春の叫び ― バン×エレイン

※Special Thaks to たお様
※例によって例のごとく、作中に登場する料理、食材、動植物につきまして特別な時代考証などは行っておりません(つまり存在しないかもしれないものがいっぱい)。




 エレインを抱きしめるとき、バンは世界中どこを探してもお目にかかれないほどの、至福の男に生まれ変わる。
 うかつに力加減も間違えられない、細い腰に腕を回して、バンは愛しい妖精の胸にすがる。限りなく小さな、しかし確かに存在する二つの膨らみを求めて、尖った鼻先をこすりつけた。そうして探し当てた柔らかさに、鼻腔を膨らませて彼女の匂いで肺を満たす。花の香りにも似た彼女の甘さは、エールよりも強くバンの酩酊を誘い、湧き上がる恍惚に頭蓋骨の内側が溶けていった。
 ふん、とも、うん、ともつかない、ため息がバンの口から押し出される。エレインの香りを吐き出すのが、もったいないといわんばかりの重い吐息が、彼女の胸元を熱く湿らせた。
 ふふふ。
 蝶が羽を揺らすような、ささやかな気配にバンは伏せていた瞼をこじ開けた。顔の半分を沈めた胸の上から、彼女の微笑みがバンに降り注ぐ。慎ましく、典雅な唇の曲線が、春に訪れるツバメの尾に見えた。顎のラインにそってさらりと流れる金色の髪が、雲を裂き、天上から地上に降りた光の梯子を思わせる。ひと房垂れたバンの前髪を揺らす息は、あたたかな夕暮れ時に咲くジャスミンの花びらを彷彿とさせた。
 この世の春をその身に映した、エレインの眼差しは柔らかい。彼女は優しく、バンの髪を撫でた。彼女の指をすり抜ける髪が、溶けかけた雪のようにキラキラと銀色に光る。自分のものとは思えない姿を、バンは彼女の瞳ごしに見た。
 エレイン。
 わが身に訪れた、春の名をバンは呼ぶ。応えてくれる彼女の声に、恍惚を感じずにいられなかった。



 春の叫び



 その日は朝から<豚の帽子>亭は大賑わいだった。深かった山の根雪がとけ、冬の間通行が禁じられていた街道がようやく使えるようになったからだ。雪に閉ざされていた門は開け放たれ、遠方各地からの物と人がリオネスに向けてどっと流れ込んでくる。王都の玄関先に居を構えた<豚の帽子>亭では、長旅に一息つきたい行商人の波が途切れずにいた。
 春だ。
 春が来た。
 まだ雪が残る北や東の商人から見れば、暖かな海辺が近いリオネスはまさに春の宝庫だった。空を飛び交う鳥の種類さえ違って見える。冷たい雪の下で、じっと耐え忍んできた鬱憤を晴らすかのように、植物たちも春の陽気に生まれたての枝葉を伸ばしていた。世界がそんなわけだから、春の恵みを誰よりも享受している人間たちが、鳥や植物に倣って羽目を外すのも仕方がない。心だけでなく財布の紐まで緩みきった客のおかげで、<豚の帽子>亭は大流行(おおはや)りだった。
「バーン、新メニュー三つ追加ー!」
「あいよ、店ちょ!」
 そもそもが酒場である<豚の帽子>亭が、繁盛するということは料理番が忙しいということだ。メリオダスからの追加注文に応えながら、バンは振り向きざまにディアンヌから寄越された注文を皿に盛る。さきほどエリザベスから注文を受けた鍋の中身も、脇でコトコトと蓋を揺らして仕上がりを待っていた。人もテーブルも厨房も、<豚の帽子>亭は隅から隅までフル回転している。
 いくら立地が良いとは言え、王都の側にも酒場や食事処はたくさんにある。それでも人々がとんがり帽子の小さな店を目指すのにはわけがあった。エールの人気はもちろん高い。だが何よりも人々をひきつけるのは、この時季の<豚の帽子>亭のメニューが、その豊富さで他の追従を赦さなかったからだ。店の外まで広げられた、テーブルを埋め尽くす料理を見ればそれがわかる。
 青パパイアのサラダの横にはムール貝のエール煮が並び、ニシンのパイ包みはテーブルに乗せられるなり、四方から伸びた手にあっという間に平らげられてしまった。ラディッシュとグレープフルーツのマリネに舌と腹の準備運動を終えた客が、ベーコンとカブのポトフをかきこんでいる。その脇では、メバルのハーブ焼きが香ばしい湯気と共に次の順番を待っていた。
 焼きチキンに新鮮なクレソンとエシャレットを添えて。新たまねぎと春キャベツのスープ。そら豆のキッシュにはタンポポを飾って。注文された端から、皿は舐めたように綺麗になった。締めのライスプディングのてっぺんには、真っ赤なイチゴが、クッションの上に鎮座するルビーもかくやという風情で光っている。
 所狭しと並ぶどの料理を口にしても、舌にひろがる清清しさは等しかった。食べても食べても、まだ食べたりない。
「ポトフはまだか!」
「肉を追加だ。じゃんじゃん持ってこい!」
 この日ばかりは、エールは主役の座を料理に譲る。酒場は家庭料理の店(ホームレストラン)に業種変更を余儀なくされていた。
 次々と注文され、バンの手で作られる料理は、飢えた客たち胃袋にたちまち吸い込まれた。彼らは長い長い冬を、保存用の食糧だけでしのいできた。フォークに刺さるレタスの水音、噛みしめた肉から鼻に抜けるスパイスの香りに至るまで、口に運ぶすべてのものに彼らは芽吹き生い茂ろうとする命の力を感じ取るのだ。
 <豚の帽子>亭の長く連なるメニューは、そうして長旅に疲れた行商人たちを癒すだけでなく、舌の肥えたリオネスの住人をも唸らせる。眉間に消えない皺を掘り込んだ堅物の王国聖騎士であっても、ひとくち食べればたちまち相好を崩す魔力がどの皿にも込められていた。
 人混みは噂を呼び、噂はさらなる人を呼ぶ。料理の匂いと賑やかさは、春風に乗ってリオネス中に<豚の帽子>亭の美味を知らしめた。
「ポトフはちっと時間が要るぜ?」
「どーせまだまだ注文が来るから、遠慮なく作っちまえ」
「あいよ、店ちょ」
 バンがこれほど存分に腕をふるえるのも、山開きで旬の食材がふんだんに手に入るところが大きい。雪を避けて迂回していればダメになっていた野菜や魚介類も、この季節なら山の交易路を使って鮮度を損なう前にリオネスにたどり着けた。そして店の厨房で、彼らは生まれ変わる。
 <豚の帽子>亭に訪れた人々は実感する。春の報せとは、店の外に咲くクロッカスの花やツグミのさえずりによってもたらされるものではないことを。パンケーキにたっぷりとかけられたメープルシロップのきらめきに、ケイパーソースから顔をのぞかせる子羊の炙り肉の香ばしさに、添えられたタンポポと同色のキッシュに詰まったそら豆の青臭さの中にこそ、この世の春が詰まっていた。
「蜂蜜とじゃがいもが切れてんぞ!」
「わかってるよ、すぐ持ってく!」
 瞬く間に消費されていく食材の補充に、店の裏では仕入れ担当のキングが駆けずり回っている。日ごろはおっとり刀の妖精王も、この繁盛ぶりに怠惰ではいられない。海千山千の商人たちと付き合ううちに、一種族の王とは信じられないほど値引き交渉が板についてきた。おまけに客の注文の先読みもできるものだから、バンが指示した以上の食材を手配しては、厨房を回すのに一役買っていた。
「はい、蜂蜜とじゃがいも。にんにくとルッコラがいい匂いだよ」
 彼がそう言って食糧庫を開いたとたん、狙い済ましたかのようにルッコラとじゃがいものサラダ、そしてにんにくベースのパスタの注文が立て続けに飛び込んだ。得意げに笑う彼のひ弱な肩を小突いてやれば、小さな体はジャガイモの山に尻餅をついた。
「ったく、目が回るぜ。他に店はねーのかってんだ」
「そういう割には、楽しそうにしてるくせに」
「うるっせ」
 軽口を叩くヒマも惜しんで、厨房に戻るとこなした注文の倍以上の注文がバンを待ち構えていた。決められた時間で、いくつもの料理を同時に、そして最高のタイミングで給仕に託す。状況が切迫すればするほど、段取りをつけるバンの頭の回転が速度を増した。
 キングの言うとおり、バンはこの忙しさを楽しんでいた。喧騒の中で、遮二無二なって、料理を作る。包丁とフライパンと塩コショウと炎の強さが、バンの世界のすべてになる。この瞬間、<豚の帽子>亭の厨房は、バンの戦場であると同時にバンを王に戴く城になった。どこになにがあって、それをどうすれば旨い飯が作れるのか、バンはこの小さな世界の神のごとく、そこにあるもの全てを知り尽くしていた。
「サラダお待ち! パスタもすぐだ」
 頭の中も、目に映るものも、料理の名前と食材、道具のことでいっぱいにしたバンが、ぴたりと手を止めたのはその時だ。握ったトマトの向こうに、明るい緑色のスカートがひらめいていた。
 白いエプロンとスプリンググリーンの対比が慎ましい、膝下丈のフレアスカートは、ピンクのへそ出しミニスカートな<豚の帽子>亭の制服とは一線を画す。今は休業中の<麗しき暴食>亭の制服を身につけている女性は、この店ではひとりだけだ。妖精王の実妹にして、妖精王の森の聖女が、ふわふわとテーブルの間を低く飛んでいた。
 エレインがひとり違う店の制服を身につけているのは、第一に彼女自身が<豚の帽子>亭の制服の露出の多さをためらったからだ。太もも露なミニスカートなんてとんでもないと、顔を真っ赤にして首を振る彼女をバンとキングが擁護した。実兄が妹の露出を嫌がるのは当然として、彼女のスカートの内側事情を知るバンとしても彼女に味方するしかなかった。
 ひとり色もスタイルも違うエレインは、店の料理を運ばない。彼女が客から受けるのは酒の注文に限られた。<麗しき暴食>亭のグリーンはエレインの色であると同時に、そこらの酒通も真っ青なエールソムリエールの目印になっていた。
 バンの料理に、疲れもすっかりとろかされたいかつい豪商の一人が彼女を呼び止める。
「緑のお嬢ちゃん、この料理に合うエールをおくれよ」
「カブのソテーね。この時季のカブはとっても甘いから、苦味の強いゴブリンエールなんてどうかしら」
 すらすらと答える彼女の高い声がバンの耳まで届く。明るく、瑞々しい、ライスプディングに乗せたいちごのように、甘酸っぱいその響きは彼女だけのものだ。
 その瞬間、バンは料理のためにしていた活動を全て止めて立ち尽くした。料理の段取りも、注文をせっつく声も、愛らしいソムリエールの提案にアルコール以上にご機嫌にさせられた客の笑顔さえ、バンの世界から遠のいた。
「ああ、今か。今なのか」
 声も半ばに、バンは厨房を飛び出した。
 つくりかけの料理や、並んだ伝票の合間に足を置いてバンは立ち上がる。カウンターに仁王立ちするシェフの姿に、騒々しかった店内が水を打ったように静まり返った。
「バン?」
 メリオダスの声が、しんとした店内に落ちた。店中の視線を引きずったまま、バンは一言も応えることなく厨房からの脱獄を果たす。ウェイトレスや仕入れ係さえ唖然とする中、彼は狩りをする狐の素早さで愛しいソムリエールの元に駆け寄った。
 注文を受ける手を止めた、エレインもまたバンの動向に驚いていた。床からつま先を少し浮かせて宙にただよう彼女の足のまわりには、日の当たり方によってはまだ青いシトロンのように、明るい緑のスカートが揺れている。それがまるで高い塔のてっぺんにぶら下げられ、苔むした合鐘(カリヨン)に見えてしまったバンは、もうわが身に宿った衝動を止めることができなかった。
「結婚してくれ」
 バンは言った。同時に白いエプロンに守られた、彼女の華奢な腰を腕に抱いて。祝福のグリーンの鐘は、バンの体に沿ってひらめいている。音の鳴らないこの鐘は、自分のためだけに存在すべきなのだと、バンは抱きしめた小さな体に確信を抱いた。
「なぁ、エレイン。俺のモンになってくれ」
 抱き上げた彼女からは、甘い匂いがした。彼女だけのラベンダーは、店を満たすどんな春の匂いよりもはっきりとバンの鼻に届いた。近寄ればいつだって香るその優しい匂いに、バンは寂しがりやな心を満たされてきたのだ。だが今は、彼女の返事を、それもバンの求愛を受け入れる答えを得られなければ、彼はとても満足できそうにない。
 仕事を放り出した恋人に抱えられ、プロポーズを受けたエレインは目を丸くしている。もともとくりくりとした蜂蜜色の瞳は、これ以上ないほど見開かれていたし、長いまつげはぱちぱちと瞬きを繰り返している。
 やがて雪のように白い頬にスイートピーもかくやと思うほどの赤みが差し、大きな瞳には抑えきれない喜びがキラキラと輝いた。蛹から蝶が広げた羽にも似た、柔和な微笑みに彼女の顔全体が晴れ渡る。
「エレイン、返事は?」
 彼女の表情の変化もそっちのけで、バンは尋ねた。注文がほら、こんなに溜まってるんだ。日ごろの不真面目が嘘のように、彼は忙しさを武器に使った。
 忙しいのはエレインも同じだ。薦めたゴブリンエールだって、彼女はこれから酒蔵にまで取りに行かなければならない。見守る店長も従業員も、飢えた胃袋を一刻も早く満たしたい客たちも、誰もが訪れたばかりの春の時間を惜しんでいた。
 一刻も早く幸せを掴まなければ、ブリタニアの春はあっという間に去ってしまう。せっつくバンに、エレインは愛しげに彼の首に腕を回した。
 ますます強くなる香りの中で、バンは望んだ答えを聞く。
「もちろん、イエスよ」
 <豚の帽子>亭の内と外で、喝采が沸き起こる。衆人環視のプロポーズに、誰もがはやし立てた。キングですら、ディアンヌと目を合わせて微笑まずにはいられない。メリオダスの傍らでは、熱烈な求愛とセクハラにエリザベスが頬赤らめていた。
「おめでとう!」
 祝福のコールが鳴り止まぬ中、幸せの形をその腕に捕らえたバンは悠々と厨房に引き返した。その間、春の芽吹きを宿した萌黄のスカートは、バンの腕からこぼれてふわふわと揺れる。音のならない小さな合鐘が、二人の新しい門出にその身を震わせているかのようだ。
 店でたったひとりのソムリエールは、料理番の城に匿われる。ゴブリンエールがテーブルに届かなくても、客が怒り出すことはないのだろう。

 春が来た。
 リオネスに、<豚の帽子>亭に、そして幸福な恋人たちに、どの季節より眩い春が来た。
 




あとがき(反転)
単行本派のため、暴食亭制服のカラーリングはたおさまのイラストを参考にしました。ご快諾とご協力に感謝。
作品はO.ヘンリー「多忙な株式仲買人のロマンス」のオマージュ。本家の方がラストにひとひねり効いています。
春だし、エレインの誕生日だし、バンからのプロポーズがプレゼントということで。 Happy Birthday, Elain!

2016年3月14日掲載
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