月夜の狂行 ― バン×ジェリコ




 満月には少し足りない、月が不穏な夜だった。
 岩をベッドに酒を煽るバンの、遠い眼差しの先には豚の帽子亭の屋根が月明かりを背負っている。尖った影になった屋根の下では、窓から、時おりメリオダスの小さな影が覗いている。看板娘(エリザベス)が城に戻ってしまった豚の帽子亭の店長(マスター)は、どこか孤独に引き立てられていた。
 邪悪に呑まれたヘンドリクセンを破り、国王(リオネス)には平和と秩序が戻った。国中が、復興と祭りの準備に大わらわだ。豚の帽子亭も、この稼ぎ時に張り切っている。料理番であるバンにも、メリオダスはあれやこれやと仕事を押しつけていた。
 それが嫌で、店を逃げ出したわけではない。それが理由なら、リオネスの酒場にでも足を延ばしている。一人で酒を呑みたいのに、帰る家のないバンに豚の帽子亭はどこよりも居心地のいい場所だ。そこから離れるのは、メリオダスと同じ空間にいるのが耐え難いからだ。エレインのために、彼を殺そうとしたことが、バンの中で大きなしこりとなって残っている。

 女神族の約束が嘘偽りなら、友を失くす。

 戦いの熱が冷めるほど、ホークの言葉がバンの胸に刺さる。酒でも呑んでいなければやってられなかった。



 月夜の狂行



 「……」
 声にならないため息が、アルコールとともにバンの口から空に昇る。満月でもないのに月が眩しすぎて、夜空は星明りもまばらだ。妖精王の森で、エレインと寝転んで見上げた夜は満天の星が今にも落ちてきそうだったのに、妖精族に伝わる星座を語る彼女の琥珀の瞳を思い出すのにも一苦労だ。
 きらきら、きらきら、星屑を散らしたエレインの眼差しが恋しかった。もう一度、彼女に会えるなら、何だってしてやる。角笛の前で切った啖呵は嘘じゃない。
 嘘、じゃない。けれど。
 たぶん自分は、メリオダスを殺せない。彼が例え魔神にゆかりのかる男だとしても。それが、よくわかった。
 実力云々の問題以上に、彼とエレインを天秤にかける自分に嫌気がさした。あんな胸糞悪い戦いは二度とごめんだと、バンは記憶の中の角笛に背を向ける。女神族の「使命」を放棄しようとすると、後ろ髪をひかれる想いがバンの中で自己主張する。
 女神族の言う使命がエレインを救う唯一の方法なのだとしたら、そんな期待とも恐怖ともつかない感情が捨てられない。未練たらしい自分への苛立ちが募った。女神に唾を吐いた自分は、これからも無明の闇をひとりでさまようのだろう。
「この世の、地獄……か」
 もういいじゃないか。自分の中に、声が響く。
 どうせ死ねない体だ、エレインには二度と会えない。なら操を守る意味もないだろう。彼女のことなど忘れて、魔神族への憎しみも捨てて、果てのない人生を謳歌すればいい。
「だいたい、そのために妖精王の森(あの森)に行ったんじゃねぇか……」
 ロクでもない人生に、ささやかな幸せを。本当に、それだけだったのに。
 岩陰の近くから、草を踏みしめる気配がしたのはその時だった。軽い足音だが、メリオダスのものではない。彼なら魔力でわかる。ボトルの口に歯を立てたまま、バンは億劫そうに岩から身を起こした。木立に月明かりが遮られた影の境目から、女物の靴が覗いた。
「よ、よぉ、バン。月見酒とはシャレてんじゃねぇか」
 男のような乱暴な口ぶりにしては声が高い。声の主の全貌が、月下に現れた。
「ジャリコ」
「ジェリコだ!」
 肩をいからせて叫ぶ彼女は、鎧姿ではなかった。魔力を失い聖騎士としては死んだも同然。とはいえ、それでハイそうですかと騎士を辞めるとは思えない彼女の、今夜の装いは白いブラウスに紫のパンツスタイルで、袖口や裾にフリルをあしらった姿は意外にも女らしかった。
「んだぁ? てめぇこそめかしこんでんじゃねぇか。デートか?」
「違っ、これは、普段着だ!」
「そーゆーのが趣味かよ」
「こ、好みじゃ、ないか?」
 目をかっと見開いての上目づかい、夜陰にも赤くなっているのがはっきりとわかる頬。つり上がった眉と眉間のしわがアンバランスだが、どうやら彼女が自分に気があるらしいことはわかった。バンの中にある、他人から向けられる好意のサンプルはエレインがベースだ。そしてエレインは、こんな怒ってるんだか喜んでいるんだかわからない、防衛壁を幾重にも張り巡らした反応をしない。彼女の愛情表現は、目の前の少女よりもずっと正直だった。
 エレインより素直ではない、ジェリコは真剣な表情でバンの返事を待っている。わかりづらいけれど、いじらしい態度はバンに甘えたいと訴えている。エレインに教えられた、女心の切れ端がジェリコの行動の意図をバンに囁くのだ。
 エレインとは形の違う、好意を前にバンの闇に沈んだ心の一部がせせら哂う。こいつでいいじゃないかと。

 ずっと欲しかったんだろ。自分(てめえ)を受け入れてくれるやつが。

 エレインは死に、メリオダスとはこの有様だ。どういう事情か興味がないが、しきりに自分につっかかってくるこの女くらいしか残っていないだろうと、姿なき声は酔ったバンをそそのかす。バンにとって、この世の女はエレインかそうでないかの二択だ。だったらもう、誰だっていい。自分に好意を向け、受け入れてくれると言うのなら好都合だ。
 バンの無言に、自分の装いを気にしてフリルをいじっているジェリコを捕まえるのは簡単だった。
「ば、バンっ……!」
 およそ紳士的とはいえない誘惑に抗う気力は、酒がどこかに持っていってしまった。第一、バンは元を辿れば(バンデット)だ、女たちが望むような紳士とは程遠い。
 腕を掴んで引っ張れば、華奢な体はたやすくバンの言いなりになる。先ほどまで自分が寝転んでいた岩に、彼女を押し倒してバンはのしかかった。
「黙ってろ」
 耳元で低く囁くと、体の下で小さな肩が跳ねる。豚の帽子亭は離れているとはいえ、バンの感覚からいえば目と鼻の先だ。ジェリコが悲鳴ひとつ漏らそうものなら、異変を察知したメリオダスが駆けつけてくる。
 メリオダスの可聴範囲であることも、ここが野外であることも、バンは構わずジェリコの首元に手を伸ばす。上まできっちりと止められたボタンは、バンの長い指にからめとられた。
「バ……ンっ」
 自分が何をされようとしているのか、気づいたジェリコの声には焦りと、かすかな期待。どうやら彼女が自分に寄せる好意は、そこまでの覚悟があってのことらしい。実に好都合だと、バンはほくそ笑んだ。
 はだけた胸元は、月明かりを背負ったバンの影の中でも白い。そこに唇を寄せれば、やわらかな弾力がバンを迎えた。唇で、鼻先で触れたところで、すんと鼻を鳴らせば香水の代わりに石鹸の匂いがした。肌はなめらかで、聖騎士を名乗っていた割には傷一つない。
 鼻を通る清潔感も、きめの細かい肌も、ジェリコが健康的で豊かな生活を送ってきたことを語る。衣服の上等さなど言うまでもなかった。
 上流家庭の肌に触れながら、バンが想うのはエレインのことだ。彼女の肌に接したら、どんな心地がしただろうか。頬や手を重ねたことはあっても、こんな際どい場所に手を伸ばしたことはなかった。あのころのバンは、彼女にそんな不埒な想いすら抱けなかった。ジェリコの、鎧に押し込められていた乳房の弾力も、バンにエレインの形を思い出させることはできない。

 触れておけばよかった。

 彼女が息を引き取る間際、力ない体を抱いていたあのひととき、触れられるだけの肌を堪能しておけばよかったのだと、二度と手に入らない口惜しさにバンはもう一度鼻を鳴らす。ジェリコは外に来る前に風呂に入っていたのか、石鹸のいいにおいがよく残っていた。
 エレインからは、いつも花の匂いがしていたことをバンは思い出す。華やかで優しくて、ほのかに甘い紫の花の香りだ。彼女が近づいたり離れたりするたびに、ふわりと鼻先を撫でる匂いが好きで、バンはよく彼女にじゃれついていた。今でも、移動中に通り過ぎた花畑から香る匂い、逗留した村や町で女性陣が手に入れたハーブオイルから、彼女のものを嗅ぎ分ける癖が抜けない。
 エレインの匂いを思い出すのに邪魔になって、バンはジェリコの肌から口を離す。鎖骨のきわ、彼女の白い肌に鬱血の痕がついている。赤黒い痕跡は、魔神に貫かれたエレインの傷口を思い出させて、バンは眉をしかめた。
「バ、バン……」
 蚊の鳴くような声に、バンは視線を上げる。こちらを見上げる、ジェリコの眼差しとぶつかった。バンの影から逃れ、煌々と照る月光に赤く染まった頬をさらしたジェリコは、潤んだ瞳と震える唇でバンの次の行動を待っている。
 こんなエレインの表情を、いつか見たなとバンは思った。

 エレイン。
 エレイン。
 エレイン、エレインエレインエレイン……。

 彼女の名前がゲシュタルト崩壊を起こしそうなほど、バンの頭を占めるのは彼女のことばかりだ。逃れられない愛しさと、傷の痛みでは得られない苦痛に、バンの視界が滲みだす。あっという間に、ジェリコの顔もよくわからなくなった。
 見えない代わりに、バンはジェリコの頬を撫でた。エレインの身代わりにしようとして、結局果たせなかった彼女に、日頃の彼が嘘のような優しい手つきで詫びる。
 今夜のことに懲りて、こんなクソな豚野郎には二度と近寄らないようにすることだと、ジェリコに伝わればいいと笑った。
「おやすみ、ジェリコ」
 低く囁いて、バンは彼女の上からも、岩からも遠く距離を取った。そのまま振り返ることなく、豚の帽子亭とは反対方向に足を動かす。
 バンは走った。ひとりになりたくて。月も星からも逃れるように、バンは人気のない木々の間を走り続けた。



 バンが去った岩の上で、ジェリコは呆然と固まっていた。焦点を結ばない視界には、月を背にした豚の帽子亭の尖った屋根が映っていただろうか。ブラウスの前を大きく開かせて、鬱血のあとをつけられた姿は、まさに辱めを受けた哀れな少女そのものだった。けれど、月明かりの下で動けなくなっている彼女の内心は異なる。
「……あいつ、泣いてた」
 おやすみと告げる前、ジェリコを見下ろして笑う間際、あの男は間違いなく泣いていた。涙ひとつ、流してはいなかったけれど、あれは確かに泣き顔だった。
 ジェリコは胸に手を伸ばした。彼につけられたばかりのちいさな痣を指で撫でる。その下で、心臓がどきどきと暴れていた。
 驚きもときめきも突き抜けた衝撃は、かえってジェリコを冷静にさせる。嵐が過ぎ去ったあとの一過性の静けさに過ぎないだろうけれど、明日になれば恥ずかしさと怒りで彼を殺したくてしょうがなくなるだろうけれど、今この時だけは彼への想いに正直でいられる。

 好きだ。
 バンが、好きだ。

「責任、とらせてやる」
 野外で辱められそうになったことも、肌の純潔を穢されたことも、あんな泣き顔を見せつけられたことも、それがちっとも嫌だと思えないことも、全部全部責任を取らせてやる。ジェリコは一連のバンの凶行を知る月を見上げて誓った。






あとがき(反転)
ジェリコごめん……、バンもごめん……。
バンさんのエレイン一筋っぷりに、バンエレのプラトニックぶりについ筆が暴走してしまいました。こういうのも、一度くらい書いてみたかったもので。
ごめんなさい。

2015年8月22日掲載
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