森を出よう。
バンは走っていた。
森を出よう。
エレインの手を引いて森の中を。
行こう。ここじゃないどこかへ。
うっそうと茂る木々の間を抜け、ランダムに伸びる枝を飛び越え、前途をさえぎる葉を振り払って、バンは妖精王の森を飛び出そうとしていた。
あと少しだ!
バンの声に彼女の繋いだ手の力が強くなる。同じ力で握り返し、バンは最後の茂みをついに飛び越えた。密集していた木の陰が嘘のように消え、空が開ける。日差しが目に刺さり、刹那、世界は真っ白になった。 短いハレーションを抜けた先は、平坦な荒野。森の外へと飛び出した興奮が、バンの全身を支配した。飛べる。今なら、空にも飛び立てそうな高揚感。ふわりと浮かび上がる軽い足取りに、バンが引っ張っていたはずの重みが消えた。 大切な、彼女の重みが消えた。空になった手を見つめて、呆然となる。あわててバンが後ろに体をよじると、エレインがすぐ後ろに立っていた。
どうした、エレイン。
エレインの足元には、こんもりとした小さな茂み。バンが一足で飛び越えたばかりのその奥で、彼女はまだ森の中にいる。ギリギリの際から、出てこようとしない彼女にバンは尋ねた。
私は、ここまで。
バンが差し伸べた手に、彼女は小さな頭を左右に振った。
何言ってんだ。 ここから先は、あなたひとりよ。 エレイン!
お前が言ったんだろう、とバンは吼える。連れて行って、と願ったのはエレインだ。だからバンはここまで駆けてきた。黒妖犬を振り切り、チキン・マタンゴを踏みつけ、森の意思を帯びた樹々たちから逃れてたどり着いた。それなのに、これ以上はいけないと当のエレインが立ち尽くしている。 森の外と内。二人を隔てる茂みを乗り越えるのは、彼女に向けて差し出したバンの腕一本。その先にある手を、エレインは握ろうとしない。
エレイン!
せっつくバンに、エレインは悲しく笑う。次の瞬間、世界は赤く彩られた。夕陽の赤をもしのぐ炎の色は、眼前の森を飲み、瞬く間にエレインを覆う。悲鳴ひとつ上げず、彼女は、バンの目の前で燃え尽きた。
家に帰して
「おい、バン。ちょっと待てって!」 急くように先を目指すバンの後ろから、ジェリコの不満げな声が追いかけてくる。腐っても聖騎士見習い。魔神の力とはいえ、一度は聖騎士にも昇格したジェリコだ。女だてらにも体力はあって、ほとんど走るようにしながらも息を切らしていないのは立派だった。それでもコンパスの違いはいかんともしがたいのだろう。バンの倍ほどは足を使って、引き離されまいと懸命だ。 「少しは休もうぜ」 肘を掴まれ、しかたなくバンは立ち止まる。振り返って見下ろした、彼女の顔にはバンを案じる色があった。休もうという提案自体、彼女が疲れているからではない。夢見の悪かった、バンのことを気遣っている。それがわかるから、なおのこと今のバンにはジェリコのまっすぐな視線が痛い。彼女の鳶色の眼差しに滲む、自分への思いやりが辛かった。 バンは目をそらし、そっけなく肘を振ってジェリコの手を払う。とたんにむっと顰められる彼女の眉が視界の隅に見えて、胸が痛んだ。 「彼女」もそうだった。バンに邪険にされると、いつも小さな眉間に皺を寄せた。そして決まって、小さな声で「バン兄」と呟くのだ。 「だったらひとりで休んでやがれ」 夢は、エレインの死に様だった。煉獄の炎に包まれ、彼女はなすすべなくバンの目の前で消し炭と化した。最低な悪夢から揺り起こされ、真っ先に見たのはジェリコの顔だ。心配げなその表情は、妹と重なる。歳も取れずに死んだ、哀れなキリア。ジェリコに罪はない。だがエレインとキリア、二つの死に苛まれたバンに、彼女を気遣う余力はなかった。 「朝から何も食ってねぇし、顔色悪ぃし」 「メシの気分じゃねぇし、死にゃしねぇんだ、ほっとけ」 こんな言い方しかできない自分が、バンは嫌いだ。言葉遣いはジバゴに正された。孤独な心は、エレインとメリオダスに癒された。だがいつもギリギリの淵で生きてきた心は、いつになっても余裕を持てないままだ。 「ほっとけっつったって……」 妹が最後に倒れたとき、バンはまたかと思った。ろくな食事も与えられないキリアは、限界まで腹がすくとうずくまって時間が過ぎるのを待っていた。だからバンはいつものようにキリアをその場に置き去りにして、仕事にでかけた。その日は運よく果物が手に入って、それがキリアの好物であったから、バンは急いで彼女の元に戻った。しかし彼女は見向きもしなかった。熟してもいない、皺だらけで、ところどころ黒ずんだ実だったけれど、いつものキリアなら目を輝かせて飛びついたはずだった。 せっかくとってきてやったのに。がっかりとした気持ち半分、腹立たしい気持ち半分で、バンは彼女の前でその実を食べた。それでもキリアは地面にうつぶせたまま動かなかった。 そうして、キリアは死んだ。腹いっぱい食べることも、清潔な服を身にまとうこともなく、彼女はたった4年ちょっとの短い生涯を終えた。 「ほっとけねぇから、言ってんだろ」 妹が倒れたとき、自分はどうするのが正しかったのか、今でもバンは考える。父親を呼びに行けばよかったのか。あの男が、何とかしてくれたとは思えない。彼女を担いで医者に連れて行くべきだったか。文無しのバンたちを、あの町の医者が診てくれたわけがない。 「俺は心配して……。わかれよ、バンのバカ野郎」 ならせめて、彼女のそばにいれば。優しい声を、かけてやればよかったかもしれない。ジェリコのように、案じているのだと、拙い言葉でも伝えてやれば、妹の苦しみも幾分かは和らいだだろうか。 かわいそうに。親にも、兄にも恵まれなかった、幼いキリア。彼女の死に、涙は出なかった。腹の底からこみ上げる熱いものを感じただけだ。その熱い何かをどう扱い、何と口に出すべきか、幼いバンはわからなかった。 ひとつの死は、また別の死を思い出させる。バンが哀れなキリアのことを想ったのは、エレインの死に際に立ち会ったときだった。エレインの死はバンがじかに触れる二度目の死で、一度目の、キリアの死よりも多くのことをバンに教えた。
理不尽。
動かないエレインを抱えて、バンはキリアとの死に通じる想いをそう名づけた。 キリアの何が、死に値した。エレインはなぜ死ななければいけない。死んでいいはずがない。彼女たちが、何の咎もない彼女たちが死んでいいはずがない。彼女たちの亡骸の前に立ち尽くす、この男のほうがよほど罪深い。 俺を見逃しておく、生かしておく道理はなんだ。胸の内で逆巻く理不尽を、バンは天に向かって吼えた。黒い煙を吸い上げる赤い空に、バンは声が枯れるまで呪詛の言葉を吐き続けた。 そうして今、バンはもうひとつの死を抱えている。育ての親、理想の父と慕った男と、再会したのは昨日のことだ。30年ぶり以上の対面で、ジバゴは無明の荒野をさまよっていたバンの心に光をかざし、そして死んでいった。 最期まで、不肖の息子を案じてくれた彼は、どこまでも「父親」だった。年老いた狐男の亡骸を、バンは大切に抱きかかえていた。 丸一日ピクリとも動かなかった妹の体を、父親はまるで汚いものでも拾うかのように摘み上げた。父親の仕草と表情にバンは口を曲げた。確かにキリアは汚かった。でもそれは彼女が着替えも風呂も知らなかったせいで、与えることも教えることもしなかったのは彼女をゴミのように扱う父親自身だ。 あの男と同じまねをバンはジバゴにしたくなかった。そして、バンは「父親」が眠るべき最後の地を探している。 ジバゴが息を引き取ってから夜が明けるまでの時間、バンは彼のそばを離れなかった。ベッドに横たえたジバゴの枕元に、額を預けてまぶたと閉じた。そうしてエレインの悪夢を見たのだ。あれは一体、何かの兆しなのだろうか。あまり、良い予感はしなかった。 「バンッ! 聞いてんのかこの野郎!」 ジェリコが叫ぶ。育ちが良いくせに、妹より口が悪い。こいつの口の利き方もジバゴに直してもらっておくんだった。うんざりとして振り返れば、ジェリコが腰に手を当てて仁王立ちしている。彼女の背中越しに見える広い景色に、バンは目を見開いた。 「この辺でいいんじゃねぇかって、さっきから……!」 小高い丘に、晴れた空。見下ろすレイブンズの町並みはいびつながらもこれはこれで味わいのある風景だ。不潔でろくでもない生まれ故郷も、離れてみれば点景のひとつでしかない。この町はもちろん、どこの世間からも、ジバゴは迫害され闇に生きてきた。そんな彼にようやく与えられる救いの地として、町を見下ろすこの場所はふさわしいようにバンの目に映った。 「掘るぞ」 ジバゴの亡骸を横たえ、バンは父のための墓を掘る。付き合うジェリコは汗をかいていた。自分に直接かかわりのないジバゴのために、額に汗して、土にまみれる彼女の姿はけなげだった。 ひとつの死が別の死を思い起こすように、ひとつのけなげさはまた別のけなげさをバンに思い出させた。 ジェリコには兄がいる。魔に堕ちたヘンドリクセンと対峙した王都決戦で、彼の姿はバンの視界の隅でちらついていた。
ジェリコを殺さないでくれ。 ジェリコの仇だ! 思い知れ!!
彼自身重傷を負いながら(しかもその傷は妹に負わされた)、それでもしきりに妹の身を案じるグスタフの姿は、バンの目に今の彼の妹と同じくけなげに映った。 当のジェリコは、グスタフの悪口しか言わない。堅苦しい、息が詰まる、俺の気持ちをわかってくれない。ジェリコが酷評する兄と、実のところバンはひそかに関わりがあった。それは戦いの最中ではなく、悪が滅び、王国誕生祭の準備に誰もが心躍らせているさなかだった。
妹が、お世話になりました。
バンに向かって、綺麗に傾けられた背中の角度。折り目正しい最敬礼は、魔神の血に飲まれた妹を救い出したことへの感謝だった。眼前で頭を下げる生真面目な青年が、紅玉の聖騎士であるとともにジェリコの兄だと知ると、バンは返事もそこそこに彼に忠告をした。バステ以来の因縁を抱える彼女に、これ以上自分につきまとわせないようにするためだったが、バンに寄せる妹の執着を聞かされた時、グスタフはまず驚き、次に戸惑い、最後にはひどく複雑な表情で黙り込んだ。 こういう顔を、はて、どこかで見たなとバンは思った。それが、エレインと自分の関係を知ったキングと同じものだと気づくのにそう多くの時間はかからなかった。 グスタフは良い兄だ。妹をむざむざと死なせた、自分やキングよりずっと。 そんなグスタフがジェリコに何を言ったか、バンはあずかり知らない。だがおそらく、兄の説得は効果がなかった。結局、王国誕生祭の翌朝、バンがリオネスを離れると同時にジェリコも家を出た。彼女の言い分を聞く限りは家出同然だ。もう何日も帰らない妹に、グスタフが青い顔をしていることは容易に想像がついた。 「てめーはもういい。退がってな、ジョリコ」 「何言ってんだよ、まだまだだろ」 「服が汚れっぞ」 「どうってことねぇよ、こんくらい」 ジェリコは籠手をつけたまま汗をぬぐうから、額や頬が土で汚れた。こんな彼女が実は良い家の娘だということを、バンはもう知っている。みっともない姿に、バンは顔をしかめた。 「何やってんだ。言わんこっちゃねぇ」 恥じることのない出自、不自由を知らない暮らし、過干渉のきらいはあっても妹のことを第一に考える兄もいる。そんな彼女と、ないない尽くしだった妹のキリアの面影が重なるのはなぜなのか。彼女と旅を始めてから、ずっとそんな疑問がバンの胸の中でもやついていた。 「な、なんだよ」 ジェリコがバンをにらむ。垂れぎみの丸い瞳も、ぽってりとした唇も、キリアとは似ても似つかない。それでもバンは、ジェリコの頬についた泥をぬぐってやった。乱暴な仕草にも、一体どこがいいのか、自分に惚れているらしい彼女は頬を染めあげる。 「バ、バン……!」 初心なところは、大切に育てられてきた証だ。この世の汚いものも、浅ましいものも、彼女を害するものは全てグスタフが排除してきたのだろう。まっすぐにこちらを見上げるジェリコの瞳に、バンは突如気づかされた。
後悔だ。
バンの目に、ジェリコとキリアが重なって見えるのは後悔のせいだった。妹のために、何一つ満足に与えてやれなかったバンの後悔が、ジェリコとキリアを結びつける。あたたかな家も、食べ飽きるほどの食事も、綺麗で女らしい服も、そしてできることなら勤勉で品行方正な兄まで、バンはキリアに与えてやりたかった。キリアをジェリコにしてやりたかったのだ。 帰してやらなければ。エレインのことだけで満たされていたはずのバンの心に、そんな願いの火が灯る。点いたばかりの火はまだ小さかったけれど、確かな熱量でバンの思考を動かし始めていた。
帰してやりたい。幼い妹を、良き兄の元に。
自分にまだ、償いの機会が与えられるのなら。キリアを喪い、エレインを喪い、ジバゴまで喪った自分に、残されたものが彼女なら。彼女を、どうか無事に家に帰してやりたいとバンは願うのだった。
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