私たちはきっと鏡どうし。 触れ合うことに不慣れで、だからこそ求め合わずにはいられない。
賊の純真 聖女の強欲
その日は朝から雨が降っていた。 常春の妖精王の森に、晴天以外の空模様は珍しい。雨は花の父母と言うけれど生命の泉の加護を受けるこの森は、天候に左右されることなく成長を続けてきた。気の遠くなるような歳月を重ねて巨大に膨れ上がった妖精王の森は、それ自体がひとつの世界を成し、近隣にある人間の村や町が天災に襲われようとも平穏を保ち続けていた。 妖精王の森は妖精界と人間界を繋ぐ地。森の絶え間ない「春」は、同じく永久の春に抱かれた妖精界との繋がりを象徴している。ゆえにエレインが聖女となってからの700年間、いや兄・ハーレクインが森を守っていた時代から、曇天ならまだしもこの森で降る雨をエレインは一度も見ることはなかった。 初めて目の当たりにし肌で感じる雨に、エレインは不吉なものを感じる。自分一人の心に押し込めておくのが耐え難く、口に出してしまえば傍らのバンがエレインの言葉を拾った。 「俺のせいかね。さっさと出てけって、森が怒ってんのかも」 「それは違うわ」 バンの推測に、エレインの否定は間髪なく投げられる。 「この森は、あなたを受け入れたもの……」 生命の泉の杯を奪うという真っ当な(と言えば語弊のある)目的をもって侵入してきたバンを、森は阻むことなく大樹までたどり着かせた。また森は彼が求めれば日々の糧を与え、森全体で彼の生存を助けてもいる。雨がバンの存在を拒絶して降っているだなんてことはありえない、とエレインは首を振った。 妖精王の森が人間を守ると言う椿事が、森自身の大いなる意志によるものなのか、彼を手放しがたく想っている聖女の望みに影響を受けてのことなのか、エレインは深く考えることをしない。 「とりあえず、もっと濡れねえとこに移動すっか」 「だったら、良い場所があるの」 エレインの案内で、アルモカの大樹にできた大きな穴の中に二人は身を寄せる。雨は降りやむどころか強さを増すばかりで、ついに暗い雲の中でゴロゴロと不穏な音を響かせ始めた。雨が初めてなら雷も初めてなエレインは、空の怒りを連想させる轟音に肩をすくませる。バンは平然としているだけに、悪天候に対する二人の経験値の差は歴然だった。 「こりゃ当分おさまりそうもねぇな。今のうちに食うモン探してくっか」 「ま、待って……!」 立ち上がり、大樹の穴から出ようとするバンをエレインは引き留めた。切羽詰まって出してしまった声にエレインははっとし、ふり返ったバンもウサギのように紅い目を丸くしている。あまりにもはっきりと彼を引き留めてしまったことに、エレインはひどくはしたないと自分を責めた。 「そっか……」 彼は小さな体を一層小さくしているエレインをその目に映してひとりごちる。 「雨が初めてなら、そりゃ雷は怖ぇわな」 そう言うなりバンは、エレインの腕を掴んで穴の奥に引っ込んだ。雨の吹き込まない乾いた床に腰を下ろすと、伸ばした足の間にエレインの体を収めてしまう。いつぞや二人で眠りこんでしまった時のように、エレインを後ろから抱き込むと彼女の頭に顎を乗せた。 「俺はこの森ほど頼りになんねぇが。ま、我慢してくれ」 頭の上で彼が笑うのがわかる。雨や雷からエレインを守ると決めた、彼の心の動きにエレインは頬が熱くなった。我慢だなんて思うわけがない。雷雨の中、薄暗い穴に閉じ込められて、我慢を強いられているのは彼の方だと言うのに。 生命の泉の加護で食事をとらなくていいエレインと違い、バンは食べなければ空腹を感じる。バンの不幸な生い立ちを覗き見たエレインは、彼にとって飢えがどれほどの恐怖なのか知っていた。それなのにバンは、自分の恐怖よりもエレインを優先してここにいてくれる。 「ありがとう」 「ン? ああ、どういたしまして」 歌うように、また彼が笑う気配がする。バンが傍にいる。ただそれだけのことに、体中にまとわりついていた嫌な糸がほどけていく心地がした。 エレインは体の力をぬいて、バンの胸にもたれかかった。背中ごしに伝わるあたたかな体温、力強い鼓動。バンの胸とエレインの背中、腕と腕、脚と脚、触れ合うところから恐れや不安が吸い出されていく。 こんな風に誰かと肌を寄せ合うことを、エレインは経験したことがない。この世で唯一の特別だった兄とでさえ、手をつないだり頭を撫でられたことはあってもそれ以上の接触を持たなかった。人間の、しかも異性と、密着する日が来ようとは誰が想像できただろう。 エレインもバンも、一言も発しなかった。エレインはさておいてバンが沈黙を守っているのは珍しい。だが二人黙って雨の紗幕にきらめく雷光を眺めることに、エレインは退屈を感じない。きっとバンも同じで、だから彼は口を閉ざしたままなのだと、二人の想いが重なるひとときをエレインは堪能する。 恐ろしかったはずの、雨が遠く感じる。稲光も、思い出したように大樹の穴にいる二人を照らすだけだ。空の怒りのように思えた雷鳴ですら、バンの息づかいや鼓動が「怖くはないよ」とエレインに囁きかける。 もっと彼の音を聞いていたくて、エレインは身をよじってバンの胸に頬を寄せる。硬い胸板にやわな頬をこすりつければ、バンの脈動が速くなった。エレインを包んでいた四肢も、どことなくこわばっていくように感じる。 「バン?」 胸に触れたまま呼ぶと、バンはびくりと体を震わせた。 「どうかしたの?」 膂力の強い彼にしてみればエレインなど重い内に入らないが、それでも姿勢が辛いのだろうかと顔を上げてみれば不思議なものが目に入った。バンが、眉をひそめて困っている。 「……なんか、腹の底のほうがソワソワする」 「ソワソワ? 病気なの?」 「いや……、たぶん、違ぇ。ただ、お前が、触ってくると……特に」 バツが悪そうに、視線を明後日のほうに向ける彼の頬には赤みが差していた。もぞもぞと居心地のいい場所を探すのに苦労していても、どうしてだか抱きこんだエレインの体を離そうとしない。 そうしてバンに抱えられられているうちに、エレインは自分たちの距離が近すぎることを意識した。たがいの呼吸さえ触れる距離に、生まれながらに備わったエレインの能力が過敏に反応している。バンの心の鏡には、エレインが見てはいけないものが映っていた。 見てしまったのは、バン自身ですら掴みきれていない心の奥底にある欲望だった。その欲と同じものを、エレインはかつてバン以外の人間から読み取ったことがある。この森に悪意を持ちこむ、強欲な人間が思い描く悦楽。人間にとっては、命を繋ぐ以上に娯楽としての愉悦をもたらす行為。 「……バン……」 ケダモノじみた行為を伴う欲を、バンはエレインに抱いている。それなのに、彼への嫌悪感はちっともわかない。むしろ、恥ずかしさを自覚する前にエレインの頬が熱を持った。 「ちょっと、お前……、俺から離れたほうがいいかも」 「嫌よ、怖いわ。寒いし」 「ああ、そりゃ、そうか……うん」 バンは、自分を落ち着かなくさせるものの正体に気づいていない。けれどそれがエレインを害するものだとは察していて、二人が近すぎる現状に警戒心を抱いている。またしても、バンは自分の欲よりもエレインを優先する行動を選んでいた。賊のくせに、ちっとも賊らしくなく紳士的な彼にエレインの胸は高鳴る。 賊を名乗りながら、自分の欲しいものすらわからず、欲望の手綱もとれない姿は滑稽だ。だがそんな彼の幼さが、純真さがエレインの冷え切っていたはずの心を熱くするのだ。彼に肉体を望まれていることに、ときめいている自分をエレインは受け入れる。
あなたの欲しいものは私よ。
教えてあげたい。知ってほしい。エレインは自分の欲するがままにバンの手を取り、目立った凹凸のない胸に当てた。エレインの突飛な行動にバンはぎょっとしたけれど、逃げようとする手をエレインは必死で繋ぎとめる。 「エレ、イン……っ」 バンの、日頃低い声が上擦る。ここまでくれば、彼にも自分の中の衝動が何かわかったはずだ。 妖精族特有の未熟な体は、人間の女の成体が持つ柔らかさはない。だが肉が薄い分だけ、エレインの暴れ回る鼓動もバンに伝わりやすかった。 「いいのよ」 精一杯の優しさで囁く。望んでいいのだと、奪っていいのだと、彼を見上げる瞳に切なさを込めて訴える。バンの喉が、ごくりと鳴った。 特大の稲光と、バンがエレインの唇を奪う瞬間はほぼ同時だった。青白い光にチカチカと照らし出される世界で、二つの影が一つになって倒れ込む。 キスを解いて、エレインの上に覆いかぶさるバンの息は荒かった。ルビーのような瞳をカッと見開き、踏み越える一線を前に戸惑う彼の背中をエレインは押す。 「バンになら、何をされても嫌じゃないわ」 心からの言葉に、バンの顔が泣きそうに歪んだ。迷子の幼子が親を見つけた瞬間に見せるようなそれに、エレインは手を伸ばす。 自分たちはきっと似た者どうしだ。熱情を知らず、肌のぬくもりに疎く、触れ合うことに不慣れすぎた。そんな臆病者同士が触れ合うことを望んで、鏡を合わせるように無知な純真を寄せ合わせようとしている。豪雨に、雷鳴。ようやくたどり着いたこのひとときを、邪魔する者は現れようがなかった。 「エレイン」 稲妻が途切れ、闇が二人を包む。全てを委ねたエレインを、バンの熱い手のひらが抱きしめた。
エレインが目覚めた時、雨はあがっていた。妖精王の森は、おそらく初めての嵐の夜が幻であったかのように、いつもの静謐さを取り戻している。あちらこちらから、アルモカの葉ですら含みきれない嵐の名残が垂れ落ちるばかりだった。 いつものように起き上がろうとしたエレインは、自分の体にまとわりつく重みに気づいた。太くて長い、バンの腕がエレインを抱きかかえている。 エレインは裸だった。まだ目を閉じているバンも何も身に着けていなかった。あられもない姿に、とたんに昨夜のことが思い出されてエレインの頬を熱くする。 唇、手のひら、燃えるように火照った舌と、体中の肌という肌がゆうべのバンを覚えている。繋いだ部分からバンの存在が流れ込む、鮮烈なひととき。まるで奔流のような皮膚感覚はエレインを熱く震えさせ、頑なだったはずの内側までほどいていった。 妖精と人間。違う生き物であるはずの彼が、意識の奥、さらに奥深くにまで入り込みエレインを一色に染め上げる。
バン。
バン。
バン。
何度彼の名を呼んだだろう。呼んだつもりなのは自分だけで、本当は声になっていなかったかもしれない。けれど自分が呼んだ同じ数だけ、自分を呼ぶ彼の声もエレインの耳に残っていた。
エレイン。
エレイン。
エレイン。
彼の呼び声で、思考を根こそぎ奪われる間際に訪れた、痛み。その刹那、体の芯から、何かがとろりと溶け出した。妖精としてエレインは、これほど自分の肉体の存在をリアルに感じたことは初めてだった。自分の中にいるバンを感じることで、エレインは自分を知るに至る。 バンの逞しい肉体は、そうしてエレインの無垢を破った。共に果てる間際、バンの吐息が奏でた、力強い旋律がまだ耳の奥にこびりついている。 肉と骨と皮膚、そして血の流れを伴うバンのあたたかさに全身を包まれながら、エレインは眠る彼の心を想った。自分の肉体が、人間の成熟した女性にくらべて青いことは承知している。果たしてバンは、この体に満足してくれただろうか。 エレインの憂いは、覚醒したバンからの抱擁によって霧散した。力強い二本の腕が、エレインの、力加減を間違えればたやすく崩れてしまいそうな肢体を閉じ込める。絶妙な力加減でエレインの体を捉えたバンは、蜜色の髪に鼻先を埋め、耳たぶを声で撫でた。 「あったかくて、やわらけぇのな、お前」 感極まった溜息に、エレインの熱が暴れ出す。おまけに良い匂いがすると、バンはエレインの髪の中で鼻を鳴らした。そのまま頬や顎、首筋にまでキスを落されて、昨夜の記憶に引きずられた変な声が出そうになる。 「なぁ、エレイン」 少し掠れた、バンの声に頬の火照りがおさまらない。今、彼の顔を正面から見ることになったら、動悸のしすぎて死んでしまう気がした。 「生命の泉より、聖女を奪いたくなった……つったらどうする?」 まずは耳を舐める、ベルベットのような声の響きに肌が震える。遅れて理解したバンの言葉に、エレインの心が大きく震えた。そして絶句する。 生命の泉は不死を約束する秘宝。噂を聞きつけた多くの人間が神秘の杯を求め、それを守護する聖女を殺そうとした。短い命に囚われた人間にとって、不死の前ではエレインの命など塵芥に等しい。だからこそエレインも人の命に価値を見出さなかった。目には目を、森と聖女の命を軽視する者にはその者自身の命を持って贖わさせる。そういうものだと殺戮を正当化してきた700年だった。
そんなエレインにバンは、目の前の人間の男は何と言った? 生命の泉が約束する不死より、エレインが欲しいと、そう言わなかったか?
誰かに望まれることを願ったことはなかった。バンに奪われるなど、考えたこともなかった。考えることそれ自体を恐れ、やめていた。たった一度でも考えてしまえば、実現を望んでしまえば、もう自分自身の心に歯止めが効かないことをエレインはわかっていた。彼をどうにかしてこの森に、自分の傍に引き留め続けていられるか、やっきになっていたのもその裏返しだ。
もしかして!
ゆうべの嵐は、そのせいだったのか。バンを手放したくない。聖女にあるまじきエレインの〈強欲〉が、常春の妖精王の森に雨を呼び、雷を起こさせたのか。その上、肉欲をもって、快楽に弱い人間の性につけこんで、彼を縛り付けようとしたのなら何と浅ましいことか。 「だめよ……」 エレインは自分の使命を思い出そうとした。自分は生命の泉の聖女、兄から託された妖精王の森を守る義務があると、燦然と輝く錦の御旗を掲げて自らの〈強欲〉を抑え込もうとした。 エレインの役目を百も承知しているバンは、しかし、まるで彼に奪われたがっているエレインの本心を見たかのように譲らない。エレインを抱きしめたまま、うなじを舐めるように言い募った。 「お前がいなくなったら、妖精どもはまた別の聖女を立てるだけだろ」 正鵠を射た指摘はエレインの胸を刺す。バンの正しさの証はエレイン自身だ。 「俺に奪われてみねぇ? お前に話してやったモンも、まだ話してねぇのも、全部全部見せてやる」 バンは痛々しいほどに純粋に、愛情を欲している。それでいて、ありのままを受け入れられることに慣れていない。だからこそ、それを最初に与えてくれたエレインを求めていた。彼のその純真さに、弱さに、つけいることは簡単だ。 しきりに重ねられるバンの誘いに、エレインの心は大きく揺さぶられていた。本心を言えば、とっくにエレインの気持ちはバンの掌中にあった。この平穏で退屈な牢獄を飛び出して、義務も責任も、自分が何者であるかさえ投げ捨てて(つまりそれは戻らない兄との縁を断ち切ることだ)、彼を選びたい。バンと世界を見たい。 だが最後には、エレインは首を振らざるを得ない。森を出たことのないエレインの根深い恐怖と、逃れようのない妖精王の妹としての責任、そして戻ると誓った兄への思慕がエレインをがんじがらめにしていた。何よりも、浅ましい手段で自由な彼の心を縛り付けてしまったことへの悔悟が、自分一人の幸せを選ぶことを赦さない。 「できないわ……嬉しいけど……」 嬉しかった。彼に求められて、彼とひとつになって。エレインを奪う以上の〈強欲〉はないのだと、他でもない彼の口から聞かされて。けれど、その歓喜は少しも声に含まれてくれなかった。 「そっか……」 それがエレインからの最後通告と受け取ったのか、バンがため息をつく。するりと離れていく腕に、ぞっと肌が冷えた。 「頭、冷やしてくる」 脱ぎ散らかした服を手に、バンは大樹の穴から出て行こうとする。向けられた背中に、エレインは心が青ざめていくのを感じた。兄が出て行ってしまったあの日から、去り行く背中はエレインを恐怖のどん底に突き落とす。 「バン……!」 バンが二度と戻らない気がしてエレインは縋った。彼の誘いを拒んでおきながら、彼が自分を置いて飛び立つことが耐え難い。聖女の立場も、覚えたばかりの恋も、そのどちらも手に入れたがる〈強欲〉さにエレインはもう人間を見下すことができない。 エレインの声に、ふり返ったバンは怖い顔をしている。戻ってきたバンの手がエレインのむき出しの肩を掴む。握りつぶされそうな、強い力が痛かった。痛みに身をよじるエレインを、今までの優しさが嘘のようにバンは仮借ない力で虜にしようとする。 「だったら……!」 絞り出すような、喉から血を吐くような、声だった。 「引き留めんなら、俺のもんになれよ!」 森中に響き渡るような、悲痛な叫びだった。
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