君に教わるヴィーゲンリート ― バン×エレイン




 ジバゴに見捨てられたとき、彼を憎いとは思わなかった。ただ大きな悲しみが、小さなバンの心を満たした。
 あの時の窮地からはかろうじて脱した。けれど、それは肉体的な、死ぬハメにはならなかったという話であって、バンの深手は心にこそ刻まれた。ジバゴに助けてもらえる価値のない自分に、バンはひとり向き合わなければいけなかった。
 バンは、人の好意を得るすべを試行錯誤した。愛想よく笑うこと、くだらない冗談、他愛のない嘘を覚えた。しかし、通り過ぎる赤の他人に、どうしたら価値を見いだしてもらえるのかわからないまま時は過ぎる。そもそも人に価値があるとは何なのか。容姿か、金か、才能か。人は聞く。お前は何を持ってるんだ?
 そうこう慣れない頭で思考をめぐらしていくうちに、言葉もロクに知らない、盗みの技もままならない子どもに、ジバゴが手を差し伸べてくれたことさえ都合の良い夢だと思えてきた。そこでようやく、バンは胸にわだかまる悲しみをふっきることを決めたのだ。同時に、自分の価値を誰かに問うこともやめた。
 暴力と罵声しか与えてくれない親とは縁切り済み。他人に何かを期待することをしない代わりに、誰に何を言われどう思われようと気にしない「強さ」をバンは手に入れた。少なくとも、それで強くなれたとバンは信じていた。
 そうして、ジバゴの蒸発から十数年の時が流れていった。



 君に教わるヴィーゲンリート



 「私はバンを信じるわ」
 そのセリフは、にわか雨のように卒然とバンの人生に降り注いだ。やわらかな、耳元で弾ける泡のような声で、そう口にした少女にバンは目を丸くする。
 美しい少女だ。蜜色の髪に、真珠色の肌をほんのりとコケモモ色に染め、夕霧を閉じ込めたような淡い瞳でバンを見ている。
『俺はジバゴを信じるよ』
 彼女の言葉は、かつてバンがジバゴに向けて口にしたのとまるでそっくりの響きでもってバンの鼓膜にこだました。人に何かを期待する気持ちを捨てるずっと以前、殴るための拳と罵り言葉以外のものがこの世界にあるのだと知ったばかりのころの話だ。
「バン?」
 エレインは驚いた様子のバンに首をかしげて、バンは瞬間的なタイムスリップから引き戻される。バンは彼女と話をしていた。ちょっと変わったエールの作り方、門外不出のその製造方法は誰に話しても信じてもらえなかった。鼻で笑われるのが関の山の与太話に、エレインはバンを信じると、全幅の信頼をもってその言葉をバンにくれた。
「なんで?」
 疑問は素直にバンの口をついて出る。今度はエレインの目が大きく丸くなった。金色の睫がまたたく。大きな動きに、まぶたがぶつかり合うぱちぱちという音まで聞き取れそうだ。
 過去を封じた琥珀色の瞳が、バンを映して微笑む。
「バンがそう言うから」
 それでは理由にならない気がして、バンは自力で理由を探し当てた。
「どうせ心が読めっからだろ」
 エレインに嘘は通用しない。見かけは可憐な女の子でも、彼女はジバゴが「おっかねぇ」と語った妖精王の森の聖女だ。だが1000年を生き、心を読むことに長けた聖女は、見た目どおりの幼いしぐさで首を振る。
「読まないわ。バンの心は、読まないって決めたの」
「聖女がそんなんでいいのかよ」
 もしバンが悪いことを企んでいたとしたらどうする気だと、あきれて見せれば彼女は小さな肩をすくめる。
「悪いこと、考えてるの?」
 綺麗な綺麗な金色の目が、バンをまっすぐに見上げてくる。彼女が嫌がる何かをしようなんて悪い考えは、たとえバンの心によぎろうと、この瞳にとらわれてしまえばたちまち霧散する。
「いや……そんなこと、ねぇけど……」
「なら大丈夫ね」
 エレインは屈託なく笑う。そして彼女の手がバンの頬の近くにかかげられた。
 顔のそばで振り上げられた手は、バンを殴るしかない。そう身に沁みているはずの体が、彼女の手には反応しなかった。身構えることも奥歯を食いしばることも忘れたバンの輪郭を、彼女の指が撫でる。あたたかくて、やわらかくて、優しい手つきで。
「バンは変わってるけど……とてもいい子よ」
 自分で言っておきながら、エレインは年上ぶったことをはにかむように笑う。微笑みに影を重ねる睫も、コケモモよりも濃く色づく頬も、バンへの好意を隠さなかった。
 体の大きさも重さもバンの半分くらいしかなさそうな、小さな彼女から発せられる大きなぬくもりの中で、バンは自分の中で捨てたはずの何かが頭をもたげるのを感じた。こんな風に殴らない優しい手を、バンはもうひとつ知っている。
 ジバゴ。
 盗みをするたびに、教わったとおりに体が動く。礼の言い方、まともな言葉遣い。ジバゴに与えられたあれやこれやはバンに根付き、今日までバンを生かしてきた。彼の存在、彼と過ごした数えるほどの日々は現実だ。エレインと話していると、そのことを強く思い出す。

 信じると、言われること。
 おびえも震えもなく、触れられること。
 いい子ねと、ささやかれること。
 そのひとつひとつを、惜しみなく与えられること。

 夢想にも似た望みを、バンは捨てきれていなかった。捨てたつもりで、本当は何ひとつ、捨てられていなかった。
 忘れた、捨てたと思っていた期待は、ただ心に蓋をしていただけだった。蓋をして、押し込めて、見ないふりをしてきた望みは、バンの体が大きくなるのと同じだけ、いや、それ以上に大きく膨らんでいた。
 愛されたい。認められたい。信じて欲しい。この世界にいる無数の人の中から、たったひとりに選んで欲しい。手足が伸びきるころには、立派な<強欲>へと変わっていた想いがあふれ出す。
 気持ちは考えるより先にバンの体を動かし、エレインの抱けば折れそうな腰にしがみつかせた。
「バ、バン……っ」
 長く長く押し殺してきた気持ちは、彼女の前で堰を切った。
 自分よりずっと大きなバンが飛びついても、エレインは慌てふためくばかりだった。彼女が逃げられないわけじゃないことをバンは知っている。逃げない彼女が、嬉しかった。
「説教なら、あとでいくらでも聞くから」
 気持ちはうまく言葉にならない。逃げないでいてくれるのならバンはそれで十分で、むしろそれ以上の何かを聞くのが怖い。否定や拒絶に類するものは、今は遠くに追いやってしまいたい。
「今だけ、頼む」
 赦されたい、何をしても、今だけは。
 バンの頬に触れたあの優しい手が、腹に押し付けられたバンの頭を撫でている。何度も、何度も、バンの硬い色素の薄い髪を行き来する手触りは、なぜか乱暴だったジバゴの手を彷彿とさせた。
「今だけ、なんて言わないで」
 エレインは、赦してくれた。それどころか、彼女の歌うような声の響きからは、これからもずっとバンと一緒にいたいのだと望まれているような気がした。
 心を読まないと言ったくせに、読まれているとしか思えない彼女の行動に、しかしバンはかまわなかった。心を読まれたからなんだというのか。彼女に読まれて困る想いをバンは持ち合わせていない。
「いい子ね、バン……」
 そしてまた、彼女はバンを褒める。まるで母親のようだ。実の母親からだってこんなことをされた覚えがないのに、バンはジバゴと出会って間もないころを思い出していた。するととても、眠くなった。
 あの頃は眠ることもままならなかったのだ。ジバゴの膝でようやく、バンは穏やかに眠ることができた。晒す無防備を、守ってもらえる心地よさを知った。同じものを、エレインの膝に感じてバンは頬ずりをする。並みのベッドには収まりきらない大きな体を小さく縮めて、まるで幼い子どもからやり直せるような夢を見る。
 エレインはすごい。
 彼女の膝に甘えながら、バンは思った。700年の、バンの70倍の孤独を経てなお、彼女は優しさを失わないどころかバンに恵んでくれる。そんな彼女に、バンは絶対に勝てない。彼女に妖精王の森の加護がなくとも、バンがどんな魔力を身につけたとしても、彼女を傷つけることなどできるはずがなかった。
 エレインに守られ、赦され、与えられ、満たされる中でまたバンの心の一部がよみがえる。眠りからさめたばかりの、幼い心は叫んでいた。

 お前に、もっと好かれるにはどうしたらいい?
 愛してもらうにはどうしたらいい?

 ジバゴと別れてからエレインと出会うまで、バンは言ってみれば心の不能者だった。誰にも心動かされないことを気取る姿は、成金が身の丈に合わないアクセサリーで着飾るのとおなじくらいみっともない。
 欲しいものは欲しい、と泥にまみれもがき苦しむほうが、よほど潔い生き方なのだとバンはようやく悟る。教えてくれたのはエレインの声で、彼女のバンを殴らない優しい手は、彼が心に貼り付けたメッキを丁寧にはがしていった。
「バンも、私を信じてくれる?」
 そんな彼女の、問いかけがいじらしい。

 信じる? 信じるさ。
 信じるなんて簡単だ。それでお前が愛してくれるなら、心をまるごとくれてやればいい。

 世界中が敵に回っても、エレインだけはバンの味方をしてくれる。彼女の声音は、そんな根も葉もない幻想を信じさせてくれる。
 腕一本で捕らえられる、エレインの細い腰にしがみつく。考えているうちに思考が散っていくのを感じる。心が目覚めていくのと引き換えに、頭はひどい眠気におそわれる。曖昧模糊とした世界のなかで、エレインの声が降り注いだ。
「寝ちゃうの…? ねぇ…バン…、バンったら……」
 こんなに優しく自分の名前を呼ばれたのは、10年ぶり以上だ。眠りながら泣いてるぞ、と誰かに指摘されても、そうだろうなとバンは頷ける。
『会いたいって……思わないの? もう一度』
 ジバゴと。
 いつか、エレインに聞かれた。あの時はあいまいに、聞き分けが良さそうに誤魔化した心が叫びだす。
 会いたい。会いてぇさ。
『何か言いたいこととか、ないの?』
 ある。山ほど。何でいなくなっちまったんだとか。今までどうしてたんだとか。息子は元気なのかとか。俺もちょっとは、マシに仕事ができるようになったんだとか。
『そりゃ一晩中、飲み明かすさ。昔みたいにうまいエールでな』
 これだけが本当の本心だ。まっさらな気持ちだ。たとえジバゴがバンの質問に答えなくても、答えられなくても、これさえ叶えてくれればいい。
 エールを飲んで、昔みたいに。語り明かして、昔みたいに。恨んでない。憎んでない。何も説明しなくていいから、謝らなくていいから。
 夜が明けたら、昔に戻ろう。一緒にやろうぜ、昔みたいに。もう足手まといには、ならないって誓うから。それだけで、それだけで俺はいいから。
「おやすみ、バン」
『さあもう寝ろっ、明日の仕事は早いからな!』
 エレインから投げかけられるひとつひとつの問いかけが、バンの心の膜をむいていく。むき出しのツルツルとしたバンの心は、あたたかな手が欲しい欲しいと泣いていた。エレインの手が、泣きじゃくる迷子の心を慰めてくれる。
 エレインは歌っていた。耳元で小さな泡が弾けるような、あの優しい声で。
 心は捨てられない。バンは気づいた。寂しさに慣れることもない。10年たっても700年たっても。人間も妖精もきっとそれは同じで、だからエレインの声は甘くて、エレインの手はあたたかくて、エレインの膝はどこまでもやわらかくバンを受け止めてくれる。彼女もずっと、寂しかった。

 俺はお前に、何をしてやれるだろうな。

 奪うのではなく、期待するのではなく、与えてやりたいという初めての想いがバンの心に芽生える。どんなに長い孤独の中にいても、エレインは優しいまま。そんな彼女の歌声から、彼女の寂しさと優しさがゆっくりとバンに染み込んでいく。
 バンを幸せな眠りへといざなうそれは、まるで異国の子守唄(ヴィーゲンリート)だ。






あとがき(反転)
バステ監獄でのバンの鼻歌はエレインから教わった妖精族の歌→異種族の歌→異国情緒→英語以外の外国語→ドイツ語。そしてバンエレは超年の差姐さん女房カプだよ!という主張。
"What You Own(お前は何を持ってるんだ?)"「レント」より

2015年11月09日掲載
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