「腹が減った」 「違う」 「喉が渇いた」 「ちがう」 「背中が痒い」 「もうっ、違うったら!」 バンの質問攻めに、エレインは声を大きくして肩をいからせた。
コケモモ・スケルツォ
「お前が聞いたんだろー。『考えてること当てられる?』って」 ちょっと品をつくって小首を傾けるのは、まさかエレインの真似だろうか。エレインのじとっとした視線に、まずいと悟ったバンはすぐに腰に手を当てた仁王立ちに姿勢を変えた。目こそエレインと合せないように明後日の方角に向けているけれど、口は見事なへの字だ。 『私が今、考えてること……当てられる?』 エレインがバンにそう尋ねたのは事実だ。エレインだって、自分が勇気を込めて口にした言葉をなかったことにはしない。だがそれは一種の謎かけというか、エレインが小さな胸にこっそりと宿している淡い想いをバンに気づいてほしかったからで、決してお腹のすき具合を尋ねられたいからではなかった。第一、妖精王の森の加護で、エレインが飲まず食わずでも平気なことをバンは覚えているはずだろう。背中が痒いなんて言語道断だ。 とはいえ、バンがこうも矢継ぎ早に質問を投げつけてくるようになったことには、エレインにも多少の責任がある。 『全然わかんね』 微塵のてらいもなく、裏表なく、バンはエレインの謎かけにあっさりと諸手を上げた。けんもほろろな反応に、エレインが小さな拳を振って叱りつけたのがどうやらいけなかったらしい。さっぱり訳の分からないバンは、逆に好奇心に火をつけられ、何としてでもエレインの「考えていること」を当てようとやっきになって今に至る。 しかし、この点についてはエレインの側にこそ言い分があった。何せバンは、乙女の赤ら顔と悪意ある因縁を同じレベルで扱ったのだ。彼への愛しさが余って精一杯の誘いをかけたエレインとしては、これ以上の赤っ恥はない。そしてその恥ずかしさは、バンの的外れな推測のおかげで今なお継続中だ。 「どうしてそんなにしつこいのよ……」 少しでもバンの興味の矛先を逸らしたくて、エレインは不満を訴えるついでに尋ねる。バンはやはり、取り繕うこともなくあけすけに答えた。 「わかんねーと悔しいじゃねぇか」 「だから、何がそんなに悔しいの? 私はもう良いって言ってるのに」 バンはバカなことをよくする。生命の泉目当てに、妖精王の森に入ってきたこともバカなことの一つだ。だからと言って、彼の頭の中身まで同じとは限らない。エールラベルコレクションの解説と共に、バンの「仕事」の話に耳を傾けてきたエレインは、他人の欲を利用し、裏をかく機転の良さにつくづく感心させられてきた。 「そう言われてみりゃそうだな……」 そのバンの鋭い感性が、どうやら女心には全く機能しないことに気づいてしまったエレインは腹立たしいやら寂しいやらだ。現に今も、エレインの問いかけにバンは答えを探しあぐねていた。 「いつもそんな感じなの?」 特に必要もなく、わからないのが悔しいという理由だけで、バンは他人の心に首を突っ込むのだろうか。自分で尋ねながらエレインは、そんなバンのイメージが自分の知るバンとは重ならないと感じていた。それはバンも同じらしく、はたと顔つきを変えて首を傾げる。 「いつも? そりゃねーなー、お宝ならともかく」 バンは賊だ。彼の頭の中には、いつだってまだ見ぬ「お宝」への好奇心が詰まっている。その好奇心のおかげで、バンは骨董品や名品の真贋を見極める知識と審美眼を身に着けた。 だがここでも、バンの性質は偏りを見せる。同じだけの好奇心を、バンが他人に向けることは滅多となかった。向けるとしても、仕事がらみが関の山。コトが終われば興味も関心も失せ、ひどいときには3歩も歩かないうちに相手の顔も名前も忘れてしまう。なのにどうしてだか、エレインの気持ちだけは胸にひっかかるのだと、彼は言葉ではなく体で表現するかのように左胸を掻いて見せた。 「なーんか、ほっとくとすっきりしねぇんだよ。胸の底がモヤモヤするっつーか、お前の全部が知りてぇっつーか」 サラリと今、ものすごいことを言われた気がしてエレインは固まった。硬直がとけた後は、打って変わって激しい動悸が襲いかかってくる。彼に自分の心を覗き見てほしいと、あの質問をした時と負けないくらいに胸がときめいた。 エレインの全部が知りたいと彼は言った。それって、もしかして……、 「バ、バン……、あのね」 「わかった!」 それは人間にとって、いいえ、あなたにとってとても大事な気持ちかも。そう告げようとしたエレインの声を、バンの張りのあるそれがかき消す。びしっと人差し指をこちらにつきつけたかと思うと、彼は真剣な顔で胸を張って宣言した。 「アバディンエールがまた飲みてぇ!」 これ以上の正解はないだろうと自信満々な彼に、エレインはがっくりと肩を落とす。追求すべきはそこじゃない、と言うのも疲れた。次第に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。 男とはこういうものか? 兄も同類か? 兄の親友のヘルブラムは少なくともエレインの顔色をうかがうのが上手かったが、彼も色恋沙汰になれば同じ穴の貉なのか? この鈍感男、野蛮人、唐変木な野暮助め。 「もーっ、嫌! もう知らない! バンのバカっ!」 「まじかよ、これで外れかよ! ちょ、ちょっとまった、エレイン! あと一回、最後の一回!」 逃げようとしたところに服の裾を掴まれ、「頼む!」と縋られてしまってエレインはバンの手の届かないところに飛び去るのを諦める。すでに散々振り回されていると言うのに、バンの困り眉にエレインは弱かった。 「次で最後よ」と赦す甘さは、鈍感で野蛮で唐変木な野暮助に惚れた弱み。そしてその裏には、どうしても捨てきれない期待がある。
どうか気づいて。
ラストチャンスを与えられて、その場であぐらと腕組みの姿勢で考え込むバンを見つめてエレインは思った。 変な人間。 エレインに「人間」の解釈を変えさせた、本当に変な人間。それがバンだ。700年かけてエレインが学んだ、人間の悲しくも醜い性を等しく持っているはずなのに、なぜだろう、おぞましく映らない不思議な賊。 色恋への鈍さはさておいても、バンは聖人君子には程遠いのに、エレインの中の人間像を煌びやかに変えていく。いつしかその像は人間のカテゴリーから外れ、ただ「バン」という名のついた青年の姿となって、エレインの心の真ん中に居座るようになった。 「ああ、そうか」 思案に暮れていたバンが、ふと顔を上げる。そして、狐のように炯々とした眼差しの、ウサギのような紅い瞳にエレインを映した。わざとらしくずる賢そうに笑うことも、ニカッと音が鳴りそうな夏の朝のように笑うこともない彼の顔からは、澄んだ心の流れだけが透けて見える。 エレインを見上げて、バンは言った。 「お前はさ、俺の話聞いてくれるだろ」 「ええ」 だって好きだもの。 「俺のこと、わかろうってしてくれるだろ」 「そうね」 だって好きだもの。 「だから俺も、お前のことわかりてぇんだよ」 ギブアンドテイクだ、と笑う彼に、それは何か違うと思ったけれどエレインは口に出さなかった。 バンはバカなことばかりしたがるけれど、頭の出来は悪くない。欲を前にした人の機微にも聡い。その能力が自分に向けられる好意に発揮されないのは、経験値が足らなさすぎるからだ。人間についてエレインが知ったようでいて本当は何も知らなかったように、彼も人から愛されると言うことをわが身に置き換えて感じたことがなかった。 自分を好きになってくれるひとをわかりたい。 バンのエレインに向ける想いはとても幼く、恋のずっと手前にたどり着いたばかりだ。過酷な生い立ちの中で、人の悪意にまみれ、醜さにもまれて生きてきた割には危ういほど純粋な彼の一面に、エレインはやはり愛しさを募らせずにはいられなかった。 バンがエレインを見る。エレインもバンを見つめ返す。すると、彼の顔に満面に笑みが浮かぶ。大きな口を上弦の月の形に裂いて、彼は最後の答えを口にした。 「コケモモが腹いっぱい食いてえ」 彼の答えに、エレインはぷっと吹き出した。さっきから胃袋関連の答えが多いのは、バンにとって日々の食事が最優先事項だからだろうか。そんな彼には、やはり女心への関心と理解はハードルが高すぎたのかもしれない。 「はずれ」 「ちくしょう! つかお前、コケモモ好きだって言ってたろ」 コケモモは好きだ。ピンクで可愛くて、口に放り込むと甘酸っぱい。時々酸っぱさが勝るものがあって、驚いて顔を顰めたエレインにバンが笑ってくれたこともある。 ささやかで幸せな記憶が思い出されて、先ほどまでよりずっと優しい気分になったエレインはゆるく首を振った。 「好きよ。でもはずれ」 エレインが、本当に好きなのはただのコケモモではない。一緒に摘んで、並んで食べて、エレインの反応に笑ってくれるバンがいなければ、コケモモのピンク色や甘酸っぱさに意味はないのだ。 「マジかよー、くそぉ……」 頭を抱えて悔しがる彼にエレインは微笑む。女心どころか他人に関心を払わずに生きてきた彼が、エレインの気持ちを知りたい一心で頭が沸騰しそうなほど考え込んでいる。その姿が、どうしようもなく愛しかった。 「もう降参なの?」 「これが最後じゃねーの?」 「何のことかしら」 平然ととぼけて、エレインはくすくすと笑う。延長戦が認められたことに、バンの顔がわかりやすいほど明るくなった。 「絶対ぇ当ててやる」 「ふふ。がんばってね」 わからないなら、わかるまで、エレインに挑み続けてくれればいい。エレインはいくらでも待てる。彼に出会うのに、エレインはもうすでに700年待ったのだから。彼にも少しくらい長く、エレインへの興味を持ち続けてほしかった。ひょっとしたら、鈍感で野暮なくらいがちょうど良いのかもしれない。 でも、いつかは気づいてほしい。 エレインの胸に咲く花と、同じ種はすでに彼の心に蒔かれ、小さく芽吹いている。あとは自覚の問題だ。
だからどうか、その時が来るまで。この森を出ようとは思わないで。
答えが出ないまま、エレインをひとり置いていくことだけはしてほしくない。そう願うからこそ、エレインはこの延長戦を認めたのだ。 700年待って、エレインは人間を知り、バンに触れ、恋を得た。バンにもきっと時間が必要だ。彼の心が育つのを待つだけの時間を、エレインはたっぷりと持っている。彼と出会うまでの700年を思えば、それは瞬きのような、極彩色のひとときだろう。
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