私たちは鏡どうし。右が左に、左が右に。 それぞれの奥行きのある世界の中で、触れ合いたいともがいている。
賊の純真 聖女の強欲 in lastday
あれからエレインは、バンと口をきいていない。 「引き留めんなら、俺のもんになれよ!」 そう叫んだきり黙り込んだバンは、エレインが動けずにいる間にその恐ろしい形相をひっこめた。それからはつきものが落ちたような無表情のまま、エレインから離れていった。引き留めることも叶わず、エレインはこちらに振り返ろうともしない背中を呆然と見送った。 「…………」 熱情を分けあったはずの、アルモカの大樹の穴にエレインはひとり残される。彼が最初の言葉通り頭を冷やすために泉に入ったのだと、気づいたのは少し時間がたってからだ。彼女に寄り添うのは、バンに肩を掴まれたときにできてしまった赤い手形の痕だけ。 バンが水浴びを終えても、二人の隙間は残り続けた。ゆうべはこれ以上ないほど近くにあった二つの体は、生命の泉を前に、互いに手を伸ばしても届かない距離を保っている。 昼になっても、バンは妖精王の森を出ようとはしなかった。エレインが最も恐れていた展開は、とりあえずは先延ばしされている。それでも目を離せば彼が消えてしまう不安に、エレインはバンを視界の外に追いやることができない。バンもなぜだろうか、離れた場所からエレインを見つめている。ただ黙って見つめ合う、居心地の悪い沈黙が二人を繋いでいた。 ラベルの話をしましょう。 そう、何度エレインから声をかけようとしたかわからない。ラベルコレクションを縋るように抱えて、彼に口を開きかけたができなかった。 エレインは怖かった。バンが応えてくれないことではなく、その逆のことを恐れていた。 二人の間にある嫌な空気がささいなすれ違いによるものなら、きっとバンはエレインの求めに応えてくれる。話したがりの彼の、朗らかな声と共にこの落ち着かない距離はたちまち消え失せる。だがそうなれば、彼の心の声が否応なくエレインに流れ込むだろう。昨日の今日彼とひとつになった身で、妖精族の中でも優れたエレインの能力が過敏になっていた。エレインには、それがひどく恐ろしい。 ゆうべのことを、今朝のやりとりを、そしてこれからのことを、バンがどう思い、どう受け止め、どう考えているのか、知ってしまうのが怖かった。
バンが、いなくなったらどうしよう。
バンがもし、妖精王の森を出て行く決意を固めていたとしたら。エレインへのラベル語りが、彼の最後の優しさだとしたら。 バンの誘いを拒んでおきながら、いざそのことを考えるとエレインの胸が詰まる。小さな胸をいっぱいにする別れの予感は、エレインの涙腺を容赦なくつついた。 このままではバンの前で泣いてしまいそうで、そして二人の距離はエレインの泣き顔がバンに見えないほど遠いものではなくて、隠し通せない自分の覚悟のなさにますます情けなくなったエレインは、より多くの涙が込み上げてくる悪循環に陥っていく。 こんな自分勝手な涙は見せられない。背に腹は代えられなくなったエレインはバンから顔を背け、ふわふわと浮き上がってその場を後にした。ラベルコレクションは手から離さない、自分のあざとさをつくづく浅ましいと思いながら。 大切なラベルコレクションを置いて、バンがこの森を出て行くことはない。この本はエレインのたったひとつの保険だ。だがとても安い保障しかしてくれないことを、エレインはわかっている。彼はこの本に命をかける気はない。彼が本当に心を決めてしまえば、エレインが彼の何を人質に取ろうと無駄なのだ。エレインは、自分が縋るものの無力さを思い知る。 バンから十分に姿が見えなくなる茂みに、エレインは降り立つ。もう我慢ができなくなって、ラベルコレクションを抱きしめてエレインはその場にうずくまった。待ち構えていたように、涙の粒がぽろぽろと頬を伝う。せめて声だけはもらすまいと、エレインは嗚咽をかみ殺した。
バン……!
「泣いてんのか」 バンを想って流した涙だ。そこに、まさか彼の声がかけられるとは思わなかった。エレインは心臓が止まりそうになる。声の方に振り返れば、やはりバンが、気配もなくエレインを追いかけてきていた。 バンはどこか焦った無表情で、泣き顔のエレインを見下ろしている。二人の間にはまだ距離があった。バンの視線に耐えられず、顔を伏せたのはエレインの方だ。 「どっか、痛ぇのか」 どちらかが手を伸ばしたところで触れられない隔たりを、埋めようと動いたのはバンだった。生い茂る草を踏み分けて、バンが近づいてくる足音にエレインの頭に警鐘が鳴り響いた。これ以上の接近は危険だ。彼の心の声を、今は聞きたくない。 「来ないで!」 涙まじりの悲鳴に、バンがエレインの心の可聴範囲の外側で立ち止まった。ぎりぎりで保たれた平穏に、エレインはあからさまにほっと肩をなでおろす。その後ろ姿を目にした、バンの声色が変わった。 「泣くほど……嫌だったのかよ」 一言で言えば、不機嫌な声だった。もっと言葉を尽くすのなら、行き場のない感情を抱え込んだ切羽詰まった響きだった。 バンに背を向けたままの、エレインには彼の表情はわからない。そして彼が何をさして「嫌だったか」と尋ねているのかも、とっさにはわからなかった。ゆうべの行為か、彼に奪われると言う提案か、それとも彼がここに留まっていることか。だがそのどれだったとしても「嫌か」と問われればエレインの答えは否だ。 エレインは違うと伝えたくて全身でバンをふり返る。その差分、せっかく外側に推しとどめていたバンの心が、エレインの可聴域に収まってしまった。しまったと、思ったときにはもう手遅れだ。 だがいつまでたっても、エレインが聴くのを恐れていた言葉は届いてこない。代わりに響くのは、心細げなバンの胸中だ。
―― しくじっちまったか。 ―― 痛い思いをさせちまったか。 ―― 怖がらせちまったか。
バンの心には後悔があふれていて、けれどゆうべから今にいたるまでの何に対しても、エレインを拒絶したり否定する様子はなかった。
―― 初めてで、うまく、してやれなかった。
彼の心にあるもの、それは悔悟だ。エレインに苦痛を与えたかもしれないという、その一点だけに彼は拘り、焦っている。
―― 嫌われちまった。 ―― ちくしょう。どうすりゃいい。
バンはただひたすら、エレインのことを気遣っていた。彼女に疎まれることに怯えていた。彼女が憂い恐れていたことなど、彼は何一つ考えていなかった。
バン。 バン、バン……!
バンの誠意を心で聴いて、エレインの目からぽたぽたと涙が零れだす。とっさにバンの手が差し出され、エレインの頬に触れる間際で躊躇にわななく。逡巡の間にもとどまることなく流れるエレインの涙に、バンの目は釘付けになっている。 それから恐る恐る、彼の指は涙の筋を拭った。親指の先にまで彼の優しさが滲んでいるようで、ますますエレインの睫は涙の粒を滴らせる。 「痛ぇか?」 バンの別の手が、エレインの肩の痣を撫でる。エレインに引き留められ、頭に血が上った勢いで力任せにふるまってしまったことも、バンの後悔の一つだった。 エレインはゆるゆると首を振った。 「痛くて……泣いてるんじゃないわ……」 バンの手が、優しすぎて泣いているのだ。 「俺なんか、もう嫌いか?」 バンの口と心から、不安にまみれた声がこぼれる。その響きは、エレインが抱えていた恐れととてもよく似ている気がした。 自分たちは鏡どうし。右かと思えば左に動いて、左に行きたいのに右に進む。それでも、まっすぐ前に手を差し出せば、触れ合うことはできるはずだ。 エレインはバンに腕を伸ばした。自分よりずっと高いところにある顔に飛びつき、彼の唇めがけて顔を寄せる。それはエレインから、バンに捧げる初めてのキスだった。 「大好きよ」 唇を離してそう告げると、バンに強く抱きしめられた。彼は何も言わなかったけれど、よかったと、押し付けられた彼の心が叫んでいる。
―― 俺もお前が好きだ!
声にならないその声は、鳴り響く合鐘のごとくエレインを祝福した。
バンが、麓へと降りて行ったのは二時間ほど前のこと。エレインは、生命の泉の前で、ひとり彼の帰りを待っている。彼女の肩には、バンの上着がかかっていた。必ず戻るという約束のつもりか、ラベルコレクションの他にもうひとつ彼が彼女に残して行ったものだ。 バンの置き手形にくるまって、エレインはひとりほうっと息を吐く。彼の匂いに抱かれながら、思い返すのは彼が麓に赴く前のことだ。 「最初より……痛くなかった、かな……」 純情を捧げる二度目の行為は、初めてのそれとは違った意味でエレインに鮮烈な印象を残した。何せ明るい中でのことだったから、自分がバンに何をされバンの体がどうなっていくか、目を開けていれば次々と飛び込んできてしまう。雷雨に耳をふさがれ、闇に視界を閉ざされていたゆうべとは、恥ずかしさにおいてはくらぶべくもない。 何よりバンは優しかった。雷雨の中での行為は決してエレインを傷つけなかったけれど、それでも彼はより一層の慎重さでエレインに触れてきた。長い腕はエレインを閉じ込めるために作られたようであったし、尖った犬歯ですら彼女の皮膚をいたわりこそすれ傷つけはしなかった。これ以上望むべくもない優しさと幸福に満たされた熱情の中で、エレインは身も心ももみくちゃにされ、バンが与えてくる全てに溺れていく。 そうして一度開かれた体は、さらに深くバンを包み飲みこんだ。互いの芯と芯が、エレインの最深部で重なり合う。形の異なる二つの体は、反発することなく境目すらあいまいに絡み合った。エレインがバンに、バンがエレインに、混ざり合う感覚は二度とほどけない錯覚を呼び起こした。 今だけは、兄に帰ってきて欲しくない。バンの腕の中で、エレインは700年抱え続けてきた望みを放棄した。そうして思考をバン一色に染められ、高まった、彼によって高められたエレインの波動に森が呼応する。 バンは気づいていないようだったけれど、絡み合う二人の周囲に色とりどりの花が咲き、またたく間に種を結んで数え切れない綿毛を飛ばすのをエレインは見た。空に吸い上げられるように舞ったあの種たちは、バンとエレインの愛そのもの。その中のひとつを掴もうと伸ばしたエレインの手はバンの手に捕らえられ、種はエレインの指の間をすりぬけて遠い空へと飛び立っていった。見えなくなるまで見送っていたかった望みもまた、バンの熱情によって阻まれた。 やはり最後はバンの声が締めくくる。低い響きが、耳孔からエレインの内側に忍び入り、手では決して届かない場所をざわめかせてエレインを高みへと誘った。そうして終えた行為の余韻が、まだ今もエレインの体に残っている。 ひとり頬を染めて、またひとつ、ほうっと息をつく。そこにきて、エレインは不意に後ろから抱きかかえられた。 「バン?」 「おう、帰ったぜ」 音もなく戻ってきた彼に、エレインは2時間分の寂しさを補うように抱き付く。同じように抱きかえしてくれた彼は、エレインの髪に埋めた鼻をすんと鳴らした。 「花の匂いで勃っちまいそ……」 「たつ?」 「いーや、こっちの話」 「だめ。ちゃんと説明して」 胸を叩いて抗議すれば、キスで口をふさがれる。エレインを黙らせるための横暴なキスだが、効果は抜群だ。ただ唇と唇を、皮膚と皮膚の一部を重ね合せているだけなのに、頭の芯がぼうっと溶け出して彼のことしか考えられなくなる。気づけばエレインは体中の力を奪われて、彼にくったりと身を寄せていた。 そうして大人しくなったエレインに、キスを解いたバンが切り出したのはいきなりすぎる本題だった。 「ぶっちゃけた話、この森に長居すんのは無理だと思うんだわ。俺の性格的に」 突然の話題は、よりにもよってエレインが一番恐れていたことについてだった。あたたかかったはずの体から、すっと熱が引いていく。だが、バンは構うことなく話を進めた。 「んで、お前はこの森から出られねぇんだろ」 だから別れよう、という話なのだろうか。戦々恐々とするエレインにバンが示したのは真逆の案だった。 「だからよ、話を丸く収めんにはお前の兄貴探し出すしかねぇんじゃねぇかって」 エレインはこれ以上ないほど目を大きく、丸くした。700年前に消えた妖精王を、親友を追って森を出た兄を探す。途方もないアイディアに、当てはあるのかと疑えばバンが悪い笑みを見せた。彼が持ち出したのは、いつぞやジバゴから聞いたと言う200年前の妖精の遺体の話だった。 ある妖精の亡骸が、200年モノの逸品という触れ込みと共に地下のオークションで高値で取引された。耳の尖った、虫に似た美しい羽をもった少年のような姿だったという話に、エレインはヘルブラムを連想してぞっとする。思わず肩を抱いたエレインの、青ざめた顔に気づいたバンがさらにその上からエレインの肩を抱いた。 「まさか、お前の兄貴か?」 エレインはしきりに首を振る。バンは、端から遺体がエレインの兄である可能性を疑っていたらしかった。 「それはないわ。兄さんにもしものことがあれば、神樹が次の妖精王を選んでいるはずだもの」 「つまり次の適任者がいねぇか、神樹とやらがサボってるってことがなけりゃ、お前の兄貴は生きてんだな」 バンの出した例はそのどちらもありえない。少なくとも、エレインが知る限りは。 バンはふむ、と唸る。当てが外れてしまったにしては、彼の表情に暗いものはなかった。彼はこの時すでに、兄に繋がるヒントをもうひとつ持っていた。 「さっき麓の村の年寄り連中に、妖精について聞いて回ってみたんだがよ。別の町から越してきたばーさんが、おもしれぇネタを持ってやがった」 「おもしろい?」 「おとぎ話だ。500年間、人間を殺し続けた老兵がいて、そいつは人間に復讐を誓った妖精に魂を乗っ取られてたって筋書きの」 バンが問題にしたのは、その話の成立時期だった。その話をしてくれたのは100歳近い老婆で、その老婆が幼いころに、これまた100歳近かった曾祖母から「私が幼いころに本当にあった話」と聞かされたのだという。 「なんか、ピンと来ねぇ?」 エレインの兄の親友が人間にさらわれ、兄がその後を追ったのが700年前。500年にわたって人間を殺し続けた妖精の復讐物語が作られたのが、ほぼ200年前。そしてその物語の成立時期と同時代の、少年の姿をした妖精の亡骸。一見バラバラに見える事柄を繋ぐ、見えない糸をバンは指さした。 「ただの偶然かもしれねぇ。だが、無視するにゃ臭すぎるよな?」 自分の鼻を人差し指でトントンと叩いて、バンはあくどい笑みを深くする。獲物を前にしてキラキラときらめく彼の紅い瞳に、エレインは暗雲を切り裂いて降り注ぐ、太陽の光を見た思いがした。 「まずはその遺体からだ。お前の兄貴も、同族ならほっとかねぇだろ」 バンが一体いつ、エレインの兄探しを思い立ったのかはわからない。だが彼はすでに、兄へ繋がる濃厚な手がかりをその手に掴んでいた。蛇の道は蛇と彼はたわいなく笑うけれど、エレインには想像もつかない彼の才能に嘆息する。 エレインの胸に咲いた感動は、希望の種へと繋がっていく。今こうしてエレインを抱きかかえるこの賊なら、兄に、700年行方不明の妖精王にたどり着けるかもしれない。 「つーわけで、お前の兄貴について知ってること全部話せ」 バンがエレインの兄について知っていることと言えば、「泣き虫で素直じゃなくて、虚勢ばかり張る」気質のことだけ。それだけではたとえ兄に巡り合ったところで兄だと気づけるはずもない。名前はもちろん、容姿、服装、持ち物、口癖、能力、嗜好、なんでもいいとバンはエレインにヒントを求めた。 バンが見せた希望の光に、未だ胸がいっぱいのエレインはうまく舌が回らない。ただ口は動かずとも、彼女の心は目まぐるしく色を変えていた。暗い灰色は晴れた青空の色に塗りかえられ、そこに七色の虹がかかる。バンが色を塗った世界は、見果てぬほど広く輝いていた。 そして、エレインは勇気の一歩を踏み出す決意をする。バンを、この森の外に送り出す決意だ。彼と出会うまでの700年のような、兄の幻影に縋る生き方はもうやめる。彼が与えてくれた希望を信じて、胸を張って、誇りをもって、彼と、そして兄の帰りを待つ。 たとえバンが果たせなくても、彼は教えてくれた。妖精王の森は陸の孤島ではなく、果てしない色鮮やかな世界と繋がっているのだと。その先に兄がいるのだと、彼は信じさせてくれた。 「私の、兄さんは……」 誇りと共にエレインは口を開く。最も慕った兄の姿形を、最も恋しい彼に語るまさにその時、二人の傍らに赤い悪魔が降り立つとも知らぬまま。
私に勇気と誇りをくれた、純真な賊。 あなたに聖女の命をあげる。 あなたの心に居座ると決めた、私の<強欲>を添えて。
|