心臓にタトゥー
「へぇ、いいじゃんいいじゃん」 自分の姿に首をめぐらせて、バンは歓喜の声を上げる。明るい表情に、エレインも微笑んだ。生命の泉のほとり、草の上で腰を下ろした彼女の視線の先には青色の上着を羽織ったバンがいる。 パンジーブルーのその上着は、エレインからの贈り物だ。残念なのはズボンのクロムイエローが上着のブルーと喧嘩をしていること。けれど、バンが望むのなら下も揃えてあげれば良い。工程が面倒な人間の服と違って、妖精族の服は花びらや葉を魔力で紡ぐものだから、どんな要望でもカスタマイズは自由だった。 「気に入ってもらえてよかった」 「おう。軽くて動きやすい。意外と丈夫そうだな。これなら盗みに困らねぇ」 彼が衣類に求めるポイントに、エレインはバンの本職を思い出して眉を顰める。彼と出会ってから、ずっと服の丈が足りていないことが気になっていた。さらにこれが一張羅だと聞いてしまってはほうっておけない。せっかく裄も丈もぴったりに仕立ててあげたのに、一も二もなく悪い仕事のことを考えるのはやめてほしかった。 「泥棒はだめよ」 「ならどうやって食ってけってんだ?」 エレインの嗜めもどこ吹く風。腕を回してバンは服をなじませている。仕事のことを考えて、遠くの空を見やる彼の姿はエレインの心に隙間風を吹かせた。 この瞬間、彼の心は妖精王の森を飛び立ち、森の外に点在する人間の町に降り立っている。エレインの知らない場所で、エレインの知らない誰かの家に盗みに入り、今日を生きて明日を目指す。それが彼の生き方と、エレインはわかっていた。 「ここにいたら?」 彼が夢中になる現実に、エレインの影はなかった。わかっている。けれど同じ頭で、エレインは真逆のことを夢想する。 「ここなら、盗まなくたって食べていけるわ」 人間が食べられる果実も、虫もある。どうしてもというのなら、森の動物を必要なだけ狩ることも赦してあげる。服が欲しいのなら作ってあげる。生命の泉だけはダメだけれど、他のものなら彼が欲しいだけ与えていい。その中のひとつに、エレイン自身が含まれてくれれば願ったり叶ったりだ。 いつにないエレインの様子に、バンは驚いていた。彼をこの森に引き止めるような言動を、エレインはずっと抑えていたのだから無理もない。彼は、苦笑いを浮べた。複雑で曖昧な、彼の表情の変化が、彼の答えだと知ってエレインは俯いた。 バンはいずれ、人間の世界に戻っていく。彼の心を読むまでもなく、それは決まった未来だった。 「残念」 エレインはバンを見つめ直した。まぶたを持ち上げて、瞳に力をこめる。口角をひっぱりあげた唇からは、高くて軽いトーンをこぼした。 「無理よね、人間には。ここにずっといるなんて」 これは最初から決まっていたこと。だからそれ以上を考えてはいけない。たとえば森の魔力を総動員して、彼をこの場所に閉じ込めてしまおうだなんて<強欲>は、妖精王の森の聖女には似つかわしくない。 にっこりと、エレインは笑う。バンはエレインのこの顔が好きだった。なのに、今のバンはエレインの笑顔を喜ばない。彼の心のオルゴールは、うんともすんとも言わない。心に靄をかけてしまった彼の無表情を見つめて、エレインは重ねて自分に言いふくめる。 彼は森を出て行く。いつか。エレインを残して。 そうなると、ひとつ問題が生ずる。エレインはバンの上半身を覆う青い服に目をやった。 エレインの魔力で仕立てた彼の上着は、彼女から離れては形を保てない。バンがこの姿で森を去れば、早晩、服はもとの花びらに戻ってしまうだろう。 「その服、あげられないわね」 「何で?」 バンの心は何者にもとらわれない、広くて自由なもの。なら、心を収める体もまた自由でなくては。そう考えたとたん、パンジーブルーのジャケットが彼を縛る鎖に見えた。どこまでも果てしなく飛んでいきそうな背中を、いけない重しで覆ってしまうのは嫌だった。 バンは縛られない。 悲しい生い立ちにも、長い孤独にも。縁もゆかりもない森で、たまたま出会った妖精族の女に、彼が縛られていいはずがない。 「だめなのよ」 落ちたエレインのトーンに、バンの目が大きく見開かれる。バンを想って紡いだパンジーブルーは、彼の髪の白さと紅い瞳の色をひきたて、惚れた欲目を引いてもよく似合っていた。 「エレイン?」 だからこそ、だめだ。彼を繋ぎとめてはいけない。バンが去った後、途方もないほどの寂しさがエレインを襲うだろう。それでも、バンが、バンでなくなるのは嫌なのだから。 「似合わないから」 エレインは笑って、肩をすくめて、心にもないことを口にする。バンに心が読めなくて良かった。笑顔を笑顔のままで受け取ってくれる人で良かった。そう切なさに心を浸しながら、エレインはすこしも表に出さないよう努力した。 「やっぱり人間じゃだめよ」 バンのせいではないと、せめてもの言い訳をしてエレインは魔力を解く。とたん、ブルーの服はパンジーの花びらへと変わって彼の肌を滑り落ちた。 ひらひらと舞い、彼の足元にちらばるそれらは、エレインが彼を想う気持ちそのものだ。その一枚を、しゃがんでつまみあげたバンは眉をひそめる。 「もったいねぇなぁ、気に入ったのによ」 「しょうがないのよ」 その言葉はエレインのためのものだ。バンが人間であることも自由な外でしか生きられないことも、エレインが妖精であることも泉を守り続けなければいけないことも、誰のせいでもない。 だが次のバンの言葉は、自制につとめるエレインを嘲笑った。 「ま、こっちを捨てられるわけじゃねぇけど」 バンのもうひとつの手が伸びる先には、脱ぎ捨てられたクロムイエローの上着。つんつるてんの服をまといなおす姿に、エレインの胸は刺されたような痛みを訴えた。 サイズはてんで合っていないのに、バンと長く共にある黄色の布地は、彼の表面にぴたりと沿った。そこに見たのは愛着だ。何者にも縛られないはずの彼が、その服にだけはこだわりを見せる。 そんな上着にまつわる「誰か」の存在を、エレインは感じ取らずにはいられない。自由なはずのバンの心を、たったひとつ縛っている鎖の持ち主。その「誰か」に成り代わる機会を、エレインはたった今捨てたのだ。 バンはその場であぐらをかいた。足元に散った、自分の服だったはずの青い花びらを寄せ集める。手のひらいっぱいのパンジーブルーを弄びながら、バンは口を開いた。 「お前なら、人間の服でも似合いそうだけどな」 バンは黄色い上着に向ける、エレインの悲しみに気づかなかった。エレインの言葉や態度を、ありのままに受け取ってくれる彼に、彼女の心は安堵と不満で二分される。納得してくれて良かった。どうして問い詰めてくれないの。二種類の言葉はエレインの胸の内でぶつかり合った。それらをうまく整理する時間ほしさに、エレインはバンの話に応じた。 「人間の女の子って、どんな服を着るの?」 「そうだな、俺が見たことあるやつなら……」 フリルのついたブラウス、刺繍の入ったスカート、編みこまれたフリンジ付きのショールに、花をあしらったヒールの靴。バンが語る人間の女の子のファッションは、エレインのシンプルな装いとは対照的だ。 「服だけじゃねぇぞ。指輪やらイヤリングやら、ゴテゴテ着飾るのが好きなやつが多いな」 「妖精族にもいるわ。木の実や花のつぼみで作るの」 「それじゃガキのおもちゃだ。大人の女は宝石や金が好きなもんだぜ」 彼の頭に、もう彼の上着をめぐってエレインと交わしたやりとりは残っていない。バンの移り気が少しおかしくて、エレインは少しだけさびしかった。 バンは過去の盗みを語った。大きな屋敷の女主人は、ダイヤに尋常でない執着を持ち、彼女の宝石箱には100個以上のダイヤの指輪があるともっぱらの噂だった。もちろんバンは全て盗んだ。しかし、そのほとんどは模造石にすぎなかった。 どうやら彼女の蒐集癖は身の丈に合わなかったようだ。逼迫した家計に、彼女は肝心のダイヤをこっそりと売り飛ばし、模造石とすりかえてはコレクターとしての体面を保っていた。宝石への並々ならぬ愛情から始まった彼女の虚栄心に、エレインは首をかしげる。 「人間ってやっぱりわからないわ」 そんなわからないことだらけの人間の中で、ただバンひとりが眩しい。隣にいるだけで、その瞳に映っているとわかるだけで、心が急いて体が熱くなってくる。エレインの前に立つ彼に、アクセサリーは無用の長物だ。 「アクセサリーと言えばなぁ……」 バンが手を叩いた。彼女のコレクションの中で、数少ない「本物」をバンは思い出す。ピンクトパーズをあしらった、アゲハ蝶の髪留めだった。 「いい値にはなったが、もったいねぇことしちまったかも」 「どうして?」 「お前なら、似合うかと思って」 バンの、紅い瞳がエレインを映している。彼の瞳の中にいるエレインの頭には、アゲハ蝶の髪留めがきらめいているのだろうか。 「男の俺が持っててもしょうがねぇ。さっさと売っちまったけどよ、お前にやるって使い道もあったよなぁって。あん時はまだエレインと会ってなかったからなぁ、しゃーねーか」 バンの軽い調子の、しかし熱烈な告白に、エレインはぽっと頬を紅く染めた。バンが贈り物をする女性に、その筆頭に、自分が上げられていることに胸が騒ぐ。高価なアクセサリーへの憧れはない。エレインにあげたかったというバンの気持ちに、どんなに綺麗な髪留めよりも、エレインは強く心を惹かれた。 唐突に、エレインはバンに上着をプレゼントしたことを恥ずかしいと思った。バンの自由がどうこうという話ではなくて、もっと単純に、自分のやったことが、好意を形にして差し出すものだと気づいて顔を覆う。 『いいじゃんいいじゃん』 『もったいねぇなぁ、気に入ったのによ』 今になって彼の言葉が、エレインの想いへの返事のようで落ち着かない。あの時、バンは気持ちはどうだったろう。思いがけないプレゼントを喜ぶ以外の感情が、混じっていなかっただろうか。彼の心のオルゴールの音を思い出そうと、エレインは記憶の棚をひっくり返した。だがその作業を、止めてしまうのもまたバンの言葉だった。 「お前はそんなもん、いらねぇか」 エレインははっと顔を上げる。アゲハ蝶の髪留めを、欲しいかとエレインに尋ねようともしない、バンの心をエレインは読もうとした。けれど果たせなかった。バンの指が、エレインの髪に触れたから。 耳の下をくぐって、長い指先がエレインの金髪を優しくもてあそぶ。彼はじっとエレインを見ていた。耳元でくるくると巻き上げられる毛先の感覚に、エレインの熱がまた上がる。火がついたような内側に対して、手足や頭は石にされたかのように動けない。 バンは薄く微笑んでいた。穏やかな紅い瞳に、斜陽に縁取られたエレインの姿が溶け込んでいる。しかしもっと眩しいものを、エレインは目の当たりにしていた。 バンが、光っている。 エレイン越しの夕陽に、銀色だったはずの彼の髪が金色に染まる。その下で、彼の瞳のルビーが赤々と燃えていた。 「キラッキラしてら、お前。宝石みてぇ」
あなたのほうこそ。
少し照れくさそうに、微笑む彼にエレインは心の唇で囁いた。なんて綺麗なの。こんな光り輝くものが、自分のものならどれほど幸せだろう。エレインは少しだけ、人間の欲深さがわかる気がした。 だからこそ、エレインは改めて思うのだ。彼に鎖は似合わない。着飾る必要すらない。彼は、生まれ持った色彩だけで美しい。エレインの傍にいなければ、形も保っていられないような服は必要なかった。 ならせめて、私の気持ちを。 縛る気なんてないから。いずれここを飛び立つ彼の重荷にもなりたくもない。だからほんの少しでいい。彼女の何かが、彼の心の片隅に残れますように。エレインは目の前の、美しい男を見つめてそう願った。
顔に覚えのない、鎧姿の女は言った。 「お前の心臓に俺の名を刻みつける」 バンの胸で、女の刺した剣が動いた。バンの肉をえぐりながら、女はうっすらと笑う。一体何が楽しいのか。女が恍惚に浸れば浸るほど、バンの心は醒めていった。 何言ってんだ、コイツ。 女の言葉が、遅ればせながら、ようやく頭に染み込んでバンは眉をしかめる。胸から競りあがった血が塊となって口から溢れた。 誰だ、コイツ。いや、誰でもいいか。 女なんて、皆同じだ。背が高いか低いか、乳房がでかいか小さいか。顔なんてほとんど区別してない。王女や、同僚でさえ、本音のところでは大差ない。たとえこの世の男の十人の、十人全員が美女と称えようと、バンの目にはどいつもこいつも目くそ鼻くそ。バンの心を動かさないブスばかりだ。 「俺を女にした責任は取ってもらうぞ」 バンを恨んでいるらしい、やはりブスな女の言い分にバンはせせら笑う。ブスは言うこともブスだった。バンの瞳に、美しく映るのは「彼女」だけだ。バンの耳に、心地よく囁けるのも「彼女」だけだ。見ず知らずのブスが欲しがるバンの心臓は、とっくに「彼女」に捧げられている。 そんなにやりたければ、ご自由にどうぞ。気道を血が塞いでいなければ、バンはそう言ってブスに微笑んでやっただろう。初めから、バンに抵抗する気はなかった。なんなら今この場で胸を割いて、ブスの仕事を手伝ってやろうか。あとは暴かれた肋骨をご自慢の剣で断ち切って、その奥に隠された脈打つ臓器を掴み出せばいい。
そしてとくと見ろ。 血を噴き蠢く肉塊に刻まれた、「彼女」の名を。
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