3本の斜線が、お行儀良く並ぶ。その隣にもう一本、手にした小石を幹に押しつけてゆっくりと線を描く。非力な妖精でもたやすく傷を残せるよう、わざわざ選んだ樹皮はやわらかかった。樹皮の内側を晒す傷跡は、遠目なら浮かび上がって見えるほど白い。 「……」 樹の肌をえぐり、浅くとも彫りこまれた一本の線。それを見つめて、エレインは息を落とした。 満足など、ない。 喜びも、ない。 漫然とすぎた一日と、降り積もる孤独を数える。明日もきっと、同じ日だ。明日の日暮れに、エレインはこの傷たちをまとめて打ち消す線を引くのだろう。 だが過去は消えない。兄を待つ空白の日々が、またひとつの塊になるだけだ。
あなたの傷を笑いましょう
バンの背中を追いかけて、たどりついた大樹の一角でエレインは息をつめた。忘れていた存在が、バンの目に触れてしまった不運を呪う。その光景を作り出したエレイン自身、とっさに言いつくろう言葉も出ない。人間ほど、妖精は嘘がうまくなかった。 「700年ってのは、マジだったんだな」 エレインの恥部を前に、バンはエレインを振り返らず呟く。ひとり言のような、淡々とした声音に、恐怖や嘲りは含まれていなかった。エレインは、バンの反応が不思議でならない。 大樹の幹一面に刻まれた傷跡は、不気味なはずだ。4本の斜線と横線が1本。そんな5本で一組の刻印がびっしりと、それこそ星の数ほど刻まれている。 「も、もう、百年はつけてないわ……」 「ってことは600年分かよ。そりゃ壮観だ」 自分でも狂気じみて見えるそれらを、バンはごと受け止めてしまう。彼の大らかさは、むしろエレインを閉口させた。 エレインが刻んだ傷を、バンはひと目でエレインの孤独の数と見抜いた。そこにエレインは驚き、同時に激しい羞恥を覚える。一刻も早く、人の機微に、とりわけマイナスの感情にさとい彼をこの場から引き離してしまわなければ。 「昔のことよ。つまらないでしょう」 とエレインはバンの肘のあたりを引っ張る。コケモモならもっと奥で見つかるわ、と「こちら側」に来た本来の目的で彼の気を引こうとしたがバンは動かない。それどころか、次に彼がとった行動はエレインを怯えさせた。 バンは幹の上の、一番真新しい(それでももう百年は前の)傷に指を這わせた。エレインはびくりと身をすくませる。まるで自分の体についた治りきらない傷に、直接触れられたかのような痛みが胸を突いた。 「バン……!」 「まぁ、待てって」 エレインの悲鳴のような訴えも、バンは取り合わない。エレインにとって一番目にしたくないものが、バンの目に晒され、触れられている。耐え難いこととまぶたを落としても、無数の傷たちは目に焼きついて離れない。 エレインの手によって傷だらけにされた大樹の幹は、かつての日々を思い出させる。バンのおかげで忘れかけていた日々は、彼がこの森を出て行くと同時に、エレインの元に帰ってくる日々でもあった。 一日1本。一年で365本。なら600年では?
思い出させないで、せめて、今だけは。
ささやかな願いも、聖女の身には赦されないのだろうか。エレインは口をきゅっと結んで俯く。いつの間にかドレスのひだをきつく握り締めた、自分の小さな拳が目に入った。 悲しみに浸るエレインを背後に、バンは足元にしゃがみこむ。すぐに立ち上がった彼の右手には、小石が握られていた。エレインが使っていた石よりずっと大きくて、握り心地の悪いゴツゴツとした石だ。その尖った先端を、バンは遠慮なく大樹の幹に突き立てる。エレインに比べてはるかに強い力で、彼は太くて長い斜線を樹皮に刻んだ。 「案外柔らけぇな」 石の先についた樹皮とコケの残骸を、バンは息を吹きつけて払う。再び、彼は石を幹に押しつけた。傷が2本になる。 「何してるの?」 「俺とお前の記録。せっかくだから残しとく」 バンの端的な説明に、エレインははっと目を丸くして傷を見つめた。 1本目の線は、バンがこの森に足を踏み入れた日のことだ。大樹の上で、初めてエレインと顔を合わせた。あの時受けた強烈な印象を表すように、大きく刻まれた線は樹皮に散らばる無数の線の中でも異彩を放っていた。 2本目の線は、裸の彼に水浴びを迫られた日のこと。3本目は二人で並んでコケモモを食べた日で、4本目は――。 「バ、バン?」 「んだよー、今更文句はなしだぜ」 「そうじゃなくて、多く、ない?」 エレインが口を挟んだのは、バンが並んだ4本の上に5本目の線を引いたあたりだ。バンがこの森に来てまだ4日目、しかし彼の手は止まらなかった。数が合わない。 戸惑うエレインに、ようやくバンが振り返る。彼の謎解きは、やはりシンプルだった。 「俺がお前を笑わせた数だよ」 これは俺のエールラベルコレクションを見てぇって言ったときの分。 こっちはアバディンエールのラベルのオッサンの話のときの分。 そんで次は――。 エレインの刻んだ600年分の傷は、万を数える。それに比べれば、バンとの4日間はあまりにも微々たる救いだ。目に見える形で、数として表してみるとなおのこと。 エレインのそんな過去に、バンは張り合っていた。エレインの孤独の数は変えられない、なら少しでも数の多いもので対抗しようというバンの無謀さに、途方もないその馬鹿馬鹿しさに、エレインは目頭を熱くするのを通り越し、噴出さずにはいられない。 エレインから漏れた小さな笑い声を、バンは聞き逃さなかった。 「もう1本追加な」 バンはニッと笑って、新しい傷を樹皮に加えた。エレインが刻んだそれより、ずっと太くて長い。エレインの「笑顔」は、アルモカの樹皮に深々と刻まれる。 バンが作る笑顔の記録は、その真逆のことをエレインに思い出させる。このアルモカの大樹の、最初の傷の記憶。兄を待つ日々を数えよう。そう決めたのは、寂しさに押しつぶされそうになる自分を励ますためだった。 まだ3日じゃない。 10日くらいなによ、明日になれば兄さんは帰ってくるわ。 一ヶ月なんて、一年なんて妖精族にとっては瞬きみたいなものでしょう、エレイン。 そう自分に言い聞かせるためのものだったはずだ。だが刻まれる傷の数が、兄と暮らした300年を超えた頃、エレインは自分に言い聞かせることをしなくなった。一日の終わりに、手は機械的に動くだけ。そして100年前のある日、エレインはとうとう気づいてしまった。兄はもう、戻らないのだと。 ならこの傷は何のためにあるのか。どうして自分はこんな無意味なことをしているのか。気晴らしか、それとも正気を保つためか。考え出したとたんに、600年分の傷痕がエレインの目に飛び込んできた。おびただしい数の「過去」を前に、エレインは悲鳴を飲み込んだ。
こんなの、まともじゃないわ!
エレインは、時を刻む手を止めた。そして100年後、彼に巡り会った。 「最っ初にツラ合わせた時のお前って、つまんねー顔してたよなぁ。ぶすーっとしててよ。蛮族がどーだの、永遠の命でイイコトなんか無かったらだの、つまんねーことばっか考えてっからだ」 「しょ、しょうがないじゃないっ」 バンが現れるまで、エレインにこの森で楽しいと感じることなどひとつもなかった。バンが来たから、全てが始まった。彼がエレインと正面から話をしてくれたことで、止まっていた時が動き出した。彼と知り合ってまだ4日しか経っていないことが信じられないほど、エレインの心はせわしなく動いていた。 それだけで充分すぎるほどだ。エレインはバンに感謝している。幸せをありがとうと、この恋を運んできてくれてありがとうと。 「足んねぇな」 これ以上何を、バンはエレインにもたらそうというのか。バンは大樹を見上げて呟いた。びっしりと刻まれた600年分の傷と並べたとき、4日間にわたるエレインの笑顔の数はとてもささやかで、けれどずっと眩い。しかし、バンは数にこだわった。 「増やすか」 振り返るなり、そう宣言したバンはエレインを捕まえる。油断しきっていたエレインは、たやすく彼にわき腹をくすぐらせる隙を与えていた。 「えっ、ちょ、バンっ、やだっ!」 「いいから笑え、ほらっ」 「やだって、やめっ、あはっ、あはは」 奪うことにはことのほか長けたバンの、腕の中に入ってしまえば逃げるのは至難の業だ。できないわけではなかったけれど、エレインはバンのなすがままくすぐられて身をよじる。二人して地面に倒れこんでも、バンは馬乗りになってエレインをくすぐり続ける。彼の足の下でエレインはじたばたと笑い転げた。 バンのくすぐり攻撃は、エレインがもう赦してと懇願するまで終わらなかった。 「10回分くれぇにはなったか」 笑いすぎて息も絶え絶えなエレインを見下ろして、バンはご満悦だ。さっそく起き上がって傷を残そうとする彼を、エレインは引き止めた。腕を掴む力はわずかだったけれど、バンはちゃんと気づいてエレインのそばに残ってくれる。 700年前の、兄は違った。エレインが泣いて止めても、彼は大切なもののために飛び立った。エレインが彼の中で劣っていたわけではない。兄にとっては、ヘルブラムも彼と共にさらわれた同族たちも、エレインと同じくらい大切だったから。誰も彼もが兄には大切な一番で、より危険にさらされた誰かのために兄は行かずにはいられなかったのだ。 何物にも代えがたい一番大切なものなら、エレインにだってある。あの時兄を襲った断腸の想いを、今ならわかってあげられた。 「エレイン?」 その一番大切な彼の、顔が滲んで歪んでいる。自分が泣いているのだと、エレインはこめかみを伝う涙の冷たさで気づいた。 「この傷はね……本当は……」 喉の奥が焼けるように痛くて、声が震える。それでも搾り出すように、エレインは700年越しの真実を口にした。 「兄さんに、見せつけてやりたかったの」 大切な妹と言いながら、自分を置いていってしまった彼に。まだ大切なものを知らなかったエレインが考えた、それは復讐だった。 「兄さんが、帰ってきたら……、ここに連れてきて、言ってやるつもりだった。私は兄さんのせいで……、こんなに、こんなにっ、さびしいおもいをしてたのよって……。それで、兄さんが、傷つけば良いって……っ」 100年前にやめたのは、兄はもう戻らないと悟ってしまったからだ。諦めに心が膝をついたからだ。まともじゃないかなんて、実のところはどうでもよかった。傷つける相手がいなくては、どんな復讐も無駄なことだと気づいてしまっただけだった。 「ひどいでしょう、私って……」 たったひとりの兄を案ずるどころか、傷つける算段を練っていた。最低な妹。なにが聖女だ、なにが妖精族の姫だ。本当の自分は、エレインが傷を刻んだ大樹の樹皮より、ずっとずっと醜い。 「バンには、見られたくなかったな」 バンが懸命に笑わせようとしている女の子は、笑顔なんて似合わない、不細工な存在だと知られたくなかった。その心根の醜さを白状した今、エレインの涙をせき止めるものはなにもない。 しゃくりあげるのが止まらない。バンがどんな顔をしているのかわからない。そこへ、エレインの髪を撫でる手が与えられる。エレインの不安を取り除くような、優しい手つきが、ますます涙をあふれさせた。 「かわいいもんだな、お前の復讐って」 エレインの懺悔を、バンは小さく笑い飛ばす。彼の口にした復讐の二文字が、彼に慰められる資格などないエレインの胸をきゅっと締め付けた。苦しい心を守るように、瞳の水の膜が厚くなる。彼の親指が、今にも落ちようとする涙をぬぐった。彼が奪った涙の分だけ、視界がほんの少しクリアになる。息が、楽になる。 頭上から落ちる、バンの声はどこまでも朗らかだった。 「俺が代わりに殴ってやるぜ? 700発でどうだ?」 一年一発換算は温情だと、涙の向こうで、バンが悪い笑顔を浮べている。 どうして彼は笑えるのだろう。彼を前にしていると、自分の中にわだかまる何もかもが奪われていくような気がする。寂しさも、哀しみも、虚しさも、涙や息苦しさ、喉の痛みさえ彼に取り上げられた挙句、残されるのは身軽になった心と、彼から与えられる真新しくも眩しい「何か」なのだ。 700発というひどい数に、エレインの意識はさらわれていた。ちょっと乱暴なところのある彼のこと、本気でやりかねない気がしてエレインの口元がほころぶ。そのかすかな笑みを、バンは見逃さずに大樹に刻む数にカウントした。彼の律儀さがおかしくて、やはり涙の波が引いていく。呼吸を整えながら、エレインはゆるゆると首を振った。 「兄さんが、死んじゃうわ」 「妖精の王なんだろ。強ぇんじゃねぇの」 いくら殴っても平気だろうというバンに、エレインはふるふると首を揺らす。また涙がこぼれたけれど、その分だけバンがはっきりと見えてくる。新しい涙は、すっかり止まっていた。 「魔力はすごいけど、他はてんでだめ」 兄を思い出してエレインは小さく笑う。しかし今度は、バンが今のはノーカンだと顔をしかめた。俺が笑わせたわけじゃないと、兄に嫉妬するようなバンにエレインはまた笑う。案の定、今度は俺の手柄だとバンは喜んだ。バンの見立てでは、兄はエレインの孤独の数を見せつけられるより、知らない男が可愛い妹を笑わせているほうがよっぽど腹立たしいとのことだ。 「お前も愉快で、兄貴に復讐もできて、万々歳じゃねーか。だからもっと笑え。もう泣くんじゃねーよ。お前が泣いたら、せっかく引いた線を消さなきゃなんねぇだろ」 そういわれた矢先に、涙腺が緩みだす。だがこれはバンの優しさに感応したうれし涙だ。悲しくはないから大丈夫。そう思うのに、バンは首を振った。 「それでもよ、お前に泣かれると俺が困んだよ。何でだかわかんねぇけど」
エレイン、笑え。 笑えよ、ほら、もっとだ。
再び滲み出した世界で、バンの優しい命令が降り注ぐ。バンの気持ちに応えたかった。とびっきりの笑顔を見せたかった。でも泣きすぎた瞼は重くて、きっと目の周りは腫れ上がっていて、鼻だって絶対真っ赤になっている。そんなひどい顔に、バンは笑えと、笑顔を見せろとせかしてくる。 エレインは口角を震わせた。持ち上げよう、笑おう、だって自分が笑えば、バンは喜んでくれる。 「いい顔だ」 泣いた顔のままで浮べた笑みは、とてもひどい。けれどバンの紅い瞳に映るそれは、彼女の生涯で一番の笑顔だった。
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