人助けをした。 馴染みの酒屋からの帰りだった。道すがら川で溺れている子どもを見かけ、水面から強奪してやっただけのことだ。 あくびをしながらの行為は、良いエールが手に入って機嫌が良かったからやったにすぎない。それなのに、子どもの親らしい若い夫婦からはひどく感謝された。 全身ずぶ濡れの子どもは親に抱きつき、親たちは濡れねずみの我が子を抱きしめる。彼らはとてもシアワセそうだった。
シアワセの風景
「何してるんだ、バン!」 野太い声は、いわゆる血相を欠いていた。バンの部屋に入るなり、怒鳴りつけてきたのは中年顔をした妖精族の同僚だった。 「血の匂いがするから確かめてみれば、何なんだいこの惨状は!」 「うるっせぇな、デブが。俺が俺の部屋で何しようが勝手だろぉ」 世話好きなのか単に口うるさいだけなのか、まるで監視するかのように四六時中つきまとってくるキングをバンは睨めつける。ろれつの回りきらない舌での反論は、口をつけたままの酒瓶の中でこもって響いた。 キングに顔を向けた拍子に、酔って平衡感覚の怪しいバンの長身が傾く。足元はぬかるんでいて、滑ったところをキングに抱えられた。彼の服がバンの肌とこすれて赤く汚れる。どろりとした暗い赤に、バンはハンッと哂った。 「ちょっと試してみただけだっつーの」 「試すって何を」 「死ねるかどうか」 バンの答えにキングが黙る。暑苦しい顔が部屋の内装へと向けられた。バンの不死身の体から飛び散った血で、室内は猟奇殺人の現場さながらの様相を呈している。 自分の血で彩られた、おどろおどろしい光景を前にバンは大きな口を上弦の月の形に裂いた。 「やっぱ死なねぇもんだなぁ!」 獄中の4年間、33回に渡ったバンの死刑は33通りの方法で行われた。そのすべてを生き延びたのだから、今更ちょっとやそっと自分で自分の体を切り刻んでみたところで死ねるはずもない。 キングは何も言わない。どうせ呆れて二の句が告げないに決まっていた。 キングにもたれかかって、バンはへらへらと笑う。すると、場違いな匂いが鼻についた。バンの血の匂いともアルコールとも違う、甘い花の芳香だ。その出所が、年がら年中、おっさん特有の汗臭さをただよわせる同僚の体だと気づけば、バンは道理の通らなさに顔をしかめた。 「おっさんのクセに花くせぇぞ、てめぇ」 素面ならきっと嗅ごうとも思わないキングの、ほのかな甘さにバンは鼻をひくつかせる。やはり甘い。花の名前に疎いバンの記憶にも残る、秋口に咲く、小さなオレンジ色の花からただようそれによく似ていた。 「妖精族ってのは、男も女もそうなのかよぉ」 「まぁ、だいたいは……って、キミさ」 すんすんを鼻を鳴らし続けるバンに、居心地悪そうにしていたキングが怪訝の色を浮かべた。 「あン?」 「妖精族の女性と、お近づきになったことがあるみたいな言い様だね」 ひそめられた眉に疑り深い眼差し、そこに添えられた低い声音のおかげで、キングのむさくるしい顔がさらにむさくるしさを増す。険しい表情のまま、キングは妖精族の気質について敷衍を始めた。 キングが属する妖精族は、他種族への警戒心が強いのだそうだ。特に女性は多くが慎ましやかで奥ゆかしい。そんな古式ゆかしい妖精族の女性が、特に警戒心を抱くのは人間の男だった。妖精王の森、強いては生命の泉をめぐるいざこざが、彼女らの人間不信をあおっている。 「まかり間違っても、キミって妖精に好かれるタイプじゃなさそうなのに。いったいどこで知り合ったの?」 キングの問いに、バンは答えない。ただぼーっと、間近に迫った妖精族を名乗る中年男の顔を見ていた。まるで彼からの質問の意味を、頭に通すのを拒むように。 そんなバンの沈黙を極度に弱いアルコールのせいだと思ったのか、キングははやばやとこの話題でのまともな応答を諦めた。代わりに、酔ったバンにもわかるような卑近な問題に話を戻す。 「ねぇ、バン。どうして、こんなことしたの」 小さな迷子に親のヒントを尋ねるように、優しく。常日頃から歳の割には幼児性のあるバンが、酒が入るとその傾向をとみに強く表に出すことをキングは知っている。 「シアワセに、なりてーんだ」 キングの穏やかな問いかけに、今度はバンも反応を示す。自分でも驚くほど素直な語り口は、バンの耳にも幼く聞こえた。しかしその答えでは要領を得ないのか、キングはますます首を傾げる。 「死のうとすることと、何の関係が?」 サッパリわからないと言いたげな、キングの表情の向こうにバンが昼間見た光景が浮かび上がる。 「ガキをたすけた」 何気ない理由で。道義心なんてかけらも持ち合わせていなかった。それなのに、川で溺れている子どもを強奪した気まぐれが、バンに見せたのはシアワセな景色だった。 命拾いしたわが子を泣きながら抱きしめる母親。固く抱き合う家族を穏やかに包み、バンに頭を下げた父親。そして、小さな手足を伸ばして、叫べるだけの声で彼らを呼んで、全身で甘える幼い子ども。 絵に描いたような、家族の風景がそこにあった。 「いいことをしたじゃないか」 「んなわけあるか。さいあくだぜ」 あそこに混ざりたい。 胸糞悪くてたまらなかったのは、そんな淡い想いがバンの胸によぎったからだ。おかげで、上々だった機嫌は下降線をたどり、部屋に着くころには爆発寸前。とうとう自分で自分を痛めつけ、部屋を血まみれにする愚行にバンを走らせた。 あの風景に、自分はとけ込めない。あの家族のような父親にも、子どもにもなれないことをバンは知っている。満身創痍で血しぶきを上げる中、バンの声にならない声が二つの名前を呼んでいた。
ジバゴ。 エレイン。 死ねば生まれ変われるだろうか、愛される人間に。死ねば会えるだろうか、こんな自分を愛して、父親にしてくれたかもしれない彼女に。 バンに夢の片鱗を与えた彼らは、どちらもバンの傍にはいない。 「いきたいばしょがあんだよ」 彼の消息は不明だ。ならせめて、彼女のもとへ。 「おれのシアワセは、そこにしかねーんだよ」 カカッとバンは笑う。血まみれになった部屋で酒に溺れて、傷ひとつないバンは崩れるように眠りに落ちた。
キングは眠り込んだバンの体を、比較的被害の少ないソファへと横たえた。高いびきをかく、子どもじみた同僚を見下ろして溜息が出るのも仕方がないだろう。 「やりたい放題して、言いたいだけ言って寝るなんて……」 キングは改めて、バンが無茶苦茶にしてしまった室内を見回す。これだけ大量の血をぬぐうのに、いったいどれだけの手間と時間がかかるのか。不死身だからか知らないが、死んでみたいだなんて酔狂でここまでやられてはたまらない。このひどい有様を片付けるハメになるメイドたちに、キングは心底同情した。 のんきに高いびきをかくバンを振り返れば、怒りと徒労感が同時にわきおこってくる。そして、彼がこんな馬鹿げたことをしでかした原因に思いをはせた。 『シアワセに、なりてーんだ』 幸せ。 この言葉をかたちどる、バンの発音はひどくいとけない。まるで口にしなれない外国語のようだ。そのせいか、バンが拙く紡いだ願いは、キングの琴線をも爪弾いてくる。 「幸せ、か……」 ポンッと音を立てて、キングが戻ったのは本来の幼い姿だ。神器を抱きしめて、血しぶきで彩られた部屋でキングはディアンヌのことを想った。 キングが守り、慈しみ、幸せを祈って記憶を消した彼女が、どうして<嫉妬の罪>を背負うにいたったのかはわからない。だが少なくとも今の彼女は幸せそうにしている。たとえ彼女がメリオダスを想っていようと、笑っていてくれるのならそれはキングにとっての幸せであると言える。 そしてその微笑みがキングの幸せにつながる、そんな存在がキングにはもうひとりいた。 「エレイン……」 妹は妖精王の森で幸せでいるだろうか。王たる自分が去ってから、もう700年近い月日が流れていた。顔を見に行く資格も、戻る資格もない兄だけれど、せめて遠い空の下で彼女の幸せを祈ることくらいは赦されていいはずだ。 キングはちらりと、バンに目を向ける。この<強欲>な男は、自分以外の誰かの幸せを願う気持ちに縁などないに決まっていた。今だって、幸せになりたいと嘯きながら、人に多大な迷惑をかけて眠りこけている。枕元まで降りて、キングはいびきをかいてゆれる頭をつま先でつついた。 「どうせまた、眉唾物のお宝話でも聞きつけたんだろ」 死んでまで行きたい場所だなんて、彼が思い詰めるならよほどの秘宝なのだろう。彼の手癖の悪さには慣れつつあったが、人間離れした破天荒さにはいまだ振り回されっぱなしだ。 「本当に、世話のかかる奴だよ」 まるで大きな弟だ。見た目だけなら自分よりずっと立派なバンに、キングはいわれのない責任感のような、気味の悪い庇護欲のようなものを抱きつつある。もしこの場に親友が居合わせていたら、「お兄ちゃん風を吹かせたいだけではないのかにィ?」とからかったことだろう。 実の妹はしっかり者で、ヘルブラムに言わせればどちらが兄で妹かわからない。その彼女と離れ離れになってしまった今、彼女の10分の1のかわいげも持たないバンに世話を焼いてしまっているのは、ずいぶんと遠まわしな罪滅ぼしだろうか。妹にしてやりたくてもできなかったことを彼にすることで、彼女と同じ場所にいられない現実をごまかそうとしているのか。 そうだとしても。たとえ、自己満足でしかなかったとしても、妹の幸せを願う気持ちに嘘はなかった。 「キミの幸せがオイラの幸せだよ。エレイン」 キングの幸せは「行きたい場所がある」とあがく、バンの幸せとはまるで違う。安全で平穏な妖精王の森で、妹がたくさんの仲間たちと穏やかに過ごしてくれることがキングの望みだ。 バンの戯言によって思い出された、妹への愛情を抱いてキングは宙をくるりと回る。そうして真下に見えたひどい寝息の男に、キングは苦笑いとともにささやいた。 「幸せの形は、いろいろだよね」 眠る不死者に、せめて幸福な夢が訪れるように。「そこにしかない」という、彼の「シアワセ」の在り処にたどりつく夢が見られるように。キングはもうしばらくだけ、メイドを呼ぶのを遅らせようと思った。
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