バンの作る料理のレシピに、エレインはたびたび登場する。 たとえば何かの生地をこねているとき、バンはエレインの頬をつまんで生地の硬さを確かめる。お菓子のソースの温度は、エレインの耳たぶで測る。それから時おり意味もなく、気晴らしと言って彼は長い指でエレインに触れた。 水に洗われてひやりとしたバンの指、小麦粉にまみれたバンの指、甘い匂いをまとったバンの指。美味しい食事を生み出す彼の指先は、いつだってエレインを探していた。
Recipe for ......
亭主に二人続けて先立たれた女がいた。 バンの話はそんなフレーズから始まった。しゃべりながら鍋を覗き込むバンを、エレインはカウンターから見上げている。 「死んじまった亭主は女よか随分年上だったんだが、それでも昨日今日でポックリ逝っちまうようなじいさんでもなかった。目立った病気もねぇ。どっちも金持ちだったから、メシだって三食きっちり食ってやがった」 鍋の中からはコクのある匂いがふんわりと、バンのいる場所からエレインの元へと広がっていく。この鍋の中身にバンは数日前からつきっきりだった。そのあまりの蜜月ぶりにエレインがやきもちを焼くものだから、バンは料理のさなかにもエレインの相手を勤めている。手と口をそれぞれ別々に動かす彼は大忙しだ。 「亭主が死んじまうと、結構な財産はそっくりそのまま女房のもんになった。そりゃ当然女が疑われるよな、財産目当てに亭主を殺したってよ」 少しでも焦がしてしまったらアウト。数日間の手間暇が全部無駄になる。だがバンの鍋をかき混ぜる手にも、エレインに語り聞かせる口調にもよどみはなかった。 「だが女は絶対ぇ尻尾をつかませなかった。女は芸術の神みてぇな別嬪で、知恵の女神みてぇに賢かった」 バンが小さな匙で鍋の中身をすくってエレインに差し出す。匙はバンに持たせたまま、茶色い深みのある光沢をエレインは唇をすぼめて口内に迎え入れた。 「うん、おいしい」 「塩足んねぇ?」 「そんなことないわ」 エレインの評価に、ふんと鼻を鳴らしたバンは匙の残りを舐めた。間接キスにエレインが頬を赤らめている隙に、バンはエレインが不要と言った塩を鍋に足してしまう。エレインの味覚を信用していないかのような態度だけれど、こと料理に関してはバンのやることをエレインは黙って見守ることにしていた。 エレインを尻目にぐるりと鍋をかき回して、バンは再び話をミネルヴァの女に戻した。 「しばらくして、ひとりの男が女の家を訪ねた。男は言うんだ、あんたはどうやって二人の亭主を殺したんだってな。墓まで暴いても、亭主二人の遺体から毒すらでなかったってのに、それでも女がやったと信じて疑ってなかった」 バンは鍋に蓋をすると野菜かごからトマトを取り出した。朝摘みの新鮮なトマトは、皮のはりが違うという。窓からの光だけでも張りつめた皮がつるりとしているのがわかる。その表面を、バンはかるく火で炙った。ぷちんと弾けた皮は端っこだけを焦がしてまくれあがる。そこをつまんで皮をむく彼は指が熱くならないのだろうか。 「女は男に自分の亭主がどれほと嫌な男だったか打ち明けた。女にとっちゃ、亭主としても人間としても最低の落伍者だったみてぇだ」 綺麗に剥かれたトマトは、まな板の上であっという間に賽の目にされる。刻んだ赤は鍋の中の茶色の中に沈められた。きっとこれでまた味が変わる。塩は最後に入れたほうが良かったんじゃないかしら。エレインはちらりと思うだけに留める。料理のことでバンに口を挟むのは、とても愚かなことだから。 「二人の亭主にゃもう一個共通点があった。どっちも生まれつき胃が弱かったんだな」 バンの料理の手はそこで一息つく。だが彼の目は厨房の中をせわしなく動き回っていた。エレインに話を聞かせながら、料理の重要な工程をこなしながら、しかし彼の紅い瞳は次の手順にまい進している。 「女は亭主のために料理を作った」 再びバンの手が動き出す。次に彼の手にひきよせられたのは、卵3つとチーズのブロックだ。卵はボウルに割られてほぐされる。チーズは専用のおろしでみるみるうちにクリーム色の粉に変わり、卵の海に落ちていった。 そしてバンは卵を混ぜる。泡だて器で、ものすごい速さで、ひたすらまぜる。カラカラカラカラ、泡だて器とボウルの内側がぶつかる軽快な音が響く間にも、彼の語り口は止まらなかった。 「女が作ったのは、七面鳥のひなのローストに、家禽のささみのインド風、焼き色をつけたオムレツ・ナポリ風、羊の背肉のマスコット、濃厚なクリームスープ、なすのトルコ風、うずらの冷製ゼリー寄せ……」 泡だて器で空気をたっぷりと含まされた溶き卵は、まるで黄ばんだメレンゲみたいだ。もうチーズの粉がどこにはいってるかもわからない。チーズを隠し抱いた卵は、バターをたっぷり溶かしたフライパンの上へ。ふわふわとした生地が広がっていくさまは、卵というよりパンケーキを思わせた。 「女のオヤジはそりゃあ偉大な料理人でよ、女も親に負けず劣らずの天才だった」 あとは火が通るのをじっくり待つだけ。そこでようやく、厨房の外に目を向けたバンとエレインは見つめ合った。 「女は言った。『私は夫の食べる料理に、ほんの少量の<私の芸術>を忍び込ませただけです』ってな。意味わかるか?」 「彼女しか知らない毒薬?」 「美味い料理を作ったってコト。それも毎日、大量に、豪勢で、一口食ったらもう止まらねぇような味の濃ーいメシを。喉越しが良くなるように、ご丁寧にも上等なワインを添えてな」 エレインひとりに意識を集中させたバンの、身振りや抑揚が大げさになる。彼の真剣な話ぶりにエレインは興味深くうなづいて見せた。 「そりゃあ亭主どもも飛びつくってもんだぜ。もともと胃が弱ぇってのも忘れて、腹がはちきれそうになるほど料理をかきこんじまった。ワインもしこたま飲んだ。で、死んじまった」 種明かしをされ、話はそれでおしまいだ。バンがフライパンを中身ごとひっくり返す。用意してあった白い大皿の上に、黄色い塊が飛び移った。ミモザの花のようにフワフワと、黄色に光るそれはオムレツだった。 そして仕上げは鍋の中身を、お玉でひとすくい。綺麗な焼き色をまとった黄色い小山の上に、濃厚なドミグラスソース。その上に、チーズをまぶせば完成だ。 「へい、お待ち」 「なんてお料理?」 「焼き色をつけたオムレツ、ナポリ風」 聞き覚えがあるレシピの名前を、エレインはすぐに思い出した。バンが作っていたのは、彼が語った物語の主人公、そう、あのミネルヴァ的美女が夫を死に至らしめた、殺人メニューのひとつだ。 エレインは目の前に置かれた、大皿の上のオムレツを覗き込む。白い湯気とともにたちのぼるのは、焼けたたまごとバター、そしてソースが絶妙にいりまじった香ばしく芳醇な匂いだ。黄色い小山から茶色いなだれがゆっくりと落ちる。溶けきれなかったトマトのかけらが、ソースから控えめに顔を出していた。 「美味しそう……」 二人の男が、これを食べて死んだ。その話を聞いてもなお、エレインは賛辞のため息をこぼさずにはいられない。 料理はおいしい食事を作るため、人間が編み出した知恵と技術の結晶だ。そして舌をうならせるような美味は、彼らが短い人生を謳歌するには必要不可欠なもの。そんな生きることと切っても切り離せない大切なものが、死を招く。 ミネルヴァの女が考案し、バンが再現して見せた凶器を前に、エレインは自分の中で一向に恐怖が湧いてこないことを不思議に思った。あたたかくて、美味しそうで、見目麗しい人殺しの道具を、エレインは食べたくて食べたくてしようがなかった。日ごろ小食なエレインにとって、御しがたいほどの強烈な食欲は新鮮だった。 たとえこれを一口食べた瞬間、命を落としてしまってもかまわない。この美しい毒を作ったのが彼であるなら。エレインは湯気の紗幕の向こうにいるバンを見上げた。この類まれな料理人兼元盗賊に、エレインは身も心も何もかもを預けてしまっていることを思い出しながら。 「『俺は死にたい、あんたの手で』」 美味しそうと呟いたきり、一向に食べださないエレインを見つめて、バンが再び口を開く。湯気が邪魔で、バンの紅い瞳に宿る心が見えづらい。 「全てを話し終えた女に、男はそう言って求愛しやがった。女はこう返した。自分の料理は適切に使えば死ぬことはない。それから女は、自分の手にキスするように男に言ったんだ」 今度こそ、この話はこれで終わりだ。 バンはエレインの手から食事用の匙を奪う。匙の先端はやわらかなたまごのドームに突き刺さり、すくいあげられた黄色い塊はドミグラスソースのベールをまとってバンの口に吸い込まれた。殺人メニューを咀嚼しながら、バンの紅い瞳がエレインの目をじっと見つめている。乱れた湯気の合間から覗く双眸は、安全だと訴えるようで、どこか危険にはらんだ挑発的な光を帯びている。 その眼差しに、最後のためらいを取り除かれたエレインはこう告げた。 「私にも、キスさせてくれる?」 口の中のものを嚥下して、毒見をすませたバンはほくそ笑む。 「残さず平らげてくれんならな」 食の細いエレインに、卵3つ分のオムレツが毒だとバンが知らないはずもないだろうに。 「せめて半分こしましょうよ」 「仰せのままに」 それが交渉成立の返事だった。バンの右手を匙ごと引き寄せたエレインは、筋張った手の甲に唇を落とす。卵一個半のオムレツと、エレインは戦う覚悟をした。 しいて言うなれば、愛という名の解毒剤がエレインの命を永らえさせるだろう。
「エレインっ、人前ではしたないまねはやめるんだ!」 「もう! 兄さんは邪魔しないで」 「バーン、豚の帽子亭の厨房の私物化は禁止な」 「新メニュー考案してんじゃんか、店ちょ~」 料理よりも熱々なカップルに、当てられる周囲こそ被害者である。
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