彼の居場所 - バン×エレイン

※inspired by うつい様




 彼の居場所



 <豚の帽子>亭の入り口に、「CLOSED」(店じまい)の札がかけられて一時間がたった。商い中の喧騒が嘘のように、客のいない店内は閑散としている。店長はもちろん、看板娘のウェイトレスも仕入れ係りも、そしてそのほかの連中も、仕事を終えておのおの寝床に引き上げていった。
 店に残るのは、明日の仕込みが続く料理番だけだった。従業員すら姿を消した厨房で、仕事も片手間に、バンは店内を見回す。ホークの寝息以外に、他人の気配はなかった。
 静まりかえった小さな空間に、ひとりぽつりと留まる。こんなとき、バンはつくづく思い知るのだ。この場所が気の置けない仲間のたまり場ではなく、客を招き、もてなすための酒場(みせ)だということを。
 賑やかなのは悪くない。むしろ、騒がしさの中心にいる性質(タチ)だ。だがふとしたとき、孤独を感じる。今自分のいるこの空間が、家や故郷(ふるさと)と呼べるようなものではないのだと噛みしめ、そのことが焦燥となってひどく胸に迫ってくることがある。生来、故郷を想って涙するとか、親を懐かしむなんて感覚とは縁遠かった。それなのに。そう自分でも不思議と首を傾げるくらいに、しかしたしかにときおり、バンはここにいる自分に違和感を覚えずにはいられなくなる。
 まさにそれが今で、なにもこんなひとりきりの、他に気を逸らしたり誤魔化すものがないときに顔を出さなくてもいいのにな、とバンは下ごしらえの手を止めて天井を見上げる。生まれ育った家の、梁の形をまさか思い出せるはずもなかった。
「どうしたの?」
 視界の外の頭上から、降ってきた可憐な声にバンの意識は吸い寄せられる。二階へと続く階段の中腹から、エレインがこちらを見ていた。
「考えごとなんて、珍しい」
 ふわりと宙に浮いたエレインは、バンを目指して手すりを越える。フワフワと、彼女は萌黄色のスカートをゆらめかせながら、厨房とダイニングを分けるカウンターの手前にたどり着いた。
「そっちは終わったのか、エレイン」
「ええ。今日はいろんなお酒が出たから、整理するのに手間取っちゃって」
 降りてきたばかりの階段を、すこし振り返ってエレインが言う。彼女は、<豚の帽子>亭自慢のソムリエールで、だから当然、酒蔵の在庫管理は彼女の仕事になる。妖精族の姫を場末の酒場で働かせるとは世も末だが、彼女の兄、現役妖精王が仕入れ係なのだから今更だった。美人ぞろいと噂のウェイトレスに、リオネス王国の第三王女が混じっていることにいたっては、公然の秘密になっている。
「終わったんだろ? 部屋で休んでろよ」
「いいの。バンが終わるの待ってる」
 やるべきことを終えたばかりの、萌黄色のソムリエールはカウンターの外側でイスに腰を下ろしてバンと向かい合った。こちらに向けられたかんばせからは、微笑がこぼれている。
 疲れを見せない微笑みは、彼女の上機嫌を物語る。妖精王の森の聖女を名乗っていたころに比べれば、今の彼女を煩わせる雑事は極めて牧歌的だ。そのことが、彼女に鼻歌さえ歌わせかねない。
 700年、エレインは森につながれていた。そうでなくとも、彼女は妖精界と森以外の世界を知らない。正真正銘の、深窓のご令嬢の瞳には、場末の酒場でさえ楽天地に映るらしい。
 とはいえ、近頃のエレインは働きすぎだ。<麗しの暴食>亭で世話になって以来の、白いエプロンに深緑色のワンピース。そのエプロンのフリルに埃がついている。
 カウンター越しに腕を伸ばして、バンはその埃を払いのけてやった。自前のエプロンで汚れをぬぐうと、同じ指で、彼女のふっくらとした頬を撫でる。くすぐったそうに肩をすくめて、それでも指から逃げない彼女は上目遣いでバンを見上げた。目の前で咲いた愛らしい微笑みの花に、ミツバチのごとく引き寄せられてバンは彼女と鼻先を触れ合わせる。
「仕込みはいいの?」
「俺の重大事はこっち」
「サボりたいだけだったりして」
「だったらとっととベッドにしけこんでら」
 このまま、彼女とじゃれあっているのも悪くない。二人を隔てる、カウンターの無粋さすら燃え盛る恋の炎の燃料にして。だが望むがままに彼女を巻きこめば、いつまでたっても仕込みは終わらないし、彼女が実は疲れている体をゆっくりとベッドで休めることも出来ない。
 尖った鼻頭で彼女のシルクにようになめらかな頬のふくらみを横切って、極上の絹糸を思わせる金色の髪をかきわける。探り当てた耳元に唇を寄せて、彼女が好きだという、とっておきの低音でバンは囁いた。
「先にベッドあっためといてくれよ、ダーリン」
 俺が戻ったらすぐ眠れるように。お為ごかしとは正反対の気障な言い回しに、エレインは頬を赤らめる。眉が困ったようにひそめられるが、ゆるい弧を描く唇がどうやらまんざらでもないらしい。
「あんまり遅いと、先に寝ちゃうんだから」
 小さく尖らせた唇に、バンは了解の返事の代わりに小鳥が啄ばむようなキスを落とす。そのまま首を伸ばして、二人だけの甘い言葉をひとつふたつ、彼女のうなじに吹き込んでやった。
 愛に満たされている者特有の、甘ったるい気配を放ってエレインはカウンターのイスから立ち上がる。階段を上る途中に、振り返った彼女に手を上げて、バンは放り出していた仕込みの残りにとりかかった。
 ひとりきりの厨房で、料理には使わない、ラベンダーの香りが鼻をかすめる。どんなハーブよりも強く香る彼女の残り香に、バンの口元が自然と綻んだ。



 かつてバンとキングが同じ部屋だったころの、<豚の帽子>亭は魔神族との戦いのさなかに大破して、もうこの世には存在しない。現在の店舗は、すべての戦いが終わった後にリニューアルされたものだ。従業員の増加にともない、大幅な増築もなされている。その結果、バンはエレインとの二人きりの部屋を手に入れた。
 ネームプレートの下にでかでかと書かれた、「KEEP OUT」(立ち入り禁止)の文字はバンによるものだ。その扉を開けると、約束どおりベッドに入っているエレインが正面に見える。ヘッドボードに寄せた枕に背中を預けて、彼女はシーツをかぶせた膝に本を乗せていた。
 ベッドサイドにバンが腰を下ろすと、マットが大きく傾く。こちら側に傾いた彼女の肩を手で受け止めて、バンはエレインに唇を寄せる。ただいまのキスをおかえりのキスで返した彼女は、バンのためのスペースを空けた。
「何読んでんだ?」
「本じゃないわ」
 エレインの傍らに滑り込んだバンは、彼女の手元を覗き込む。それは手帳だった。小柄な彼女が持つものにしては、分厚くて大きなそれの、開いたページに貼り付けてあるものにバンの目は吸い寄せられる。エールのラベルだとはひと目で見分けがついた。緑色のライオンが特徴的なそのラベルは、先日店で入荷したエールのそれだ。
「さすがね、ひと目でわかっちゃうなんて」
「どうしたんだよ、これ」
 分厚い本のような手帳に、ページを贅沢に使ったラベルの貼り方。まるでそれは、かつてバンが持っていた――、
「私の『お宝』の、エールラベルコレクションよ」
 得意げな彼女の言葉は、バンの推測を裏打ちした。思わず目を丸くするバンに、エレインは寝巻きに着替えた肩をくすくすと揺らした。
「バンのは、妖精王の森で失くしちゃったでしょ。だから、これはその代わり」
 二代目ってところね、といたずらっぽく口角をあげる。バンは驚きから脱しきれないまま、彼女の手に包まれたままの冊子に目を落とした。コレクションと銘打ってはいるが、ページはまだ3分の1ほどしか埋まっていない。
「本当はね、秘密だったの。せめて半分くらいになったら、バンに渡そうと思って」
「その割にゃ、隠す気がねーな」
「だって、いつまでたっても埋まりそうにないんだもの。バンに黙って、コソコソしてるのももう限界」
「見てもいいか?」
「もちろん」
 エレインからバンへ、二代目エールコレクションが引き渡される。手帳の重さも、厚さも、エレインには大きすぎるものがバンの手にはしっくりと収まる。かつて彼女の前で開いたラベルコレクション、彼女の言葉に倣うなら初代コレクションの手触りが蘇った。同じ形、大きさの手帳を、彼女は見つけ出すのに苦労しただろう。
 一度閉じたそれを、パラパラとめくる。最初の十数ページに渡って、彼女の手で貼りつけられたラベルたちが踊った。なるほど、ここのところの彼女が働きすぎの原因はこれにあったのか。珍しいラベルを探して、酒蔵の中をあれこれと見て回る彼女の姿が目に浮かんだ。
「お店で働いていれば、ラベルなんてすぐに集まると思ったのに。そう簡単にはいかないわね」
「店じゃ扱う銘柄は決まってくっからな。あとは団ちょの気まぐれに賭けるしかねぇ」
「バンから頼めないの?」
 完成を急くエレインが、バンの肩に身を乗り出す。階下の厨房でかいだ、彼女の甘い匂いが強くなった。誘われるように、小さな体を抱き締めて、バンは彼女ごと枕の上に沈む。
 膝の上をすべりおちるラベルコレクションの感触を把握しながら、両手で捕まえた彼女の顔にキスの雨を降らせた。いきなりのことに驚いていたエレインも、次第にバンのキスに応えだす。無数に落ちてくるバンの唇をが、やわく食まれればキスは重みを増し、深みを帯びていく。
 つまる息の中、あえかに揺れる声で、バンと名を呼ばれる。か細い彼女の声に胸が逸って、エレインと、呼び返すバンの声も熱っぽい湿り気を帯びた。
 ドアに刻んだ文字は、こういうときのためにある。20年前には書き忘れたおかげで、妖精王の森ではあの憎たらしい赤い魔神に邪魔された。同じ失敗を、バンは決して繰り返さない。
 あの森で、果たせなかったことを今、果たす。彼女にキスをして、愛を囁いて、あますところなく触れ合って、おだやかな日々を二人で生きる。ラベルコレクションの完成も、その優しく他愛ない日常のひとつなのだろう。
「旅に出ようぜ」
 店で揃えられるエールの種類には限界がある。珍しいエールが届くのを待つのではなく、自分たちで探しにいこうという提案に、バンのキスにとろかされた蜂蜜色の目は潤むばかりで、驚きに丸く見開かれることはない。うっとりと、バンを見上げて彼女は言った。
「お店は、どうするの?」
 エレインがいなくなっても、店長を含めてエールに詳しい者は他にもいる。けれど、バンはこの店の看板シェフだ。しかしバンは、ささいなことだと笑う。店を抜けるのは、これが初めてではないからと。
「団ちょは俺が説得するからよ。お前はあのクソ兄貴を何とかしろ」
 バンがエレインとの同室を主張したとき、彼女の兄のキングは猛然と反対した。当時、バンとキングが繰り広げた壮絶な争いを思い出したエレインが頷く。あんなことは二度とごめん、と彼女の斜めに下がった柳眉が語っていた。



 店の中と外では、喧騒の種類が違う。年季の入ったスイングドアを片手で開いて、通りに出たバンを雑踏の賑わいが歓迎した。短い階段を下りるたびに、肩に紐をひっかけた袋が背中で揺れる。中には二人分の旅支度が詰め込んである。
「支払いは済んだ、バン?」
 店の入り口の傍らに、並べられた貯水用の樽。そのひとつに腰を下ろしていた、金髪の少女がバンを見上げた。同じく金色の、彼女の瞳が晴れた空の下できらめいている。緑のフードパーカーのノースリーブから伸びた、華奢な腕の白さに目が眩む。
 長旅がつらくないよう、しっかりとした靴を履いた足をぶらぶらと揺らす、彼女の膝の上には一冊の本が広げられている。
「そっちはどうだ、エレイン?」
「完璧よ。とっても綺麗」
 彼女が掲げたページには、髪の長い乙女がデフォルメされたラベルが鎮座している。今しがた、バンが出てきた店でしか飲めないという、地酒中の地酒のラベルだった。
「<豚の帽子>亭で仕入れられないのが残念ね」
 離れていても、店のことを考えている彼女にバンは頭が下がる。店の仲間たちを大切に想う気持ちを、エレインはバンの分まで表に出した。
 二人の旅立ちを、<豚の帽子>亭の彼らは、別れを惜しみつつも快く送り出してくれた。キングだけは不服そうだったけれど、妹を案じる兄心ゆえとは誰もがわかっていた。いつもの軽く十倍にはなる小言を、バンは甘んじて拝聴した。
 バンとエレインの離脱に、一番の痛手を感じていたのはメリオダスだ。名シェフと美少女ソムリエールに抜けられては売り上げの激減はいなめない。ウェイトレスの奇抜なイメージチェンジを真剣に検討しながら、彼はバンに必ず店に戻ることを約束させた。

 料理長の席は空けとくからな。
 このままばっくれたら、俺の不戦勝ってことで。

 そんなメリオダスの挑発に、バンは軽く握った拳をぶつけ合わせて応じた。ちなみにホークは、バンが最後に作った残飯の咀嚼におおわらわ。とても別れの挨拶ができる様子ではなかった。

 いってらっしゃい、楽しんで。
 気をつけてね。
 早く帰っておいで。

 メリオダスやキングはもちろん、仲間たちから次々と向けられる声に、バンはむず痒さを覚えた。まるでこの店が、バンの我が家のようじゃないかと。この店は故郷にはなりえないと、この世のどこにも自分が帰る場所はないと思っていたのに、思いのほか、センチメンタルに染まっている自分にバンは驚いた。
「クセは強ぇが、悪くねぇ味だったな」
「ひと口目は変なのに、ついつい飲んじゃうのよね」
 ノスタルジックに染まるバンを、現実に引き戻すのはエレインの役目だ。ゆうべの飲み過ぎを反省して、彼女は小さく舌を出した。
 隣の樽にバンが浅く腰を下ろすと、とたんに二人の距離が近くなる。その距離をさらに縮めて、バンは愛らしい仕草を重ねる彼女に尋ねた。
「次はどこへ行きてぇ?」
 <豚の帽子>亭を離れても、バンの傍にはエレインがいた。彼女の緑のパーカーは、色は違えどキングとそろいだ。彼女といるかぎり、不本意ながらキングを思い出す。キングの傍にはディアンヌが、ディアンヌの傍にはエリザベスが、そしてメリオダスが、ホークがいる。彼らはバンとエレインが睦まじく過ごすこのひと時にも、あの店で賑やかな日々を過ごしていることだろう。
 エレインの元に。そして、<豚の帽子>亭に。バンの心が目指し、羽を休める場所がそこにある。
 ないと思っていたのに。自分には無縁のものだと疑わなかったのに。いつの間にか、帰るところが二つもできてしまったことにバンは驚きを隠せない。そんな故郷のひとつが、バンに笑いかけた。
「美味しいエールの飲めるところ」
「違いねぇ」
 鼻の触れ合う距離で顔を寄せて、二人は互いを見つめて笑う。通りのひと目も、店から出入りする客の気配も気に留めず、キスをする。
 バンの唇がエレインを捕らえ、エレインの唇がバンを優しく撫でる。そのキスは、二人で作るエールラベルコレクションの、完成の前祝いだった。






あとがき(反転)
うついさまのイラスト「ポスカの」(Pixiv)のエレインが可愛くて可愛くて可愛くて、とうとう彼女をモデルに書いてしまいました。ご快諾くださいましたうついさまに心からお礼申し上げます。
2016年6月9日掲載
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