額に触れたやわらかさに、エレインは大きな両目をぱちくりとさせる。琥珀色の瞳から金の絹糸のような睫に、滲ませたばかりの涙が伝った。 「え……」 押し当てられた温もりは一度ゆっくりと離れ、再びエレインの額の、先ほどとは別の場所に触れる。音もなく押し当てられる温度は皮膚に染み入り、杯から溢れ泉に広がる波紋のように、エレインの心をざわつかせた。 そしてもう一度、離れたそれは三度目にしてエレインの頬に描かれた涙の軌跡たどり着く。目を見開いたままのエレインの視界に、切れ長のまなじりが映り込んでいる。ぴったりと閉じられた瞼は、特徴的な赤い瞳と、いたずらっ子な落ち着きのなさを覆い隠してしまう。残された堀の深い凛とした面差しが、ざわめくエレインの心に忍び入った。 「バン?」 おそるおそる、エレインは名を呼ぶ。目の前にいる彼が、エレインの額と頬にキスを落した彼が、自分の知る彼なのだと確かめるために。 「おう、エレイン」 低く男らしい声が返るのと、頬の温もりが遠ざかるタイミングはほぼ同じだった。離れていく体温を追って、エレインは視線を上げる。赤い二つの眸子が、すぐ近くでエレインを見下ろしていた。ルビーのような輝きに吸い込まれそうになりながらエレインは、バン、と自分にキスをした彼の名を舌の上に転がした。 「どうして?」 目の前にいる彼がバンだということも、彼が自分にしたことも承知で、エレインはなおも尋ねる。いとけない問いに、バンは笑うでも茶化すでもなく、優しい無表情で答えた。 「泣いてたろ、お前」
優しいおまじない
兄の話をしていたのだった。人間にかどわかされた友を追って、全てをエレインに押し付けて出て行ってしまった兄のことを、つらつらと思い出すままに、隣で聞いているバンの理解に配慮することもなくエレインは呟いていた。 「私は兄さんの代わりよ。随分と役者不足の」 エレインでなければ、いけない役目ではなかった。神樹に選ばれた妖精王を除けば、妖精族に身分の上下はなく、また果たさなければならない役目も存在しない。あとは本人の能力と自負の問題である。エレインは、妖精の森を守護する力も気概もないまま、ただいなくなった妖精王の妹というだけで聖女へと祀り上げられた。 そうして700年強いられた孤独に心を凍らされ、とはいえ兄を憎むことも出来ないまま、帰りを待ち続ける。そんなあいまいに死んでいくような時間の流れに、成すすべのない自分のみじめさの中で、エレインは泣いた。心を哀切のつるに、まきとられそうになって流した涙だった。 バンから施されたキスは、そんなエレインの涙を最初に流れた一粒を残してひっこめさせた。 バンのキスに、エレインは驚いた。彼の唇のやわらかさに、押しつける力の優しさに、慰めてくれているのだとエレインが気づいたのは、彼の唇が頬から離れて数秒たったころだ。エレインが泣いていたからそうしたと、語る本人にエレインは質問を重ねる。 「誰に、教わったの?」 こんな方法を。 案の定、バンは自分でやっておきながら「さぁ?」と首を傾げている。そうでしょうね、とエレインは心の中だけで呟いた。 エレインは、バンの半生を「見て」いる。人の記憶を覗き見ること、過去を知ってしまうこと、どちらも今では後ろめたさが残る。そんな気持ちにさせてくれたのはバンひとりだけだったけれど、エレインが見た彼の過去は孤独と飢えの展覧会だった。どこをどうひっくり返してみても、エレインにしてくれたような優しいキスに繋がりそうな思い出は見当たらない。 ロクでもない人生。 彼がそう一言でくくってしまう過去を前に、エレインは憂いの影を抱え込む。出会う以前の彼の人生に、エレインは触れることが出来ない。また、出会ってしまった現在から過去を振り返ってみたところで、彼の人生の色合いを塗り替えることのできる言葉をエレンは持たなかった。 ただ平穏に、ただ静かに。争わず、ぶつからず、日々を過ごす。それこそが、あるべき妖精族の姿だ。だが、それは傷つけあった果てにわかりあうことも、自分を損なってでも誰かを慈しむこととも無縁な世界でもある。だからエレインは、バンの過去を前に立ち尽くす。エレインの悲しみに、真綿のようなキスを添えてくれた彼を慰める方法がわからない。そんなことを望むことすらおこがましいほどに、エレインは兄以外の他者との関わりを持たなかった。 バンはどうだろう。 誰かに受け入れられるということを、バンは知らない。誰もかれもが自分を、そして自分もまた誰もかれもを通り過ぎていくと、彼は信じている。その彼がエレインにキスをした。木漏れ日に触れたような、あたたかなキスをくれた。 涙が止まる、おまじない。 そう、彼に教えた誰かがいたのだろうか。 「間違ってたか、俺」 嫌だったか。失敗したか。眉を顰め、唇をゆがめたバンの表情はどこか滑稽ですらある。表情筋がよく動くのだ。顔を曇らせるバンにエレインは首を振った。 「あなたはきっと、間違ってないわ」 事実、エレインの涙は止まった。胸から溢れて零れて、けれど行く先もなく溜まり続け溺れてしまいそうな哀しみが嘘のように引いている。まるでエレインの涙に染み込んだ悲しみが、バンの唇に吸い取られてしまったかのようだ。それは魔力とは違う、あたたかな魔法だった。 「ありがとう、バン」 そうしてエレインも、優しいおまじないをバンに返す。ふわりと浮きあがり、高い所にある彼の頬に唇を寄せた。彼の心の底に、暗く溜まるものが少しでも消えていきますようにと。 顔を離して向かい合えば、バンが視線を泳がせている。照れくさいのだと、彼のわかりやすさが愛しかった。 「ま、その、よ……お前が泣き止んだなら結構なこった」 バンは不思議な人間だ。エレインの心を騒がせる。この700年というもの、ピクリとも動かなかった心をだ。聖女になる前も後も、バンといるときほど胸が高鳴ったことなどなかった。 バンが笑うと嬉しい。バンがしょげていると落ち着かない。心はあちこちと飛び回り、エレインの気持ちを揺さぶる。 「お前はのほほんと、笑ってるのがいいぜ」 ようやくいつもの笑顔を見せるバンに、またエレインの胸は熱くなる。心の熱は頬へとのぼり、兄の不在を嘆いていたときとは違う理由でエレインの涙腺を緩ませた。 兄がいれば良かった。 エレインの世界は、神樹に選ばれた強い力を持つ兄がいれば完結した。その兄が消えた時、エレインの世界に大きなほつれが生まれた。バンはそのほつれを繕い、さらにエレインを新しい世界へと繋ごうとしてくれている。人間の世界、騒がしくて、争いあうけれど、過ちを正し、わかりあい、愛し合う世界だ。バンが、生きている世界だ。 「だけどねぇ、バン。もっと、特別なキスもあるって知ってる?」 いつか、兄の親友が口にしていた。つがいとなる人間同士が行うキスは、この世で最も強力な魔法なのだと、彼は言った。 あの時は、エレインは彼の話を不潔だと詰ったけれど、バンとならと想像してしまえば嫌な感じは少しもわいてこなかった。むしろドキドキと胸の奥で熱いものが暴れ出す。 「特別、ねぇ……」 バンの反応はつれない。人間の世界にあるはずのものは、バンの世界にはまだ存在していないらしい。つまりそれは、彼に特別なそれを、この世で最も強力な魔法を施した「誰か」がまだいないということだ。そう考えてしまえば、エレインの頬は火が付いたように熱くなる。 いつもバンに新しい世界を教わってばかりのエレインが、その最初の特別を彼に与えられたらいいのに。 「いつか、教えてあげるね」 その時がくれば、バンの過去の暗い色をエレインが塗りかえることもできるのだろうに。
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