小さな小さなエレインの唇に、バンは自分のそれを重ねた。大きすぎる口と鋭すぎる牙が、彼女のいたいけなそれを潰したり傷つけたりしないように、知りうる限りの慎重さで触れる。 重ねて、押し付け、すり合わせるだけの口づけに、バンはいつも慣れない緊張を強いられていた。 でも、止められない。エレインとのキスは気持ちが良かった。大好きな彼女に、自分の何もかもを受け入れられている錯覚に陥らせる。エレインがくれる優しいキスは、バンをひどく安心させ、同時に高揚させた。 バンなら片腕で抱きつぶせそうな体を、壊れ物を扱う要領でそっと引き寄せる。彼女の柔らかい金髪が頬を撫で、甘い香りが鼻孔を通り抜けた。紫の花を思い描かせる彼女の体臭に、バンは彼女の人ならざる身を実感する。
オマエに夢中
妖精族の姫君というエレインは、人間をあまりよく知らず、人間のバンの話や行動に強い関心を向けてくる。きっと退屈だからだろう。なにせ700年だ、20年そこそこしか生きていないバンには想像もつかない。 途方もない年月の間、エレインは話し相手ひとり見つけられないこの森の中に閉じ込められてきた。バンの話すこと何もかもが新鮮に聞こえて当然だ。 もしも、と時おりバンは考える。 もしこの大樹の上までたどり着いた人間がバンでなかったとしても、エレインはその男(ここまでたどり着けるような奴はまず男だ)の全てを受け入れただろうか。 自分以外の誰かが、エレインと口づけを交わす。想像するだけで、バンはいもしない、想像上の誰かを絞め殺したくてたまらなくなる。 キスの真っ最中に、そんな妄想に気を取られていた無作法を、エレインに気づかれたのはその時だ。音も立てずに唇が離れて、ラベンダーの匂いが遠のく。きゅっと眉をひそめた、彼女がバンを見ている。金色の瞳は悲し気だ。 「誰のこと、考えてるの?」 誰も、とバンは首を横に振る。悪かったと詫びても、肩をすくめておどけてみても、エレインは信じてくれなかった。 「この樹の下に、待ってるひとでもいるの?」 かぼそい問いかけに、不安でいっぱいの声に、バンはまさかと笑う。エレインに飽きられないよう、毎日必死で、必死過ぎて、彼女を好きでしょうがない気持ちがバンを振り回すから、いもしない「誰かさん」に嫉妬していたなんて知れば彼女はどんな表情を見せてくれるだろうか。 嫉妬。そうだ、これは嫉妬だ。強欲なうえに、嫉妬深い。この恋はバンを貶めていくのに、増え続ける罪状にバンは喜んで跪く。 嫉妬相手なら、「誰かさん」のほかにもいる。筆頭は、いなくなったという彼女の兄だ。 兄さん。兄さん。兄さん。 二言目には、彼女の口からこぼれる呼び名。その度に、バンは頭の中で彼女の「兄さん」とやらに一発喰らわせている。そしてそのことを彼女に気づかれるのが怖くて、「兄さん」を殴った空想はなるべく早く忘れるよう心がけていた。おかげで、日頃あまり使わない頭の一部が大忙しだ。 ああ、なるほど。 そういう意味では、キスのさなか、エレイン以外の「誰か」について考えていたと言う彼女の不信は誠に正しい。 だって、そうだろ。 バンはただの人間で、賊だ。たまたま生命の泉の噂を聞きつけ、たまたま大樹の上までたどり着いて、たまたま聖女の関心を買えた、どこの馬の骨ともしれない男だ。妖精王の森に、人間が長くとどまる資格がなければ、賊ひとりに聖女をどうこうできる権利もない。彼女と過ごしたこの数日だって、彼女の700年の孤独につけこめたからこそで、バン自身が勝ち得たものは何もなかった。 そうして転がり込んだチャンスに、バンはエレインの好奇心を自分一人に向け続けられるよう、あれこれと裏工作を重ねている。エールラベルコレクションを手に、彼女がまだ飲んだことがないといえば、ふもとの町へ行ってエールを調達してくるくらい朝飯前だ。 それなのにエレインは、バンのやることなすことに大きな目を見開いて驚き、笑う。小さな頬を赤く染めて、喜ぶ彼女の顔を見て、まだ彼女の中に自分への興味があることを確信してバンは安堵する。 でもいつかきっと、彼女は気づく。バンが卑怯で狡猾な男だと。そうなる前に、彼女の前から姿を消したほうが賢明なのに、バンは彼女と交わすキスの気持ちよさを手放せない。 「ひどい」 バンの自嘲に、呼応するようなセリフを告げて、エレインは顔を背ける。金髪から覗く、形の良い耳たぶの赤さをバンは記憶に焼き付けた。もう明日には、見られなくなるかもしれない彼女の形を、覚えようとする。 「私の頭は、バンのことでいっぱいなのに」 蚊の鳴くような、声だった。あと一日、もう一日と終わりを先延ばしにしてきた強欲をあおる声に、彼女のために消えようなんて殊勝な考えは霧散する。 賊は賊らしく。 やはり奪ってしまおうかと悪巧みを抱え、バンは唇の裏側でほくそ笑んだ。
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