恋の苦薬 - バン×エレイン





 存在だけは知っていたその実に、エレインは初めてその目で触れた。
「人間は、媚薬として用いることもあるそうだから、エレイン。お前は決してその実を口にしてはならないよ」
 700年以上昔、ゲラードが年の功にふさわしい慎重さで危険を説いた実が、エレインの目と鼻の先にぶら下がっていた。食べるどころか、触れることすらゲラードは良い顔をしないだろう。そんな禁断の果実に、手を伸ばさずにはいられない理由をエレインはちゃんと自覚していた。



 恋の苦薬



 何色の木の実なのか、と尋ねられれば赤と答えるのが正しい。コケモモの実より一回り大きいそれは、日の光に当てると色を変えた。血の赤とスイートピーのピンクが連なり、日の光を受けた部分はオレンジの光を放つ、宝石のような小さな果実だった。
 空に掲げた実を鼻先に寄せて、エレインはすっと匂いをかぐ。またたくまに、甘く濃厚な香りが鼻腔を埋め尽くした。口に含んで、歯を立てれば、ぷちりと破れた皮の下から果汁がとろけて舌を痺れさせる。そんな想像がたやすい、強烈な甘さだ。
 エレインはあまり、食に執着がない。妖精界にいたときからそうだった。妖精王の森の加護で食事が不要になった今、なおさら食欲とは縁遠くなった。その彼女が、この実を手放さずにいるわけは、ひとえにゲラードの忠告にある。
 媚薬。その意味は、エレインも知っている。
 エレインの小さな手に収まる実は、性的な興奮をあおる食べ物だった。その効能に男女の区別も、種族の垣根もない。妖精族はもちろん、森の動物さえその実を本能的に忌避する中、ただ人間たちだけが「愛の妙薬」としてもてはやしているのだった。
 このところのエレインにとって、人間と言って真っ先に浮かぶ顔は決まっていた。数日前から、この森で寝起きするようになった盗賊の男。生命(いのち)の泉を狙っていたはずなのに、気づけばエレインの心を奪ってしまった、バンという名の背の高い青年だった。彼の顔を心に浮べるだけで、エレインの鼓動は速まり、肌がしっとりと熱を持つ。そんな状態のまま、手にした「愛の妙薬」を見つめてしまえば、いけない考えが頭に湧き上がってくるのも無理はなかった。
 もしこの実を、バンが食べてしまったら。
「ダメよ、そんなの」
 善人ぶったところで、芽生えた期待は否定できない。彼はエレインを信用している。そこにつけこんで、彼に食べさせる方法はいくらでもあった。
「私が食べるならともかく……」
 自分の口から出た言葉に、はっとする。故意にバンに食べさせてしまうことは、彼の信頼を裏切る行為だ。しかし、エレインがこの実を食べるか食べないかは、彼女だけの問題だった。
 これを食べて、バンの前に出れば。
 一体何が起きるだろうか。果実を見つめる、エレインの目に切実な光が増した。
「子どもじゃないわ」
 彼女を「嬢ちゃん」呼ばわりするバンに、エレインはそう主張した。それからも彼は子ども扱いを繰り返し、その度に嗜めて、ようやく名前で呼んでもらえるようになったのだ。それでも、水浴びに誘われたり、了承も得ず添い寝をさせられたり、彼がエレインに向ける態度は、成熟した男が同じく成熟した女に対するものとはとても思えなかった。
「子どもじゃ、ないのに……」
 バンに抱きしめられ、後ろから彼の寝息を聞かされて、エレインがきゅっと唇を噛みしめたのはゆうべのこと。まんじりともせずに夜を明かして、ゲラードが禁じた果実が彼女の目の前に現れた。
 エレインが子どもでないというのなら、何なのか。バンとの距離をどうしたいのか。彼の紅い瞳に、どんな姿で映りたいのか。漠然とした不満は、偶然手に入れた「愛の妙薬」によって具体性を得てしまった。
 性的興奮というものを、エレインは知らない。手のひらの媚薬の効能も、想像の域を出ない。けれどもしも、この「愛の妙薬」がエレインに何かの作用を及ぼすのなら、バンがエレインを見る目にも何か変化が訪れるはず。すべてはこの実を、エレインが食べるかどうかにかかっていた。
「あれ?」
 だから、エレインは驚いた。持っていたはずの実が、煙のように忽然と姿を消してしまったことに。問題の果実は、まさにバンの手の内にあった。
「うまそうだな」
 気づけば傍にいたバンは、エレインに断りもなく、その実を口に放り込む。
「おっ、めちゃくちゃ甘ぇ」
 もぐもぐと、頬を丸くしてバンは「愛の妙薬」をそれと知らずに咀嚼する。人間の市場に流せばそれなりの価格がつく実は、あっという間に飲み込まれ、バンの喉元を下りていった。
「あれ、一個しかねぇの?」
 あっけに取られているエレインを前に、バンは彼女の手が空なことを見とめる。「悪かったなぁ」「お前も食べたかったか?」「うまそうだったからつい」と能天気に笑う彼は、その実にまつわるエレインの葛藤を知らなかった。
 エレインは何もいえなかった。「大丈夫?」とも「お腹の具合は?」とも「どこか体に変なところはない?」とも、何一つ心配の言葉をかけられないままバンを見つめるしかない。そのつもりはなくとも、彼女の沈黙は、彼の体内に取り込まれた「愛の妙薬」の効能を見定めようとしていた。
 「愛の妙薬」は噂どおりの即効性をバンにもたらした。教えてくれたのは彼自身だ。エレインに向けられていた笑顔がぴたりと固まり、怪訝な表情へと変わる。そわそわと落ち着きをなくし、ついにバンはエレインに背を向けた。
「バン?」
「すぐ戻る。待ってろ」
 ようやくエレインがかけた声に、バンはそっけなく答えて姿を消した。
「バンが食べちゃった、どうしよう……!」
 ひとりぽつんと残された、エレインの動揺は今更だった。彼がご丁寧にもしっかりと噛んで、飲み込んでしまった後ではどうしようもこうしようもない。
「大丈夫かしら」
 肝心のバンは彼女の前から逃げるように去ってしまった。向けられた彼の背中とそっけない言葉が、エレインの胸に棘を刺す。つまり、彼の態度が答えなのだ。
 媚薬がもたらす性的な興奮が、実際どういうものなのかはわからない。だが、バンはエレインに背を向けた。彼の態度が、異性として、そういうことの対象として、自分がバンの眼鏡にかなわない証のようでエレインは悲しくなった。
 例えあの実を食べたのがエレインだったとしても、バンはエレインを受け止めてくれない。彼にとってエレインは、「愛の妙薬」をもってしても心揺り動かされない存在であるらしい。
「バン……」
 エレインは顔を上げた。ここにいない、彼の名を呼んだ。その声にも表情にも、後悔がありありと滲んでいた。
 エレインはふわりと浮かび上がり、バンが去っていった方向を追いかけた。彼に、意識されていないことは悲しかった。だが悲しみ以上に、ひとり勝手に期待して、ひとり勝手に落胆する自分の図々しさが恥ずかしかった。さらに言えば、苦しい思いをしているだろうバンのことが気にかかった。
 彼の傍にいても、自分に何か出来るとは思えない。それでも、ひとりぼっちでいるよりはずっといい。700年の孤独を抱えてきたエレインは、そう信じてバンを探した。
 エレインにはもうひとつ不安があった。彼は今、予想外の欲に冒されている。しかし、この何もない森で、彼はどうやって欲を晴らすのか。ただひとりの話し相手であるエレインは役に立たずだ。ならば森を出て、人里に帰ってしまおうと彼が考えないとは限らなかった。
 バンは自由な男だ。永遠に、彼をこの森に繋ぎとめることは不可能だ。いつの日か、彼はエレインを置いて森を出て行く。そのいつかが、今日でなければいい。そんな想いを胸に、バンとの一日一日を大切にしてきたエレインには、その不安が持つ力は大きすぎた。
「バン!」
 エレインのいた生命の泉からかなり離れた木々の間に、バンを見つけた。太い幹にもたれかかるようにして、彼は根元に座り込んでいた。
「な、んで……きた……」
 バンは苦しそうだった。呼吸が荒くて、汗をかいていて、顔が赤らんでいる。性的な興奮とはこんなにつらいものなのか。つらいめに遭うために、人間はわざわざ「愛の妙薬」を求めるのか。そんなものは、愛でもなんでもないとエレインは思う。
「待ってろって、言ったろ……!」
 バンはエレインを睨みつけた。紅い瞳の光は鋭かったけれど、潤んでもいた。大の男が泣きそうになるほど、苦しいことが愛なのか。
「バン、しっかりして」
 エレインはバンににじり寄った。額や頬をぬらす汗を、ドレスの袖でぬぐってやった。バンは抗うように腕を振り、力ない手は空をさまよったあげくエレインの手首を掴む。じっとりとした、彼のてのひらは熱かった。
「だから、っ、近寄るな、って……」
 それが彼の、なけなしの理性の断末魔だった。言葉尻が消えやらぬうちに、エレインの手首は強く握りこまれ、腕を引かれて押し倒される。荒い息を繰り返す大きな体が、エレインの上に覆いかぶさった。
「はッ……はッ……」
 顔にかかるのは、バンの息だ。熱くて、湿気のこもった、粘っこい吐息。エレインを見下ろすバンの紅い瞳は小刻みに揺れていた。瞳孔は開ききり、その奥で焔めいた欲がゆらいでいる。まるで狩りに臨む獣めいた、飢えた猛々しさに肌が粟立った。
 バンにあの果実を食べさせたら。
 あの実がまだエレインの手の内にあった頃、たわむれに想像してみたものの答えが目の前にあった。今これから、何が始まろうとしているのか、エレインにはわからない。だが、ここで逃げてはエレインは「子ども」のままだ。不安とせめぎあうプライドに、わずかな好奇心が加勢に入った。
「バン……」
「エレ、イン……」
 不安が後退した刹那、バンが動いた。エレインを覆っていた影が消える。熱い吐息も、手首への圧力も、何もかもがエレインから遠のいた。そして、ゴンッという鈍く硬い何かがぶつかる音が響く。二人の頭上で、木の枝と葉がカサカサと音を鳴らした。
 エレインは仰向けのまま、音のほうに目を向けた。バンと、木の幹が見えた。バンの頭がゆれ、また音がする。ゴンッ、ゴンッ、繰り返される音は、彼が自分の額を木に叩きつけている音だとわかって、エレインは飛び起きた。
「バン!」
「来んじゃねぇ!」
 バンは怒鳴った。エレインに向かって、初めて彼は声を荒上げた。さらに三度ほど頭を打ち付けて、バンは肩越しにエレインを振り返る。彼の額はすりむけ、血が一筋流れていた。
「絶対、来るんじゃねぇぞ」
 強い命令と共に、心の声がオルゴールとなってエレインに届く。聞こえた音は、彼がエレインを欲のまま手にかけることを拒んでいた。

 なりゆきですることじゃない。
 エレインは、そんなふうに扱っていい女じゃない。

 女。バンの心に含まれた一言に、エレインの胸は熱くなった。彼に押し倒され、飢えた目で見下ろされたときよりもずっと、心が痺れた。
 子どもではなかった。彼はきちんと、エレインを自分とは性の違う相手だと認めていた。認めたうえで、大切にしなければいけない存在なのだと感じてくれていた。
 エレインは嬉しかった。涙が出そうだった。自分でもわからなかった、バンにとってどうありたいのかという疑問の答えが、他ならぬ彼の心にあったのだから。
 だからこそ、苦しんでいる彼を見るのがつらい。彼が耐えているのは、性的な興奮ではなかった。欲の奴隷になって、エレインを慰み者にすることに彼は抗っていた。忍びがたい忍耐に彼が耐えていられるのは、エレインを大切にしたいという想いのおかげだった。
「ごめんなさい」
 苦しさが嬉しさに勝ったとき、エレインの唇から自然と声が震えて落ちた。

 私が、あんな実さえ見つけなければ。
「ごめんなさい……」

 私が、ゲラードの言いつけどおりにしておけば。
「ごめん、バン……」

 私が、バンが食べてしまう前に止めていれば。
「ごめんね……っ」

 もしバンがこの実を口にして自分を求めてくれたら嬉しいなんて、愚かな期待を抱かなければ、バンがこれほど苦しむこともなかったのに。
「私を、赦して……」
 エレインが泣いても、バンは構ってこなかった。彼はそれどころではなかったから。謝罪の声すら、彼の耳に届いているかわからなかった。
 エレインはバンに背を向けて飛び立った。涙はぬぐってもぬぐっても、次から次へとあふれ出た。媚薬の効果が、あとどのくらい続くかはわからない。せめて自分がここから去ることが、彼を少しでも楽にすることに繋がるのなら。エレインは風に涙をぽろぽろとさらわれながら空を飛んだ。
「ごめんなさい……!」
 悪いエレインを責めず、傷つけず、ひとり苦悶に耐えてくれるバンを、彼女は心から好きだと思った。





あとがき(反転)
色っぽい話にできなくてごめんなさい。書いててちょっと恥ずかしかったです。
タイトルはイタリアオペラ『愛の妙薬』をもじりました。この話に一瞬だけ「トリスタンとイゾルデ」が出てくるそうな。

2016年3月17日掲載
気に入ったら押してください→web拍手 by FC2

textへ戻る
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。