彼にあだ名がついた日
後ろから近づく足音が止んだと思うと、バンの背中を声が蹴った。 「朝イチからエールとは関心できませんね、バン殿」 「てめぇに関心されなかろーが興味ねーな、ヘンドリクセン」 振り返ることなく、バンは己に向けられた声に言い返す。朝一番のリオネス郊外に、響くヘンドリクセンの声は澄んでまろやかだ。対して、エール焼けした喉から出た、バンの声は濁っていた。バンのだみ声に、ヘンドリクセンのため息が落ちる。バンの酒が、朝イチどころか、未明からだと気づいてしまったからだ。酒好きのわりに、バンがアルコールに耐性がないことは彼と面識のある人物には知れ渡っている。夜を徹してまで呑んでいた、とまでは誰も考えなかった。 「それにしても、呑みすぎです」 ヘンドリクセンは、日が高いうちはエールをやらない。生真面目な彼の目に、酒瓶にまみれた姿はどう映るのか、バンが気にする男であろうはずもなかった。 「しかも場所が場所ですよ」 だからこそヘンドリクセンは呆れ、そしてバンを嗜めることを諦めない。バンがエールとともに朝日をあびている「場所」は、彼が満喫する堕落とは縁遠い場所だった。 『その眼は悪を見抜き! その口は真を語り! その心は正義に満ち! その剣は悪を砕く!』 バンはエール瓶を抱いて横たわっている。彼が頬杖をついて側臥する先には地面がなかった。バンの背中の真後ろから、ヘンドリクセンはバンの向こうを覗き込む。断崖絶壁、ではなく円形に地面をくりぬかれた闘技場のような広場には、早朝にも関わらずたくさんの人影があった。 再び、若く溌剌とした声が上がる。聖騎士の訓示を唱える声は、塊となってリオネスの朝に吸い上げられていった。 「私がドレファスなら、『砕貫』を繰り出しているところです」 バンの紅玉色の視線とヘンドリクセンの薄氷色の視線の行き先で、うら若き少年少女たちが聖騎士になるための訓練に取り組んでいた。ある者は高い台の上で直立不動の姿勢を一時間以上もとらされ、またある者は小さく離れた的を魔力で狙うことを強いられ、さらにある者は木刀で岩を断つことに飽きることなく挑んでいる。一心不乱に課題に取り組む彼らの間を、縫うように闊歩している年長者たちこそ、彼ら聖騎士見習いたちが目指すべき存在、リオネス王国が誇る聖騎士たちだった。 眼下に広がる謹厳実直な風景を、しかし、バンは鼻で笑い飛ばした。 「何べん聞いてもご大層な御託だぜ。ブタにでも食わせとけよ」 「聖騎士見習いの憧れたる、金剛の聖騎士殿のセリフとしてはいささか」 「品位に欠けるってか?」 金剛の聖騎士、伝説の英雄と言えば聞こえはいい。だが、元をただせば大罪人だ。そのバン相手に格式めいたものを求めてくる、ヘンドリクセンの古式ゆかしいものの考え方こそバンには滑稽だった。 「あなたのような方が、この国、いやブリタニア随一の聖騎士団のひとりとは世も末というもの」 「カカカッ、文句なら俺を<七つの大罪>にした国王陛下にでも言いな」 バンのせせら笑いに、ヘンドリクセンが気を悪くする様子はない。その実直さと同じだけ、彼は性根の穏やかさに定評があった。 「まったくですね。『千里眼』で何をご覧になったかはわかりませんが、あなたの魔力は野放しにしてしまうには危険すぎますよ」 バンを攻撃するのは言葉の上ばかりで、ヘンドリクセンの声は背中越しにも微笑みが透けて見えそうだ。しかし、そうまでして話題をふってくるヘンドリクセンの意図がバンには読めない。温厚で誠実、現聖騎士長ザラトラスに次ぐ人格者と謳われる彼が、一体何を腹に抱えて、日ごろ関わりの少ないバンに絡んでくるのか。 「魔力といえば」 人格者といえば、バンが真っ先に思いつくのは自分の「保護者」の丸い顔だ。とはいえ、妖精族のキングと元は人間だったバンには接点らしい接点はない。ただ、「品位に欠ける」らしいバンの行動をキングが一方的に監視しているフシがある。この界隈でバンが問題を起こせば、団長のメリオダスより先にキングの耳に届くのだから、周囲の認識にバンはぞっとしないものを感じていた。 「あなたの『強奪』はどうやって得たものですか」 そんなキングに負けず劣らず、文字通り人間ができているヘンドリクセンは、行動も考え方もバンとは距離があった。その彼が、今朝は妙にしつこい。やはり何かあるな、とバンはエールの瓶に口をつけた。ヘンドリクセンの質問には答えない。 「ドレファスの言葉を借りるなら、魔力とはすなわち意思の力です。何かを守りたいという想いです。しかしあなたに関しては、ドレファスの定義と相容れない」 魔力はこの国の聖騎士にとって絶対条件だ。そして聖騎士とは国を守り、民を守る誇り高き存在。ならば彼らの魔力もまた崇高なものでなければならない。ヘンドリクセンの論は迂遠だが、その指し示すところはバンの魔力への批判だった。「他人のものを奪う」魔力。なんと浅ましいことか。 「てめぇに輪かけた堅物野郎の考えなんざ知るか。俺の魔力は『強奪』で、『強奪』が俺の魔力だ。それ以上でもそれ以下でもねぇよ」 バンはぐるりと首を回して、ヘンドリクセンを見上げて笑った。 「そういうてめぇの『腐蝕』はどうなんだ?」 「おっしゃるとおり。私はその魔力ゆえに疎まれ、故郷を追い出されました」 「ほら見ろ」 人ならざる力に崇高も下劣もない。持ち主の人格も関わらない。バンとヘンドリクセンがその証だった。 「では率直に伺います。あなたが守りたいものは何ですか」 ヘンドリクセンがバンと違うのは、人格のほかにドレファスの魔力の定義をかたくなに信じていることだ。たとえ表に出る魔力が忌まわしい形をしていようと、その源たる意思の澄明さを彼は疑わない。 「ねぇよ。そんもん」 ヘンドリクセンのようになれないバンは、きっぱりと否定した。 バンの魔力は、生まれたときから自分のため、自分の身を守るためのものだった。ドレファスの定義に当てはめるのなら、ヘンドリクセンの問う「守りたいもの」とはバン自身になる。誰だってわが身は可愛い。自分自身を守りたいものと考えることは決して間違いではない。にもかかわらず、バンは「ない」と答えた。 バンが自分以外のもののために、魔力を使ったのは一度きりだ。燃え盛る森で、醜く太った赤い巨体に立ち向かったあの一度きり。あの日を境に、バンの魔力は飛躍的な成長を遂げた。バンの罪状のひとつ、生命の泉を飲み干したことも関わったかもしれない。しかし肝心の、「守りたい何か」は守れなかった。 守りたいものを喪って、強くなった魔力は皮肉だ。死なない肉体のおかげで、バンはわが身さえ守らなくて良くなった。 だから、ない。何も、守りたいものなど、ひとつもない。 「疲れませんか。真の意味で使いどころのない、ただ強いだけの力を持て余すことは」 「疲れんに決まってんだろ。おかげでこのザマだ」 ほとんど空になった酒瓶を揺らしてバンは自分を蔑み笑う。瓶の底に残ったわずかなエールがちゃぽんと音を立てた。 「やはりあなたが朝から呑んだくれているのは、心に曇りを抱えているからですね」 「『やはり』ってなぁどういう意味だよ。気色悪ぃ同情なら間に合ってんぜ」 バンが守りたかったもの、真実に欲しかったものは、もうどんな魔力でも手の届かない場所にいってしまった。そのことをヘンドリクセンは知らない。バンの傍らに膝をついた彼は、起き上がったバンの肩を抱いた。 「いいえ、心から同情します。私でよければぜひお力に」 ヘンドリクセンのフロスティブルーの瞳は輝いていた。その清らかに澄んだ光に晒されて、バンはまるで悪魔のように身の毛がよだつ。苦手だった。このテの、キラキラした、正しさに満ち溢れた何かが、善意と呼ばれるそれらが、バンは心底苦手だった。 「だーかーらっ、それが気色悪ぃっつってんだろーが!」 「吐き出して楽になることもあります。それで酒の量も減るかも」 「酒ぐれぇ好きに呑ませろ」 「体に障りますよ。もともとそんなに強くな――」 「ヘンディ!」 セリフを食ってやれば、ヘンドリクセンは目をぱちくりとさせて黙った。その隙に、バンは肩の上の手を払い落とす。自分の手を取り戻す、ヘンドリクセンの目はまだ丸かった。 「ヘ、ヘンディですか……」 「長ぇんだよ、てめぇの名前は」 「バン殿に比べれば誰だって長くなります、キング殿でさえ4文字です」 またキングか。ことあるごとに引き合いに出される同僚の名前にうんざりとして、バンは天を仰ぐ。どこから教えたらいいものか、目の前の男の純真さにバンは手を焼いた。 「あのな、ヘンディ。俺は不死身だ。『体に障る』なんてことはあり得ねぇ」 一番説明が明瞭な部分を指摘すると、ヘンドリクセンはすぐに己の過ちに気づいた。バンがこれみよがしについたため息を、背後から上がる聖騎士の訓示がかき消していく。 「……そうでした」 「わかってもらえてドーモ」 神聖な合唱は、個人を脇に追いやる。バンはそこに集団催眠めいた気味悪さを感じとり、ヘンドリクセンは若者たちが求める力の根本を見つめ直していた。 「魔力は何のためにあるのでしょう」 「まーた、その話か」 「ドレファスには聖騎士の存在意義を問いました。蛮族や魔物の脅威から国と民を守る、彼はそう答えました。彼の言葉は正しい」 「じゃ、何が不満なんだよ」 「彼が口にした脅威を退けるのに、必ずしも魔力に頼る必要はないと思うのです」 投石機や連射可能な機械仕掛けの弓矢など、魔力に拠らない兵器の開発は日々進んでいた。人の知恵と技術、そして国家としての秩序と規律があれば、蛮族や魔物も対抗できないほどの相手ではないと彼は言いたいのだろう。 「われわれの魔力は、かつてブリタニアを支配していた魔神族と女神族の力の名残と聞きます。彼らがこの地上から姿を消して久しいというのに、なにゆえ魔力だけが存在し続けるのか……」 ヘンドリクセンの問いは、もはや独り言になりつつあった。 魔神族はいない。ヘンドリクセンが何気なく口にし、この国の誰もが疑問なく信じているその事実に、バンは口を挟みかけた。そして、ヘンドリクセンに見咎められない程度に頬の裏側を噛む。10年前に、バンが目の当たりにしたものを告白したところで、悩み多き彼を余計に惑わせるだけだ。第一、「彼女」に関わる何かを、他人に打ち明けるのは嫌だった。 なぜこの世界に魔力があるのか。魔力がなかったとしたら、バンは赤き魔神を倒せなかった。そもそもあの場所にたどり着けたか。あの森を目指そうと思える歳まで、生きていられたかも怪しい。 「バン殿は、妖精王の森を知っていますか。10年近く前に突如大焼失を遂げた森です」 絶妙なタイミングで渡された、ヘンドリクセンの問いにバンは黙秘を貫く。自分の考えに必死な、ヘンドリクセンはバンの異変に気づけなかった。 「行かれたことはありませんか? 生命の泉に聞き覚えは? 妖精族の秘宝で、飲んだものに永遠の命を与えるとの言い伝えです。あなたが不死身なのはまさか」 「悪ぃが、ノーコメントだ」 「バン殿」 「<七つの大罪>には国王に課された掟がある。うかつなことは言えねぇな」 「陛下が……、そうですか……」 ヘンドリクセンは一瞬息を飲み、なにやら呟き始める。妖精王の森、赤き魔神、研究、マーリン……、彼の口元から次々とこぼれ落ちる単語に、バンは意識を払わないよう努めた。 <七つの大罪>は、団員の罪状そのものがトップシークレットだ。次期聖騎士長の呼び声高いヘンドリクセンですら、バンの過去には触れられない。過去の傷を掟という包帯で厳重に守られながら、バンは外気に触れることのない傷がぐずぐずと膿み始めているのを感じていた。 品のない魔力に、死なない体。生に執着した浅ましい己の生き様そのものが、罪に見える。持て余す力を、何の恩義もないこの国のために使うことに、違和感を覚えるプライドすらなかった。 いまだぶつぶつと思案している、ヘンドリクセンを尻目にバンは口角を上げた。人として、聖騎士として、魔力を持つものとして、尊厳を貴べというのなら、このクソみたいな人生に幕を下ろしてもらえないだろうか。 「ヘンディ」 バンは気安く呼びかける。付けられたばかりのあだ名にも、ヘンドリクセンはすぐに応じた。 「お前の『腐蝕』で、俺は殺せねーか」 真冬の湖に張った氷のような、怜悧な眼差しに笑いかける。首を切り落とされても、炎に焼かれても蘇ったこの身でも、この男なら塵芥に変えてしまえるかもしれない。 「試したことがありませんから……」 律儀に答える彼の表情はこわばっている。バンを、<七つの大罪>の団員を殺める。この恐ろしい想像は、篤実な彼には荷が勝ちすぎたようだった。 「不死身に嫌気がさしたら、てめぇに頼みに行くわ」 「私が、あなたを?」 それでも、彼ならばと思ってしまう。降って湧いた思い付きは、存外名案であるような気がしてきた。 「コレで少なくとも、てめぇの魔力に意味はあんだろ」 バンの魔力は浅ましく、その肉体は滅ぶことを知らない。それが危険というのなら、故郷ですら忌み嫌われたヘンドリクセンの力が滅ぼせばいい。そうして国と民が守られるのなら、「腐蝕」は高貴な力に変わるだろう。 バンの提案に、ヘンドリクセンは純粋に驚いていた。自分が<七つの大罪>のひとりを殺す。そんな日は来ないと、彼は確信しているようだった。驚きに満ちた瞳は、バンの提案を冗談だと受け取る。肩をすくめて「腐蝕」の聖騎士はその凍える瞳をあたたかく眇めた。 「せいぜい精進します」 ヘンドリクセンの穏やかな微笑を支えるものは何だろう。守りたいもののないバンが、<七つの大罪>を捨てるはずがないという確信か。それとも、敵として相見えることを望まない彼の個人的な感情か。 どちらであろうと、興味はない。興味はないが、どちらであってもくすぐったいなとバンは思った。バンはエールの瓶をあおる。けれど、瓶にのこっていた酒はわずかだった。 「バン殿」 バンの所作を、照れ隠しと受け取ったヘンドリクセンがにっこりと笑う。 「不死者の体は障らないとおっしゃっていましたが、やはり呑みすぎにはご注意を。体は無事でも、心に障ることはありますので」 友人と呼ぶにはよそよそしすぎ、ただの知人にしては含むところが多すぎる、柔和な男の忠告にバンは心底面白くなさげに口を曲げた。 「大きなお世話なんだよ、ヘンディ」
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