オスローにとって、ハーレクインはたったひとりの友達だ。黒妖犬はその見た目から、同じ妖精族にもしばしば畏怖される。ただひとり、わけ隔てなく接してくれたのがハーレクインだった。 「みんなオイラの一番だよ」 そう笑って、頭を撫でてくれる彼がオスローは好きだった。 そんな大好きな大好きなハーレクインが、妖精王の森を出て行ってしまって随分経つ。ヘルブラムの危機に、ひとり出て行く彼を追いかけたあの日のことをオスローは忘れていない。 「妹のそばにいてくれ、オスロー! 何かあれば必ずキミを呼ぶから」 それから700年経っても、ハーレクインからの呼びかけがオスローに届くことはなかった。 何度か、オスローは自分からハーレクインの元に飛ぼうとした。彼の気配をたどって、自分自身を転送させようとしたが叶わなかった。うまくいかない理由がわからない。誰かに邪魔をされているのか、ハーレクインがオスローを拒んでいるのか。 そんなはずがない、ハーレクインがオスローを嫌うはずがない。オスローはいやな考えを振り払った。彼を信じる証に、彼の言いつけをオスローは守り続けた。つまりは彼の妹の、妖精王の代わりに森を守護する聖女・エレインのかたわらに寄り添った。 そのエレインの周囲が、このところにわかに騒がしい。原因は、ひとりの人間だった。
オスローは知っている
「オスロー、ダメよ」 エレインが人差し指を立てて、オスローをたしなめる。彼女の前にちょこんと座って、オスローは垂れた舌もそのままで肩を落とした。ついさきほど、オスローがバンに噛みつきかけたことを怒られていた。 「彼は噛んじゃだめ」 エレインのお願いのような言いつけに、オスローは小さく唸る。その鳴き声は理不尽さを訴えていた。 バンが初めて妖精王の森に現れた日、オスローに彼を見張るよう命じたのはエレインだ。 生命の泉を求めて、森の最深部までたどり着いた不思議な人間、それがバンだ。聖女の前で堂々と賊を名乗る彼に、エレインと生命の泉を守るため、オスローが警戒心を抱くのは当たり前だ。エレインの命令がなくとも、オスローは木々の陰からバンを監視していただろう。 そして事件は起こった。 「一緒に水浴びしようぜ」 間延びした語尾で歌うように、バンはエレインを泉へと誘った。黒妖犬のオスローにとって、人間が全裸だろうがなんだろうが気にするに値しない。けれどエレインはバンの姿に眼を剥いてすぐに背を向けた。顔を真っ赤にして、こっちに来ないでとしきりにバンに訴える。そんな彼女の様子に、緊急事態を察したオスローは臨戦態勢に入った。 結局バンは、きわどいところでエレインとの水浴びを諦めた。あれ以上彼がエレインに近づこうものなら、オスローは彼に容赦なく躍りかかるつもりだった。 「噛んじゃだめ」 エレインは同じ言葉を重ねる。バンの裸はここにないのに、エレインは頬を赤く染めている。さらにこうも続けた。 「彼に嫌われたくないの。だから、お願い」 肩を小さくすくませて、小首を傾げる彼女の顔は怒っても悲しんでもいない。潤んだ瞳はきらきらと光っていて、見えない手にくすぐられているような彼女の仕草と表情を、オスローは不思議そうに眺めていた。 エレインを守るのは、ハーレクインの言いつけだ。だがそのエレインがバンを噛むなというので、オスローは困ってしまう。ただ今のエレインはよく笑っている。それはバンのおかげだ。エレインが笑っているのなら、彼はエレインの害悪ではない。警戒レベルを引き下げても、ハーレクインはオスローを叱らないだろう。 「バフッ」 オスローは吼えた。バンは噛んではいけない。エレインの言いつけを復唱する鳴き声に、エレインはこくんと頷いてくれた。 「いい子ね、オスロー」 そうしてオスローの「噛んではいけない相手」リストに名を連ねたバンは、エレインのそばを離れ、妖精王の森に生える樹々の枝から枝へと身軽に飛び移っていた。時おり足を止めては、バンは枝からぶらさがる木の実をもいだ。 オスローはちらりと泉に目をやった。それからバンと同じように枝から枝へ飛び移り、バンが立つ枝と並行する別の枝にオスローは降り立った。突然に現れた大きな黒い犬に、バンは木の実を抱えたまま目を見張る。 「でけぇ犬だな、なんて種類だ?」 妖精王の森には妖精の他にこんな珍獣も棲んでいるのかと、バンはオスローの頭のてっぺんからつま先までをしげしげと見つめている。木の実を取り落としたりしない彼は、ハーレクインやエレインとは違った意味でオスローを恐れなかった。 「なあ、お前さ、あいつが好きな食いモン知らねぇ? 」 バンは物怖じすることなくオスローに声をかけてくる。オスローと対面した人間の行動は、怯えるか威嚇してくるかの二択だ。そのどちらでもないバンの反応に、オスローはハーレクインに初めて撫でられたときの驚きを思い出していた。 「あいつ、ただでさえヒマ人なのによぉ、何も食わねぇとか楽しくねぇだろ」 バンの言う「あいつ」とはエレインのことだ。彼はどうやらエレインと食事がしたいらしい。一度干し肉を彼女に与えようとして、彼は食事の必要がないとエレインからつっぱねられていた。 「コケモモ食うかな」 エレインの好きなものを、オスローは知っている。だがオスローは彼と友好を築く気も、エレインの好物を教えてやる気もなかった。 「ボフォアッ!」 問答無用でオスローは咆哮を上げる。その大音響もさることながら、巻き起こされる衝撃がすさまじかった。オスローの口から放たれた衝撃波は正面にいたバンを吹き飛ばす。 「なっ……!」 いつぞやエレインに風で弾き飛ばされたときのように、バンは絶叫とともに森の中を飛んだ。いや、大きく落下した。小さくなっていく叫び声を、オスローは追いかけた。 バンが落ちた先は泉のほとりだった。生命の泉ではない。そこから枝分かれしてできた小さな泉だ。林立する木々が衝立になるそこは、エレインの水浴び場でもある。この時もちょうど、バンの食事時を見計らって、彼女は水に入るために服を脱ぎかけていた。 「えっ!」 「おおっ、エレイン」 たくさんの枝を巻き込んで、空から降ってきたバンにエレインの目が丸くなる。同じような顔をしたバンが、エレインの姿に声をかけた。とっさにはだけかけていた胸元を押さえたエレインを見て、バンの口元に笑みが浮かぶ。 「イイ格好してんな」 エレインの顔が真っ赤に染まる。 「バンのバカッ!」 エレインの手から特大級の風が放たれ、バンは再び宙を舞った。
「オスロー」 エレインは怒っている。バンに噛みつこうとしたときよりもずっと、彼女はオスローに怖い顔を向けていた。バンがエレインの小さな泉に落ちてきてしまったのが、オスローのせいだと知ったからだ。 「どうしてあんなことしたの」 あんなこと。自分で口にして、あられもない姿でバンと向かい合ってしまったことを思い出したエレインは、小さな頬をコケモモ色に染めた。彼女の赤ら顔に、ますます怒っているのだと思ったオスローは小さな声で弁明を試みた。 「私がバンと、水浴びしたそうだったから……?」 オスローとエレインから少し離れたところで、バンがごろんと寝そべっている。ひとりと一匹に二度も吹っ飛ばされた彼は満身創痍で、さきほどまでエレインに謝罪されながら手当てを受けていた。 「さっすがに、そろそろ死んじまうぜ、俺も」 そう言いつつも、バンはエレインはもちろんオスローにも怒らない。代わりにエレインがオスローを叱りつけていた。 横になるバンが起きているのか寝ているのかはわからない。彼に聞かれたくない話に、エレインの声は自然と潜められる。 「ボフッ」 頷くようにオスローは吼える。水浴びに誘われたとき、エレインがバンから背けた顔はほんの少し嬉しそうだった。オスローは考える。彼女が嫌がったのはバンの裸だ。バン自身じゃないからこその「噛んじゃだめ」なのだ。だったら彼は服を着たまま、エレインの沐浴に付き合えばいい。 エレインの心の動きに敏感に反応したオスローの行動に、エレインは赤い頬をますます紅潮させた。 「そんなっ、そんなこと……」 もじもじと服のヒダをいじるエレインは、しかしはっきりとは否定しない。むしろ夕焼け色の瞳を覆う水の膜をしっとりと厚くさせ、それはそうかもしれないけれど、と彼女はオスローの推察を認めた。 「でも、だめよ、そんな、恥ずかしいもの……」 バンは裸ではないのに? 首をかしげるオスローを前に、エレインは両手を振って訴える。 「だって、わたし、小さいし……! 胸なんか、ぺたんこだし……」 がっかりされちゃう、とエレインは眉をひそめて今にも消え入りそうな声で言い添える。 人間の女性はもっと背が高くて、胸が大きいのだそうだ。ヘルブラムが言っていた。そしてたいていの人間の男は、女性の胸が大きければ大きいほどいいらしい。そんな人間の目からすると、どんなに長寿な妖精も子どもにしか見えない。 エレインはそのことをひどく気に病んでいた。ヘルブラムから聞かされた時は無反応だったから、バンのことを気にしている。エレインの大きな瞳からは、今にも水の膜が涙に変わってこぼれ落ちそうだ。 心を読んでしまえばいいのに。エレインの危惧にオスローはそう応える。そうすればバンの好みも、彼がエレインをどう思っているかもわかって、一石二鳥だ。だがエレインは眉をひそめた。 「そういうのは、ずるいと思うの」 ますますオスローはわからない。妖精族は人間の心が読める。エレインは特に優れていた。できる能力を発揮してなにがずるいのか。 生命の泉を取りに来た人間に危害を加えてはいけないと言ったり、したいことをしたくないといったり、挙句の果てに心を読みたくないと言ったり。ここのところエレインの言動は支離滅裂だ。いや間違いなく、バンが現れてから、エレインはおかしくなった。 「それに心を読んで、バンが私のことなんとも思ってなかったら嫌でしょ」 心底自信がなさそうな、そうに違いないと思い込んでいるエレインを前に、オスローはそんなわけないと首を振った。バンだって間違いなくエレインが好きだ。なぜこんなわかりやすいことが、エレインにはわからないのだろう。現にバンは、水浴びに誘ったり外の話を聞かせたり、しきりにエレインの気を引こうとしている。 さっきだって、エレインの好きな食べ物を探していた。正体も知らないオスローにまで、真剣に尋ねている。そのことを打ち明けると、エレインの頬と言わず耳といわず、顔全体がぽっと火照った。 「バンが、私のために……?」 「バフッ」 「まさか……、そんなの、だめよ……っ」 エレインはとうとう両手で顔を押さえてしゃがみこむ。小さな手では隠しきれない頬や耳はゆでたように赤い。いったい何がダメだというのだろう。エレインはバンが好きで、バンもエレインが好きならそれで十分じゃないかとオスローは不思議がった。 オスローの話が信じられないのなら、なおさらバンの心を読んで確かめなければ。オスローの主張にエレインはぶんぶんと首を振った。 「もしも、もしもよ。彼が本当に、私のこと好きだったら……」 「バフォ?」 エレインは頬に手を当てて、涙の粒子をたっぷり含ませた声で言った。 「きっと、息が止まっちゃうわ」 なんとも思われないのは嫌なのに、好かれるのも困るのか。わからない。わからないが、これ以上ないほどエレインの顔が赤くなっているのは、やはりバンのせいなのだ。 「ボフッ……」 オスローはエレインの頬を舐めた。彼女の瞳から、いつ涙が形となってこぼれ落ちてもぬぐってあげられるように。本当はバンの役目だ。けれど、バンを噛んでも、エレインの水浴び場に落とすのもダメなら、これくらいしかオスローはできることがない。 「優しいのね、オスロー」 エレインの熱を含んで微笑む瞳には、彼女の思い描くバンがいる。エレインのことを好きだと告げるバンが。そのバンと、あちらで寝転んでいる彼が同一人物だと、彼女は知らない。 バンの背中を焦がす、エレインの甘くしとやかな視線に彼が気づくのはいつだろう。彼の網膜に滲む腫れ上がった心を、エレインはいつ見つけるのだろう。うぶな恋が撒き散らすコケモモ色の熱は、今のところオスローだけが知っている。だがオスローはこれが人間と妖精の種族を超えた恋の始まりだということも、向かい合う気持ちと気持ちを絡め合わせる方法もわからなかった。 帰ってきてよ、ハーレクイン。 じれったい賊と聖女に挟まれて、お手上げ状態のオスローはこう願う。彼ならひと目で、バンとエレインが抱える微笑ましいすれ違いに気づいたろうに。そしてオスローに、どうしていいか教えてくれただろうに。 「今の話は、彼には内緒よ」 「バフッ」 それでは埒が明かないと思いながら、オスローは今日も、友の帰還を待ちわびる。
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