額や頬、唇の端、手の甲に指の関節。バンの体で赤黒く染まったそこここを見渡して、エレインは言った。 「あなた、傷だらけね」 エレインの言葉に、賊と名乗った青年は目を見開く。キツさのある顔立ちがたったそれだけで愛嬌のあるものに変わり、彼を幼く見せた。それなのに、その口からあふれる言葉はちっとも可愛くないことを、エレインは知っている。 「ほっとんど、エレインのせいだけどな」 この高さから何回突き落とされたと思ってるんだ、と真顔で返された指摘に、エレインはカッと頭に血をのぼらせた。せっかく心配してあげたのに。反射的に、肩を怒らせて言い返す。 「そっ、それが私の仕事なのよ!」 生命の泉を守る聖女として、為すべきことを為しただけ。ムキになって主張するエレインに、バンは夏の明け方のようなカラリとした笑顔を返した。
軟膏より手のひらを
エレインは自分の務めを果たしただけ、バンは自分の欲求を満たそうとしただけ。互いの利害が合わなかった結果の負傷を、エレインが気に病むことはないとバンは笑った。 『舐めてりゃ治るさ』 歌うように、バンは言う。ふざけた様子に、しかしはったりや誤魔化しは感じられなかった。彼は本心から言っているのだとわかれば、エレインはますますバンを傷つけたことを悔やんでしまう。彼と出会ってエレインは多くの部分で変わって言ったけれど、その中の一つがこの憐れみの情だ。彼がここに来る前の700年もの間、たとえ相手がバンと同じ種族とは思えないほど下劣な性を抱えた人間であっても、殺めて平然としていられた自分が不思議ですらある。 「バン、遅いな……」 バンは食べるものを探しに行った。彼の脚や嗅覚なら帰ってくるのにそう時間はかからないだろう。そのわずかな孤独が、エレインには耐えがたい。バンが現れてからというもの、ひとりの時間がひどくゆっくりと流れていくように感じるのだ。 エレインは、空を見上げた。大樹の深緑から漏れる木漏れ日が、エレインにまだらの模様を落している。 「薬草?」 「大樹に群生する植物のほとんどには、何らかの薬効があるわ。このアセアの実の汁は傷の治りを促すし、ヘルバの葉は殺菌作用があるのよ」 山ブドウやマルベリーを手に戻ってきたバンに、エレインは彼が不在の間の収穫を披露した。ベリーをほおばりながら、怪訝そうな顔をするバンの目の前で、エレインはアセアの実とヘルバの葉を混ぜ合わせる。木の実の殻でできた椀の形をした器も、エレインが森の中で見つけ出したものだった。 バンが食べているマルベリーと、アセアはオレンジがかった色味以外、形も大きさも変わらない。そのアセアと白っぽいヘルバの葉は、混ぜるとエレインの肌によく似た色の汁を出す。できた少し粘り気のある汁を、エレインはバンの唇の端の傷につけてやった。 「痛ぇ!」 エレインの指先が触れるなり、びくんと肩を跳ねさせたバンは叫ぶ。あまりの大声に、エレインは呆れたように眉をひそめる。 「おおげさね。ちょっと沁みるだけよ」 「ちょっとってもんじゃねえぞ、おい、こら、やめろって!」 食事も放り出して、逃げようとするバンをエレインは追いかける。さっきまで傷の痛みなどなんとも思っていなかったくせに、沁みるのが嫌だなんてまるで小さな子どものようだ。バンの嫌がりように、半ば意地になったエレインは森の力を借りてでも彼を抑え込もうとやっきになる。 もちろん、エレインは本気でバンを拘束するつもりはない。バンにもそれはわかっていて、また彼も本気でエレインの厚意から逃げたがっているわけではなかった。 「わーった、じっとすっから。枝で縛んのはナシ!」 じゃれ合うような攻防を繰り返しているうちに、じっとしている方が楽だと気づいたバンが音を上げる。ようやく大人しくなったバンに、エレインはご満悦だ。 「いい子ね、バン」 先ほどよりも慎重に、丁寧に、エレインはバンの額や口元の傷に薬を塗る。約束通りバンはもう暴れなかったが、それでも痛いと文句を言い続ける。 「しょうがないなぁ……」 まだ手の傷が残っているのに、と困った顔をするエレインはあることを思いついた。痛い痛いと文句の多い彼の頬に、エレインは手を伸ばす。 「エレイン?」 何してんだ? 見開いた彼の赤い両目が語る言葉は、心を読むまでもなくエレインに伝わる。真っ直ぐに注がれる視線が少し恥ずかしくて、エレインは唇をもぞもぞとさせながら笑った。 「『手当て』って言うでしょ。こうして手を当てているだけで、痛みが楽になる気がしない?」 それはエレインが、兄によくしてもらった仕草だった。幼いころ、それこそ聖女になるよりずっと以前のころの話だ。きっぱりとものを言う気性はさておき、無茶をして大けがをするタイプではなかったエレインは、それだけにうっかり作ってしまった傷の痛みには慣れていなかった。小さな怪我の痛みにも耐え切れず、いつも隠れて泣いていたのだ。 そうして、エレインが気丈さの裏に隠した痛みに、真っ先に気づいてくれたのはいつも兄だった。 過ぎ去った懐かしい思い出を胸に、エレインは「手当て」の効能を語る。しかし、当のバンは目をぱちくりとさせるばかりで一向に打ったものが響いてこない。その理由を、エレインはもう察することができていた。 彼は経験したことがないのだ。彼は本当に、こんなことすら誰にもしてもらったことがなかった。痛みから気を反らすために手を当てる、ただ、それだけのことすら。 胸にこみ上げる切なさを押しとどめて、エレインは残った手の甲の傷に薬を付ける。沁みる感覚を予感してか、一瞬バンの手が震えたけれど、それ以上は動くことなくエレインの指に任せている。 「マジだ。沁みねぇかも。すげぇ」 バンの零すシンプルな感嘆がかわいくて、それだけに一層エレインの心が切られるように痛む。全ての傷に薬を塗り終えて、エレインはバンの頬から手を離した。遠ざかるエレインの手を、見送るバンの眼差しが名残惜し気だったのはエレインの願望だろうか。 「これ、持ってると良いわ」 残った薬を、エレインは別の小さな殻に詰める。木の実でつくった即席のケースを、手当てしたばかりのバンの手のひらに握らせた。 「バンは平気だって言うかもしれないけど、怪我をしたら痛いでしょう。最初は沁みても、この薬には痛みを抑える効果もあるわ」 バンの大きな拳をエレインは小さな両手で包み込む。これは、いずれ旅立つだろうバンへの餞別だ。 顔や手の傷が癒え、ラベルコレクションを語り終えた時、彼はこの森を去るのだろう。それはわかりきったことだった。ならせめて、彼のために練った薬が自分の代わりに彼と共にあればいい。そうして彼が傷に薬を塗るたびに、一瞬でも良い、この薬を与えた女の子のことを思い出してくれればいい。 それ以上の願いは、泉の聖女たるエレインには欲張りすぎた。 「いらねぇ」 だから、バンのこの一言は胸に刺さった。離れていても傍にいたい。矛盾を抱えた願いを真っ向から否定された気がして。きゅっと唇をかみしめるエレインの手に、バンのもう片方の手のひらが重ねられてエレインは顔を上げる。映ったのは、相変わらず本心を隠さないバンの幼い表情だった。 変なことを言うんだな。バンの顔に、はっきりとそう書かれている。そして彼は、その表情を言葉に変えた。 「エレインがずっと一緒にいりゃ、こんなもん必要ねぇだろ」 あけすけなバンの言葉は、エレインが聖女たるべく固めた覚悟を容易く打ち破る。決して溶けない氷のように、砕けない石のように、エレインの心に重くのしかかっていた聖女の像が木端微塵にされてしまう。
一緒にいて。
エレインの本心が、奔流となってほとばしる。連れ出して。どうかここから、あなたの手で。解き放たれる心を、バンの手のひらが優しく強く抱きしめてくれている心地がした。
セネットにもらった軟膏のケースは、蓋に花の絵が描かれた金属製だった。傷によく効くからと、酒を漁りに立ち寄ったキッチンでセネットから託されたそれを、バンは屋上で宙に放り投げる。投げては捕まえ、投げては捕まえ、手の中で弄びながら、バンはもう一つのケースのことを想っている。 20年前、エレインにもらった薬は、魔神族の襲撃のさなかにどこかにやってしまった。不格好な木の実のケースだけではない、バン秘蔵のエールラベルコレクションもしかり、二人が7日間を過ごした森も泉も全てが焼け落ちた。二人の思い出になるものは、バンが植えた種から芽生えた、新しい妖精の森を除けば何一つない。 そんな、失くしたはずの軟膏が、形を変え、相手を変え、けれどエレインのそれとよく似た言葉を添えてバンの手のひらの中にある。まるで部分的なタイムスリップに陥った感覚に、バンは戸惑っていた。 『傷を受ければ痛いはずです』 セネットの、当たり前のことを当たり前のように言う言葉は、のどに刺さった小骨のようにバンの神経を刺激する。セネットには悪いが、やはり精神衛生上、長く持っていていいものではないと判断したバンは、エリザベスの元へと足を運んだ。 「王女さん。これアンタにやる」 「バン様、これは?」 「それは私の娘特性の軟膏ですね。よく効きますよ」 ダナの太鼓判に、エリザベスは受け取ったばかりのケースに嬉しそうだ。ほら、これだけで、自分が持っているよりずっとマシだったとバンは納得する。そして、傍らでこちらを見上げてくるメリオダスと目を合わせた。 「セネットに礼言っとかないとな」 「そういうのは、団ちょに任すわ」 そっけないバンの言い様に、メリオダスは興味がないのだと受け取ってくれたようだった。エリザベスを中心にできた輪を離れて、セネットの元から取ってきた、新しい酒瓶の蓋をあけてバンは酒を煽る。アルコールは、あっという間にバンの脳をゆるめにかかった。 不死者の身に軟膏はいらない。体を半分に裂く傷すら、耐えていれば消えてなくなるのだから。 酔った頭にエレインの声がよみがえる。きっと、セネットの言葉に触発されたのだ。 『怪我をしたら痛いでしょう』 ああ、痛い。だが、そのわずかな時間に与えられる痛みを、バンは欲してもいた。 ぐにゃりと曲がった思考の中で、バンが想うのはいつもひとりのことだ。本当にバンを癒したいと思うなら、苦痛から守りたいと願うなら、どうか彼女をここに連れて来てくれと、理不尽な願望を口走りそうになる。 「エレイン……」 バンの痛みを癒すものがあるのなら、それはもうこの世のどこにもいない、彼女の手のひらの温もりだけだ。
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