「礼をさせてほしい」 父の一言で決まった食事会は、先ほどから屋上で始まっている。セネットは賑やかな声を階下のキッチンで聴きながら、決して「ささやか」ではない料理の追加作業に慌ただしかった。 わが身を襲い、父を見舞った数々の事柄について、セネットは未だ整理がついていない。あまりにたくさんのことが、一度に起こりすぎた。そのせいで、原因であり解決者でもある「彼ら」を労うのに、どうにも気分が乗らなかった。おかげで、憂い顔でふるう包丁の手も止まりがちだ。 「いけない……、まだ作るものはたくさんあるのに」 セネットは首を振り、メインディッシュのひとつである鶏肉を引き寄せる。中抜きした部分にハーブや野菜を詰めて、丸焼きするセネットの得意料理だった。巨人族の少女も含めた4人と一匹分の食事には、とにかく量が求められる。早々と下ごしらえにとりかかろうとして、セネットは肉を開こうとする。指に触れた生々しい感触に、セネットの背筋を悪寒が走った。身をこわばらせ固まったセネットの、鶏肉に触れる手だけがカタカタと震えている。 つい数時間前まで、セネットが囚われていたバステ監獄。そこでセネットはとてもこの世のものとは思えない光景を目撃した。眼下の鶏肉の塊が、血に染まる錯覚にセネットはぞっとする。 重厚な鎧をまとった聖騎士の、得物は確かに「彼」の胸を貫いていた。傷からも口からも大量の血を吐きながら、しかし彼は反撃におよび、あろうことか酷薄そうな笑みで聖騎士を殺めている。 何よりセネットが信じられないことは、あきらかに致命傷であるはずの彼の傷が、短時間で消えてしまったことだ。そう、あれは癒えるというより、消失したと言った方が正しい。 カタカタと、セネットの手が、肩が震えている。あのおぞましい光景をセネットに見せた彼と、その仲間たちは何者なのだろう。彼らを受け入れる父と、頭上から響く明るい声が、セネットを置き去りにしていた。 「酒ぇ~、切れてんだけど」 「アッ……!」 だからセネットが小さな悲鳴を上げるのも無理はない。セネットを恐怖のどん底に陥れた「彼」が、キッチンに姿を現した。
血まみれで哂うあなたに
「お、お酒、ですね……」 声の震えを抑えられない。ぎこちない足取りでセネットは酒類の戸棚を開く。手元が不意に暗くなって、ふり返ればすぐ後ろに彼がいた。細身だが父のダナをもはるかにしのぐ長身の影が、セネットをすっぽりと覆っていた。 「ひっ……!」 逆立つ髪は色素から見放され、それを補うように赤々とした瞳が禍々しい。頬から首筋にかけた大きな傷跡は、負けないくらい大きな口が凶悪な笑みとともに歪むさまをセネットは覚えていた。監獄で、彼は自分で吐いた血を嘗めながら、笑って聖騎士をその手にかけている。 「俺がやる。姉ちゃんはメシ作ってな」 殺された聖騎士は、彼を〈強欲の罪〉のバンと呼んでいた。 バンはセネットの肩を脇へ押すと、戸棚をあさりはじめる。ラベルをしげしげと見つめてはあれこれと独り言を述べる彼は、酒には一家言あるらしい。 バンはセネットに関心を払わない。だが彼がそばにいるだけで、セネットはかつての恐怖に過剰に反応する。料理を続けろと言う彼の言葉に従うふりをして、セネットはそそくさと彼から距離を取った。すると、追いすがるようにセネットの背に彼の声がかかる。 「そういや今夜のメシ、全部姉ちゃんが作ってんのか」 「え、あ、はい。あの、お口に合いませんでしたか」 「いや~、その逆。イイ腕してんな。特にハーブの塩梅が堂に入ってら」 まさかの賛辞に、セネットはまず驚き、口元を手で覆った。さっき触れた、鶏肉の生臭い匂いが鼻をつき、その手で抑えた口の奥から、遅れて喜びがわきおこる。バンが酒にこだわりがあるように、セネットは料理でのハーブ使いにちょっとした自信があった。 「ありがとう、ございます……」 「あのパイにオレガノってのは、考え付かなかったぜ。今度試してみっか」 バンは今日初めてセネットの料理を口にしたはずだ。セネットの作る食事を毎日食べている父ですら気づかないことを、今日軽くつまんだだけの彼が指摘したことにますます驚きが募る。 「お料理、なさるんですか?」 「似合わねえって?」 セネットの疑問に、戸棚から肩ごしに振り返ったバンが笑う。裂けたような大きな口もそこから覗く鋭い犬歯も、監獄で見たものと同じはずなのに、恐怖は湧いてこない。 「これでもいろいろと苦労してんだよ。メシくれぇ作れねぇとな」 気に入ったラベルを見つけたのか、二本のボトルを指に引っ掛けたバンが戸棚を閉める。その彼が傍らまでやってきても、セネットは震えなかった。 天井に迫りそうな長身をかがめて、バンはセネットの手元を見下ろす。 「食ったモンは身になるっつーだろ。それにどうせ食うなら旨いほうがイイ」 「わ、私も、そう思います!」 医食同源。健康な体は良い食事が基本と、偏食な父にたびたび注意してきたセネットは同志を見つけた喜びに前のめりになる。バンもそんなセネットに愉快そうに目を細めた。 バンの微笑みらしい表情を目の当たりにして、セネットの彼への評価が瞬時に改まる。冷静に考えてみれば、彼はセネットの命の恩人だ。あのまま監獄に留まっていれば、命の保障がないのはもちろん、下劣な看守にこの身を辱められていただろう。母の形見のダガーは奪われてしまったけれど、そもそも護身用として持たされたものだ。バンの気を引いた逸品は、奪われる代わりにセネットの身を守る役目を果たしていた。 何より彼らは、父とダルマリー救ってくれたではないか。バンが殺めた聖騎士が、父を手にかけた聖騎士の仲間であったことをセネットは思い出した。 恐怖と疑心が去ったセネットの胸に、目の前の青年への感謝が膨らむ。セネットは後ずさった。バンから距離をとるためでなく、背後の棚の引き出しを開けるためだ。中にしまっていた小さな箱を取り出すと、セネットは手のひらサイズのそれをバンに差し出した。 「あン?」 「受け取ってください」 金属でできた軟膏容器は、大きなバンの手の中でコインのように小さく見えた。花柄のあしらわれた蓋を開けると、中には生成り色の軟膏が詰まっている。 「傷によく効きます。どうか使ってください」 食用のハーブだけでなく、セネットは薬草についても日々勉強を重ねてきた。バンの手の中にある軟膏はその副産物で、農作業で小さな怪我の多い村人にも評判が良い。いずれは量産して行商人にでも取り扱ってもらおうと考えている自信作に、セネットはバンへの感謝を込めた。 しかし、セネットの感謝の印にも、バンの表情は明るくならなかった。低い声が、まるで忠告でもほどこすようにセネットの上に落される。 「監獄で見ただろ。俺には必要ねぇ」 彼の言葉に、あのおぞましい光景が再びセネットの脳裏に飛来する。本能的な恐怖にこわばらずにはいられないが、それでもセネットは顔を上げた。 「私は、医者の娘です。いずれ、父の仕事を引き継ぐ身です。ですから、傷ついた方に何もしないではいられません」 胸を突かれても、口から致死量の血を吐いても、平然と笑っていられる存在を前にセネットは怖くて何もすることができなかった。今振り返れば、医者を目指すものとして不甲斐ないことこの上ない。日頃穏やかで決して勇敢とは言えない父であっても、あれだけの負傷を前にすれば、恐怖を覚えようと頭の中では最善の治療法を模索していたことだろう。 「いや、だから、俺はな」 「たとえあなたの体が人知を超える力を宿していようと、傷を受ければ痛いはずです。その薬は痛みを抑える効果もあります」 バンの体が痛みを、苦痛を感じることは聖騎士との会話でわかっている。たとえ気休めでも、無いよりはましだと譲らないセネットにバンの表情が変わった。驚いた、不意をつかれたように目をわずかに見開いた後、瞼を伏せる。伏し目がちな表情に、切れ長の目元と、すっと通った高い鼻筋が強調される。 穏やかな微笑に続いて目の当たりにしたバンの人相の変化を、セネットは食い入るように見つめていた。凶悪な笑みがなければ、実はバンが端整な顔立ちをしていることに、この時セネットは初めて気づいた。 「んなセリフ、20年ぶりだな……」 ひとりごとのように落された声に、セネットは眉をひそめる。バンはセネットと5歳も違わないように見えるのに、彼の口からもれた20年という歳月は不自然に感じられた。そういえば、彼の仲間である刃折れの剣を持つ少年も、彼の通り名に不釣り合いなところがある。目の前にいるバンも、セネットが思うような年齢ではないのかもしれない。 「なぁ、姉ちゃん」 そんな疑惑も、バンからの呼びかけに霧散する。セネットの軟膏を握った彼は、凶悪さを差し引いた笑みで首を傾げた。 「気持ちはありがてぇが、やっぱ俺にはいらねぇもんだ。だからよ、仲間の誰かにやっていいか。俺と違って、傷だらけのやつばっかだからよ」 「もうあなたに差し上げたものです。お好きにしてください」 本当はバンに使って欲しかったけれど、受け取ってもらえるのならそれで良しとしようとセネットは引いた。彼の仲間が使ってくれるならば、間接的にバンの役に立ったということでもある。自分を納得させるセネットの脇を、軟膏を右手に、酒瓶を左手に持ったバンが厨房から屋上へ続く階段に向かって通り過ぎた。 キッチンと階段の境目で、ふと足を止めた彼はセネットをふり返る。軟膏を持った手で、バンはセネットの傍らにある鶏肉を指さすなり、ニィッと、見慣れた凶悪な笑顔を表に出した。 「焼いたチキンにオレンジソースかけてみな。マンネリ脱出できるぜ」 セネットは鶏肉を振り返り、キッチンの果物籠に積まれたオレンジを見る。チキンにオレンジ。パイにオレガノを意外がったバンと同様に、セネットはバンの告げた意外な組み合わせに胸を高鳴らせた。 ハーブは得意なセネットは、しかしソースのレパートリーにはずっと行き詰っていた。 「どうして……!」 なぜそれを知っているのか、今夜の食事で見抜かれてしまったのか。問いただそうと再びセネットが正面を向いたとき、すでにもうバンは屋上へと消えていた。 翌朝早く、セネットはメリオダスから母の形見のダガーの返却を受ける。 「バンの奴から。昨日の軟膏の礼だって。ま、もともとお前のモンだからおかしいけどな!」 大目に見てやってくれ、とバンをフォローする少年の笑顔にセネットも微笑む。礼はもう、ゆうべのオレンジソースで十分だったのに。 セネットは、戻ってきたばかりのダガーの柄を握った。そこに監獄でダガーを操ったバンの温もりが残っているような気がする。 胸に熱い小さな火が灯るのを感じながら、セネットはダルマリーを後にする大きな豚の影を見送った。そしてまたバンがこの村に来てくれる日を待ちわびる。その時までに、今度こそ彼に使ってもらえる軟膏を用意しようと、セネットは薬草研究に励むことを誓うのだった。
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