に干渉できんだろ?」
 バンの呂律は回っている。そこまで深い酔いではないらしい。ならば彼の記憶に残ることも考慮して、そうだ、とゴウセルは鎧の中で頷いた。バンにその動きは見えなかっただろうが、気配を察したのかかまう様子はみせなかった。
 瓶から直接酒を煽りながら、彼は話を続ける。
「だったらよ、記憶のひとつやふたつ、簡単に消せんじゃねーのか」
「それがバンの記憶というのなら、答えはイエスだ。希望があれば聞こう」
 そう言って装甲に覆われた右手を掲げる。手首のあたりからチリチリと発せられる神器ハーリットの光にバンの目が向けられる。赤い瞳の中でゆらめくハーリットが、まるで炎のように見えた。
 飲み口から、顔を離したバンはハーリットの光に見入っていた。彼は今、消すべき記憶を思い出そうとしている。もしくはなぞっているのか。ピクピクと、瞼が震えるのは、日頃バンが見せるアルコールの症状とは異なっていた。
 ゴウセルは、バンからのリクエストを待った。強欲なようで、決して何ものにも深い関心を示さない彼が「捨てたい」と思うものの正体をつきとめたかった。人の心にまつわることであれば、ゴウセルはバン以上の強欲になれる。
 だが、ゴウセルの望みは果たされない。瞼を下ろし、ハーリットの光を拒んだバンは、ゴウセルから顔を背けて告げた。
「やっぱ、いいわ。気の迷いだ」
 そうして彼は席を立つ。足元で倒れた酒瓶を不器用に跨ぎながら、それでも自分の足でどうにか歩いて、バンはゴウセルの前から姿を消した。


 「あの時のバンが、何を望んでいたのか俺にはわからない」
「酔っ払いの戯言でしょ~」
「そうだろうか」
「何がそこまで気になるんだい、ゴウセル」
 キングの言葉に、ゴウセルは自分の中にある違和感と向き合う。
 記憶が消せるか、と尋ねたバンに、ゴウセルは消したい記憶の希望を聞いた。だがバンはしばらく考えた上で断った。その断り方が妙だ。
『やっぱ、いいわ。気の迷いだ』
 この台詞は、消したい記憶がない人間が発するには不適切だ。彼は消し去りたい記憶を持ちながら「やっぱ、いいわ」と決断した。「気の迷い」という言葉は、記憶を消したいと言う衝動が確かに彼の中にあったことを証明する。
「消してしまいたいほどの記憶ならば、それはバンにとって忌まわしいものなのだろう」
「そうだろうね、きっと」
「だがバンは最後には消すことを拒んだ。なぜだ」
 消したくとも、その方法があろうとも、消すことが叶わない記憶とはどういうものなのか。自らをして「心を持たぬ者」と自負するゴウセルには、バンの心の変移がわからない。
「なんだかおセンチそうな話だよね~」
「おセンチ? 長さの単位か」
「違うね。切ないなってことだよ」
「切ない……。悲しみや寂しさで、心が切れるような思いを言うのだったな。たとえばどんな時にひとは切なくなる」
「そうだねぇ、やっぱり失恋かな~。バンにも昔フラれた女の子がいたのかも」
 あのバンがね、失恋にうじうじしてるなんてね、奪い損ねたのがよっぽど悔しかったのかな。ディアンヌは愉快そうに、けれどどこか同情的に盛り上がる。辛いこと、苦しいことを明るい笑い話にしてしまうことも、ディアンヌの持つ優しさのひとつだ。
「失恋……、心のない俺はまず恋をしない。そもそも恋を得ないのなら失うこともない。よって推察は非常に困難を極める」
 失恋を笑い飛ばすディアンヌの優しさと、失恋について考察と分析を重ねるゴウセルの淡白さにはさまれて、ひとり口を閉ざすキングの表情は複雑だった。ディアンヌもゴウセルも、バンの過去を知らない。キングとて詳細は不明だ。だが、バンの忘れたくとも忘れられない記憶に(エレイン)が関わっていることは明白だった。

 失恋。

 ディアンヌの言葉は、的を射ている。死という形で、バンをこっぴどくフっておきながら、彼の心に居座り続けている妹。バンの強奪(スナッチ)から、逃げおおせた唯一の存在。

 消したくても、消せない記憶。

 ゴウセルの分析は、未だ癒えないバンの失恋の痛みを、その元となった妹の存在の大きさをキングに伝える。
 妹が、この世を去ってまだ20年だ。妖精族には瞬きのような短い時間、キングにはつい昨日のことのように思える。けれど命短い人間に、20年という歳月はどれほど重くのしかかるのだろうか。不死者となって間もないバンには、彼女の元に逝くことも、心が老いて動かなくなっていくことも叶わない、地獄のような年月なのだ。
 妹への報われない恋心に疲れ果て、酔ったバンはゴウセルに救いを求めた。けれど結局彼はゴウセルの手を拒み、今なお痛みを抱え続けている。もう、ここにいないエレインを想って。

 もういい。
 もういいんだ、バン。

「もし本当に忘れられない失恋なら、バンにそんな想いをさせる相手はさぞかし素敵なひとなんだろうね」
 ディアンヌの言葉にキングは顔を上げた。彼女はうっとりと頬を染めている。
「だってあのバンだよ! 欲しがりのくせに、あんな飽きっぽい奴なんてボク知らない」
 欲しがるのは、二度と塞がることのない心の穴を埋めたがるからで。飽きっぽいのは、その穴はどんなものでも決して埋まることがないと彼が絶望を繰り返した証で。彼が虚しさと共に胸の内に押し込めてきた慟哭は、心を読むことを得意としないキングの耳にまで届きかねない。

 素敵なひと。

 この世に残る、エレインの面影を指す言葉。バンの想いが、彼女の在りし日の姿をこの地に縫いとめる。バンが妹を強く想えば想うほど、他人(ひと)の心に描く「彼女」の姿は美しくなる。
「バンの気をこれだけ長く惹きつづける相手か。ディアンヌの主張には一理ある」
「でしょー!」
 エレインは、ここにいる。彼が想う限り、彼の記憶に残る限り、彼女は思い出という名の美しい額縁に飾られ続ける。
 盛り上がる二人から離れて、酔いつぶれるバンは彼女の夢を見ているだろうか。キングは、バンにも、誰にも聞こえない声で「ありがとう」と呟いた。






あとがき(反転)
ゴウセルの能力は便利すぎて怖い。
この話は原作のいつぐらいのタイミングなら矛盾なく成立するのかしら。

2015年8月22日掲載
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