「思い出はいつだって美しいものよ」とギーラは言った。
恋わずらい
(何をしてでも、俺は必ずお前を生き返らせる!) おとぎ話でしかないと思っていた、妖精の住む森。そこでバンは、妖精の少女を腕に抱いてそう言った。物言わぬ少女がすでにこの世のひとではないことは、離れた場所にいたジェリコの目にもわかる。 けれど、一体いつ彼女は亡骸となったのか。 一糸まとわぬ肢体の、肌は生きているかのようにみずみずしい。閉ざされた瞼に生えそろった睫も、呼吸をしない小さな唇も、生前の姿を知らないジェリコにさえ彼女を可憐さを伝えてくる。 (たった一人の女を生き返らせるため) バンはどうやらこの命のない妖精に想いを寄せていて、彼女の蘇生を目論んでいるらしい。エレイン、と呼びかける少女に見せる、彼の尋常ではない執着にジェリコは激しく動揺した。 「あんな顔も、できたんだな……あいつ」 彼女が彼にとってどんな存在なのか一目瞭然の光景に、ジェリコは決して自分に向けられることのないバンの「愛情」の在り処を知る。つまりそれは、彼が彼以外の誰かを愛する心を持っていることでもあった。 (ムクぞ、コラ) バンはジェリコに関心がない。彼女が何をしていようと、彼は彼のやりたいように行動するし、邪魔をすれば平然と彼女を辱めた。今も妖精王の森を好き勝手散策するジェリコに、彼は追いかけも忠告もしない。比べるまでもなく、とうに死んでしまった妖精の小娘のほうが彼にとって重大事なのだとつきつけられれば、さすがのジェリコも恋心がくじけそうになった。 <強欲の罪>を背負う大罪人・不死身のバン。その性格は不埒、傍若無人で奔放を極める。そんな、世界の中心は俺だと言わんばかりの男が、何に代えても取り戻したいと願う彼女。彼と彼女の間にあるものに、ジェリコは触れられそうもない。 「可愛かったな……」 目を閉じていても、ピクリとも動かずとも、あの妖精の少女は愛らしかった。金色の髪は艶やかで、白い肌はなめらかで柔らかそうだ。バンがあの少女の外見だけに固執しているとは思えないが、おそらく自分とは対極にいそうな妖精の儚さにジェリコはほぞを噛む。 「ちくしょう……!」 また頭の中がめちゃくちゃになりそうで、ジェリコは手近な木の根を蹴っ飛ばしてみるがもちろん気は晴れない。誰かに何か言ってほしくて、胸の中のモヤモヤを吐き出したくてたまらなくなる。とはいえ、同行するもうひとりの<七つの大罪>相手にしゃべる気にもなれず、ジェリコは懐に忍ばせてきた呪言の玉を取り出した。 生前のヘルブラム卿からこっそり失敬したそれは、短時間ではあれど離れた場所にいる人間と会話することができる。少し考えて、ジェリコが話し相手に選んだのはギーラだった。 「思い出はいつだって美しいものよ、ジェリコ」 そうして呼び出したギーラに、仔細はなるべく伏せたまま、自分が見たもの、そこから感じたことについてジェリコは吐き出した。どんなに可憐でも、どんなに愛しんでいたとしても、とっくに死んでしまった小娘の何が良いんだ、とにじり寄るジェリコにギーラが返したのがこの台詞だ。 「記憶はただの情報。そう言う人がいたとしても、私は、『思い出は違う』と言い返すでしょうね」 ギーラの声は淡々としていて、その抑揚のなさが寂しくジェリコの耳に届いた。 「俺にはよくわかんねぇよ」 「記憶と思い出が違うのは、そこには当時の感情だけでなく、今自分が抱えている悩みや願望が照らし出されているからだと思うの。とても歪んでいて、だからこそ美しいものなのよ」 過去を賛美する言葉を紡ぐギーラには、恋人がいる。バンと同じく<七つの大罪>のひとりである男と、どういう経緯か結ばれたらしい。一足先に恋や愛を知った彼女なら、ジェリコの悩みの種に良いアドバイスをくれると思って打ち明けたが、声から察する彼女の感情は暗かった。 「恋人がいるお前は、今がバラ色かと思ってたぜ」 極めつけは、ジェリコのこの台詞に彼女が黙り込んだことだ。呪言の玉の通信時間をジェリコが怪しみ始めた頃になって、ようやくギーラの声が返った。 「ゴウセルとは、別れたわ」 静かな声だった。だがまさかの急展開を聞かされたジェリコは、静かではいられない。何だって? 何があった? と問い詰めてみるものの、ギーラはそれには何一つ答えず、ジェリコの最初の疑問に絞って言葉を紡いでいった。 「私にとって、一番の思い出は父よ」 恋人だった男について、語ることを拒むようにギーラは早口で言い募る。 「父は決して完璧なひとではなかった。欠点もあって、嫌いだと思ったことも一度や二度じゃなかったはずよ。家族ですものね。でも、そうとわかっていても、私の中の父はいつだって優しくて、その父を私は今も深く愛していて、父が立っている思い出の景色は美しいの……」 まるで自分に言い聞かせるようなギーラの言い様に、少女の亡骸を抱きしめるバンが重なる。 バンにとって、一番の思い出はあの妖精の少女で。たとえ生前にどんな欠点を持っていたとしても、バンの思い出の中の彼女はいつだって眩しいほどに美しい。今この世界に生きている、あらゆる美女もかすむほど。 つまりは、そういうことだろうか。 「綺麗だから、何だってんだよ……」 ジェリコにとって、思い出は弱い自分を映す鏡だ。まだ優しかったころの兄とのやりとりも、女の子らしく飾った部屋や可愛がっていたぬいぐるみのことも、ギーラのように眩しく心に思い描くことはできない。どちらかといえば、ふとした折に顔を出すそれらを、無理やり上から抑え込んで、力づくで蓋をして縄で縛り付けて、大きな石をくくりつけて井戸の底に沈めておいてしまいたいとすら思う。 「思い出は、どんなに綺麗でもただの思い出だろ」 だからジェリコは思い出に囚われて生きていけない。正義や信念も後回しに、ひたすら先を求める生き方しか知らなかった。 「触れないし、返事もねぇし、新しいことだって何にも起こりゃしない。現実には勝てないだろ」 それは果たして、バンに伝えたかった言葉かもしれない。そんな切ない顔と声でお前が何を言おうと願おうと、一言も返してくれない相手に尽くして何になるんだと、胸ぐらを掴んで揺さぶりたかったのかもしれない。 ただきっと、そんなことをしたらバンに殺される。それだけはわかって、ジェリコはバンと妖精の娘の間に割って入ることが出来なかった。そんな逡巡がなおさら、ジェリコを焦らせる。 ギーラの言い分は、なんとなくわかった。それが、バンがあの妖精の娘に寄せる想いと通じるところがあることも、どうにか飲みこめる。けれどその結果は、ギーラやバンとの隔たりをジェリコにつきつけるばかりで、何の解決にもならなかった。 「そうね。だから、あなたが彼にアピールできるとすればそこよ」 そこへ投げかけられたギーラの言葉に、ジェリコは顔を上げる。 「現実の手触りは、人の目を過去から未来へと向けさせるわ」 あの妖精の少女がバンに与えられないものを与えることが出来たら、バンも少しはジェリコに興味を持ってくれるかもしれない。ギーラとのやりとりは、そんなヒントを残して途絶えた。 「バンに……俺が、与えられるもの……」 再び一人に戻った、ジェリコは考える。やはり直接的に考えれば、女の肉体というところだろうか。もはや冷たくなってしまった妖精の少女には、できないことなのは確かだ。 だが、バンはバステ監獄でも王都でも、そして妖精王の森においても、ジェリコの裸体に微塵の興味も示さなかった。この意味では、彼はジェリコをジェリコの望む通り「女扱いしない」珍しい男と言える。 ジェリコは男になりたいと望むと同時に、男という生き物を嫌っていた。きっかけは兄のグスタフだ。 (女だてらに聖騎士など目指すな!) (女、女ってな。男がそんなに偉いのかよ!) 思い出の中の兄は、優しくジェリコを可愛がってくれた。ギーラの言葉を借りれば、「いつだって美しい」理想的な兄だ。だが彼は歳を重ねるごとに厳格さを身に着け、ジェリコを遠ざけて行った。そして二言目には、自分が男でこの家の跡継ぎであること、ジェリコが女であることを口にする。兄に突き放されればされるほど、ジェリコは男と女の違いを憎むようになった。自分のもとから逃げ出そうとする、ぬいぐるみに道を示されたのはちょうどそんな折だった。 そうして女を捨てる覚悟で聖騎士見習いになれば、性差への憎悪は男への蔑視と形を変えていく。男所帯の騎士団生活で、数少ない女だったジェリコの身の回りに何が起こったかはあえて説明する必要もないだろう。 男は女の体が好きなもの。そんな偏見に凝り固まったジェリコの前に、バンが現れる。男のくせに、彼は鎧を剥かれ「女」になったジェリコに目もくれなかった。そのことが、皮肉にもジェリコをいたく傷つけた。その上、もうぬくもりもないかつての恋人を、健気に想う姿まで見せつけられれば女の面目が丸つぶれだ。ジェリコが捨てたはずの「女」を、バンは無自覚に拾い集めて投げつけてくるからタチが悪い。 (俺を女にした……、責任はとってもらうぞ?) かつて彼に切った啖呵が、今になって猛烈に恥ずかしい。向けられた本人は微塵も記憶していないだろうとわかるから、なおさらだ。バンへの憎しみも、愛しさも、初めから今日までジェリコのひとり相撲が続いている。 そんなバンに体で迫って、果たしてジェリコの恋は実るだろうか。例えバンが振り向いたとして、自分は嬉しいのかとジェリコは眉を顰める。とどのつまり、バンも他の男と同じだと思い知らされ、恋は色褪せてしまうのではないだろうか。 手近な木にもたれて、ジェリコは目を閉じた。瞼の裏に、ここにいない、ジェリコのことを頭の片隅にも置こうとしない、バンのことを思い描く。 鍛えられた体、軽薄なのにどこかまろやかに響く声、ジェリコを抱え上げたときの腕の固さ。バンから発せられる「男らしさ」はジェリコの胸をときめかせるのに、彼が「男」であることを知るのが怖い。 「俺は、何がしたいんだ」 あの小娘に勝ちたいのか。何がどうなれば勝ったことになるのか。バンに女として見てもらえた時か。彼が過去を忘れて今をその目に映した時か。彼に触れられた時、その望みは叶ったと思っても大丈夫なのか。 彼が人を愛せることを知っただけでこの有様だ。まかり間違って彼から触れられるようなことになったら、きっと心臓が止まる。それでも自分は、彼に触れてほしいと望むのだろうか。
わからない。 わからないのに、彼を想う動悸はおさまらない。
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