ラベンダーの咲く庭で - バン×エレイン

※ノベライズ『七つの傷跡』のエピソードを取り扱います。フィル少年は大罪時代のバンに料理の手伝いをさせられ、のちに心を閉ざしたマーガレットに食事を提供するコックになります。




 「ラベンダーの花言葉は……」
 甘い芳香に鼻と口をふさがれ、息すらまともにできない。嫌な予感にとらわれながら、バンはフィル少年を止めることができなかった。
I'll wait for you.(あなたを待っています)
 風に揺れる青紫、届く甘い香り、そしてフィルの声で紡がれた花言葉に、バンの意識は木っ端微塵にされた。



 ラベンダーの咲く庭で



 目覚めて真っ先に飛び込んできたのは、天地がさかさまになったフィルの顔だった。
「あの、大丈夫ですか?」
 不安げなフィルの向こうに厨房の天井が見える。背中が硬い。視界の隅にはテーブルの足があるから、寝ているのはきっと床の上だ。
「いきなりぶったおれるから、びっくりした。……、あ、いや、びっくりしました」
 伝説の<七つの大罪>相手に言葉遣いを改めるフィルが、バンの推測を裏付ける。ゆっくりと身を起こすと、頭の後ろで何か軽いものが落ちた。バンの頭と厨房の床に、挟まれていたのは丸められたタオルだった。
「その、あなたがでかすぎて、オレ、運べなくて……」
 フィルが拾い上げたタオルには、赤黒いシミがついている。血塗れたタオルを見下ろして、フィルは言った。
「不死身って、本当なんですね」
 フィルを振り返ると、目が合い顎をしゃくられる。片隅のゴミ箱から、割れた皿の残骸が覗いていた。テーブルの足元でコルク栓を山盛りにしていた器だった。倒れたバンを受け止めたのか、割れた先端は血で濡れている。フィルに外傷はないから血はバンのもので、タオルを濡らした血の量も、バンの首から上を行き来するフィルの視線も、常人には致命傷になる惨事だったことを物語っていた。しかし、バンの体にそれらしい傷はない。
 ふんと鼻を鳴らして、バンは笑う。
「怖ぇか」
 怖がられるのは、バンの日常だ。大きすぎる体、髪と瞳の極端な色彩に、頬の傷を含めたその他もろもろ。死なないことを差し引いても、バンの見てくれは人に畏怖を与える。ここでフィルがおびえても彼との距離が決定的なものになるだけで、フィルの言動それ自体がバンを傷つけることはない。バンは長らく、誰かに期待することをやめていた。
 フィルは肩をすくめる。そして彼は、バンの体が運べないことと同じように、何の不思議もない口ぶりで言った。
「まぁ、ちょっとは。でも、手品みたいですげーなって」
 バンの不死は、妖精族の秘宝・生命(いのち)の泉の恩恵だった。それを手品呼ばわりする、フィルの子どもらしい無知な愚かさにバンは笑った。怖いかと尋ねたときにくらべて、ずっと朗らかな笑みだった。
「やっぱ、伝説はこうでなきゃ。団長なんてめちゃくちゃヤバそう!……あ、うん、ヤバそうな気がします」
「うちの団ちょは確かにやべーな」
「何が一番ヤバいんですか」
「料理のマズさが半端ねぇ」
「料理!」
 フィルの目が剥かれ、声が裏返る。バンの不死身より奇想天外と言いたげな、フィルの反応にバンは膝を叩いて笑い声を上げた。
 バンが倒れたのは、間接的にはフィルのせいだ。
 料理用のハーブを探していたバンに、ハーブなら裏庭で育てているとフィルが教えた。とって来いとバンがいくつかのハーブの名を挙げたがフィルはどれひとつ知らなくて、それでも料理番の孫かと呆れたバンが薬草図鑑を投げた。図鑑は、厨房の棚から引っ張り出したものだったが、フィルは初めて触るようだった。慣れない図鑑に首っ引きになっているフィルを、見かねたバンが付き合ってやると裏庭のドアを並んでくぐったことが間違いだった。
 ドアを抜けたとたん、目に飛び込んできた青紫。風に乗った甘い香りは、バンの鼻頭を殴りつけた。そしてフィルがついでと口にした花言葉が、バンのもろい場所にクリティカルヒットした。バンの記憶はそこで途絶えている。7フィート近い大男に目の前で昏倒されて、フィルの驚きはどれほどだったろうか。
「団ちょの料理はな」
 驚かせてしまったわびのつもりで、バンはフィルに、メリオダスの料理がいかにひどいものかを語ってやる。見た目、香り、味、料理の三要素どれをとっても「ありえない」彼の作品に、フィルが顔を青くした。挙句に震え始めた少年に、ものはついでとバンは美味い食事の極意を教えてやった。
 食べる人の気持ちを――、メリオダスを反面教師にしたバンの教えに、フィルの顔つきがまた変わった。
「あなたは?」
「あン?」
「あなたは、誰のために作ってるんですか」
 フィルの疑問は、トン、とバンの胸を貫いた。心臓を刺した軽い衝撃には、幼さゆえの鋭さがあった。ベールをまとわないむき出しのツララのようで、バンは密かに肝を冷やした。座り込んだ床さえよそよそしく感じられた。
 黙りこんだバンに、フィルの目が伏せられる。少年は気まずそうに視線をさまよわせた。
「なんか、俺……、聞いちゃいけないこと、聞いちゃいました?」
 バンはうまい返しを探していた。フィルを安心させてやる言葉でも、彼の質問にお茶を濁す言葉でも。けれどフィルのツララは深くバンの心に刺さり思考を凍らせる。「はい」であれ「いいえ」であれ、その問いへの(いら)えはバンに致命傷を与えることをフィルは知らない。
 何も言えないバンに、代わってフィルが口を開く。
「さびしいんですか」
 フィルのツララがぐるりと回り、バンの心臓をえぐった。
 なぜそうなる。バンが答えられないことが、なぜ孤独と結びつくのか。バンの混乱をよそにフィルはしゃべる。バンの料理は<七つの大罪>のメンバーに評判であること、けれどバンは一度として喜んで食事を提供したことがないこと、料理を終えた厨房でぼんやりとたたずむバンの姿、その紅い視線の先がフィルにはいつも気にかかっていたこと。
「思い出すことがあって、あなたを見てると」
 フィルはそう言ってゴミ箱に目を向ける。映るのは、バンの血に濡れた、皿だったものの成れの果てだ。
「あれ、ここで飼ってたウサギのなんです。もとは食用だったけど、オレやじいさんによく懐いてたから、食うにしのびなくて家族で可愛がってました。毛が白くて、目が真っ赤な、でっかいウサギで……」
 そこでフィルの目がバンに戻る。バンは目を見開いた。
「ウサギって柄じゃねぇだろーが」
 フィルは笑った。
「ある夏、家族で旅行に出ました。ウサギは連れて行けなかった。帰ってきたら死んでました。えさとか水とか、全部用意して、ここのメイドにも世話を頼んでたのに」
 メイドによれば、フィルたちが出立してすぐウサギは何も口にしなくなった。みるみるうちに衰弱して、やせ細って死んだのだそうだ。ウサギが息を引き取ったのは、フィルたちが帰ってくる前日だった。
「あと一日生きてたら会えたのに。あなたみたいに、不死身ならよかったのに」
 フィルの最後の言葉はほんど独り言のようだった。



 バンはフィルに再び裏庭に出るように命じた。
「花言葉はナシだ。料理にゃいらねぇ」
 そう言って、バンはフィルを送り出す。自分が庭に出る気はなかった。青みがかった花の色も、澄んだやわらかな甘い匂いも、もうごめんだ。
 フィルの後姿が完全に消えたのを見届けて、バンは厨房のテーブルに浅く腰をかけた。どこを見つめるわけでもないその姿は、フィルが「気になった」というバンの姿そのものだろう。そんなことは気にも留めず、バンは口角を上げる。
 まさかラベンダーで失神させられるとは思わなかった。肉体は不死身でも、それが包む精神はフィルたちと変わらない。普通の人間のままだから、傷つきもすれば悲しむこともある。日々押し寄せてくる寂しさの波に、心が溺れてしまうことも。
「怒ってんのか」
 問いかける、相手はどこにも見えない。彼女の名は、どうしたって口に出せない。音にしたとたん、膝から崩れ落ちてしまうとわかっている。忘れてしまえたら、それが一番楽なのだ。
 忘れようとしている自分に、彼女は怒っているだろうか。だからこその、あの匂いと花言葉なのだろうか。

 I'll wait for you.

 いつか必ず。あの森での約束を、彼女はまだ待ちわびているのだろうか。
 彼女の顔、髪や瞳の色、声のトーン、それから匂い。彼女を形作るありとあらゆるものを、バンはもう意識を集中させなければ思い出せない。彼女がいなくなって10年もたっていないのに、思い出せば思い出すほど擦り切れていく自分の記憶力にうんざりだった。どうせ不死身にするなら、頭の中身も永遠に残してくれ。そう自分の血に流れる生命の泉に、八つ当たりする愚かさにも飽きてきた。
 そんな体たらくだから、匂いごときで自分を失う。唐突につきつけられたリアルは、鼻腔を通り抜けて頭蓋骨の中に進入し、バンの脳に激震を走らせていった。
「怒ってる、よなぁ……」
 彼女のふくれっ面が思い出せない。第一、そんな表情を彼女は見せてくれたことがあっただろうか。そうしてまた少し、彼女の実感が遠のいていく。記憶の靄の中で、もがく腕が空をかく。
「俺にどうしろってんだ……なぁ?」
 また、呼びかける名前を飲みこんだ。返事のない問いかけは、孤独を際立たせる。ずっとひとりだったから、そう思って生きてきたから、彼女の不在にどうやって耐えていいかわからない。
 フィルのうさぎは、さびしさに耐えかねて死んだ。だが不死身男は死ねない。さびしさの根っこを忘れようとして何が悪い。メリオダスは良い奴だ。他の仲間もゲテモノ揃いで、死ねない男すら手品扱い。実に居心地がいいじゃないか。このままずっと、そう思うことさえあった。それでも、彼らにすすんで何かを食わせてやろうとは思えないのだけれど。

『あなたは、誰のために作ってるんですか』
 作るなら、お前のために。

『さびしいんですか』
 でも、この世のどこにもお前はいなくて。

『あなたみたいに、不死身ならよかったのに』
 俺は死にたい。
 死んで、お前に会いたい。

 は、とバンは掠れた息を吐き出す。喉から漏れた彼女の名を、かみ殺した名残だった。響きの残滓は、舌に乗せただけでバンの胸からこみあげてくるものがある。
 バンは天井を見上げた。迫る何かから逃げるように、厨房の明かりを吊るした梁をにらむ。鼻をすすって、瞬きを繰り返した。

 I'll wait for you.

 バンだって待っている。彼女が迎えに来てくれる日を、ずっと。それなのに、記憶は色あせていくばかりだ。
 世界が彼女を消すのなら、いっそ世界が消えればいい。そう思うのに、死なない体はひとり消えない世界を歩き続ける。さびしい、さびしいな。さびしさの中で、死ねたウサギが幸福に見えるほど。
 静まれ。こみ上げるさびしさにバンは命じる。
 フィルがハーブにかまけているうちに、ひっこめなければ。でなければ、戻れなくなる。死ねない体に、耐えられなくなる。
 あの庭で、いまもラベンダーは咲いている。忘れたい。見たくない。揺れる青紫に、心は恋しい彼女を重ね合わせる。苦しい恋の下で、バンは奥歯を食いしばって天井に目を凝らした。


 こぼれるな。
 こぼれるな、涙。





あとがき(反転)
タイトルは04年のイギリス映画、「I'll wait for you.」は64年のフランス映画"シェルブールの雨傘"より。
バンの言う「ふと我に返る」瞬間。原作でバンが寝言でエレインの名前を口にするのって、死者の都で再会した後からなんだよな、大罪時代は彼女の名を口に出来なかったのかな、だからキングに彼女との関係がバレなかったのかな、という妄想。

2016年1月18日掲載
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